木野小春 16歳 女子高生
微かな振動を感じ、アレクは眠りから覚める。
体を起こそうとするが、全身を包む柔らかなものに拒まれていた。いつも寝具には、薄っぺらなボロ布を使用していたアレクには、体験したことのない心地よさである。
(……朝……か)
ふわっふわの羽毛布団を押しのけ、大きく伸びをする。寝ぼけ眼で周りを見回すと、見知らぬものばかり溢れかえっていた。
花柄のカーテンから朝日が漏れている。丸みを帯びた小さなテーブルの向こうにあるソファ。その上には、可愛らしいキャラクターのぬいぐるみが置かれている。
散らかっていない、清潔な部屋であった。
どれもこれも、アレクの住む世界には存在しないものだ。
(なんだろうな……。まるで別の世界に来たよう……な)
そして、アレクは完全に目を覚ます。
(おい……、おい! マジかよ……)
アレクは額に指を当て、記憶を巡らす。
魔王を倒したまではよかった。問題はそこからである。自らを神と名乗る美女に出会い、『新しい物語』とやらを始めさせられたのだ。
(ってことは、ここがゲンダイの二ホンなのか?)
『やっと起きたかのぉ』
聞き覚えのある声が聞こえ、アレクはベッドから飛び上がった。
(か、神か!? なんだ、どこにいる!?)
狼狽したアレクは、キョロキョロと神を探す。しかし、部屋の中には人影が見当たらない。
『ここだ。お主の右手に押し潰されておる』
(右手?)
視線を下ろすと、長方形の形をした固い物体が右手に覆われていた。
(なんだあ? こりゃあ……)
やはり見覚えのないものであった。
『これは携帯電話と言っての、この世界の主な通信・通話手段の道具である』
神の説明は理解できたが、こんな小さいものでどうやって通話するのか、にわかには信じられなかった。
『お主の世界では、魔法以外の方法だとせいぜい手紙くらいだからのぉ。なに、じきに慣れるさ』
心を見透かされているようだ。アレクは小さく舌打ちした。
『こちらでの生活は不安ばかりであろう。私が助言してやろうと思っての、この携帯電話を乗っ取った』
神の言葉の後に、携帯電話のディスプレイの明かりが点いた。真っ白の背景の真ん中に、小さな黒字で記されている。
おはようございます。
その文字は、アレクには所見であったのだが識別できた。これは朝の挨拶だ。
(おはようございます?)
『うむ、これが日本の言語である。知識としてお主の脳に蓄積されてあるから、今更覚える必要はないぞ』
他の国の言語は別だがの、と一言添える。
『ほれ、挨拶には挨拶で答えるのが礼儀であろう? それはこの世界でも同じことだ』
アレクは渋々であったが、朝っぱらから逆らう気力も湧いてこない。ここは、素直に従おう。
「おはようございま……す?」
喋ってみた違和感を覚える。やけに声が高いような、まるで……そう、女のような。
『鏡を見てみるかの?』
神は喉元を押えるアレクに提案した。
携帯電話の液晶が切り替わり、ミラータイプへと変貌を遂げた。
アレクは恐る恐る、液晶を覗き込む。
鏡には可憐な少女が映りだされていた。その少女は大きな目をぱちくりとさせている。
「……誰だ……これ」
後ろを振り返るが、真っ白い壁があるだけだった。もう一度、鏡を見て頭を左右に振ってみる。
鏡の向こうの少女は、それに同調するように肩に掛かった栗毛をさらさらと揺らしながら頭を振る。
「う……あああああっ!」
小さく叫んだアレクは、自身の顔をペタペタと触ってゆく。今まで体感したことのない、きめ細やかな肌、小さな鼻と口。
以前の世界では強面程ではないものの、女々しさなぞ微塵も感じられなかった。それが今では、面影さえもきれいさっぱりなくなっていた。
『どうだ? 実に可憐であろう』
神は心から楽しげに言った。
『お主は今日から、その姿で過ごしてもらうからの。ああ、ついでに名前も変更しておいた。アレクも良い名であるが、こちらの世界に相応しい名を付けたのだ』
携帯電話に再び文字が現れた。
名前:木野小春
『読めるかの? きのこはる、ファーストネームが小春でラストネームが木野であるぞ』
職業:学生
『高等学校へ通っておる。お主、学校と言うものに通ったことがなかったろう? いい機会と思っての。学年は二年生だ』
年齢:16歳
『誕生月は十一月、日付は七日である』
アレク改め、小春は茫然と液晶を眺めていた。