腹が減ってはなんとやら
『なかなかにおもしろいものであったぞ』
ブレザー服に着替えた小春は、部屋を出て階段を下りていた。
「……なにが?」
小春の顔はまだ赤いままである。
『ブラジャーとやらを着用するお主の表情と言ったらのぉ、毒でも盛られたかと思ったぞ』
右手に握られた携帯電話から、実に楽しそうな声が聞こえてくる。小春は、握りつぶしたくなる衝動に歯を食いしばり、なんとか耐えた。
階段を降り切った所で立ち止まる。ドアがいくつもあるが、小春は目的地が分からなかった。
『目の前にあるのは玄関だ。腹が減っておろう、まずは朝食にありつこうぞ』
神の誘導に従い、階段の反対側にあるドアを開ける。すると、ふわっと香ばしい匂いが小春の空腹を刺激した。ぐぐっと腹の音が聞こえ、唾液が口の中に広がる。
「遅かったわね。さっさと食べちゃいなさい」
先程の、部屋の外から聞こえた女の声と同じだった。キッチンで洗い物をしている、エプロン姿の女性は、どこか小春に似た顔つきであった。
『お主の母親にあたる者であるぞ』
女に聞こえないよう、ぼそりとそう言った。
「母親……俺の母……」
前世の記憶が蘇る。
いつも外で遊びまわり、泥だらけになって帰るアレクを優しく迎えてくれる母。寝るときには、いつもお伽噺を聞かせてくれた母。
そして、魔王に殺された母。
「小春?」
沈みかけた小春を知ってか知らずか、呼びかける新しい世界の母。世界は違えど、子を想う親の気持ちは共通しているかもしれないと小春は思う。
「ん、大丈夫。大丈夫だから」
こみ上げるものを抑えこみながら、朝食が置いてあるテーブルに向かう。
長方形のテーブルに、椅子が四つある。その一つの前に小春の見慣れない料理が並んでいた。
白米、味噌汁、卵焼きと朝食の定番といってもいい献立である。
「この木の棒はなんだ?」
二本の棒を両手に持ち、構えてみる。
「こんなに短いと戦い難いだろ」
『それは武器ではなく食器であるぞ。箸と言っての、料理を掴んで口に運ぶものだ』
「なるほど」と、小春は箸を両手に持ったまま、切り分けられた卵焼きを掴もうとする。しかし、力加減が難しく、つるつると切れ端が箸の間から逃げてしまう。
『そうではない。二本とも片手で持つのだ。まず一本を親指で挟んでのぉ、薬指の第一関節の上に置き、親指で挟んで……』
「ん? 親指? えっと……薬指ってのはどれだっけか」
前世ではスプーンが主流であったため、小春は苦戦を強いられていた。それ以前に、指の名称もあやふやである。
『お主……想像以上に阿呆なのだな。後で色々と教えてやらねば』
神は呆れながらも、謎の使命感に満ち溢れていた。