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黒須君の後頭部がハゲたらどうしよう

 「えぇ、どうしよう。先生どこ行っちゃったんだろ」

 さくらが走った方向に自分も走ってみるけれど、さくらの姿は見当たらないばかりか、なんだか遠くから銃声のようなものが聞こえた気がしてそれ以上進めなくなった。というか、戻った。さすがに銃は恐い。

 「……あの炎の中に、陣衛門はいますよって言ったら、どうしますか?」

 何もないところから突然声が聞こえて、千倉はびくりとなる。

 「え。何? 誰!?」

 「視線を床に」

 「おあっ!」

 指示に従って視線を床にやったら、何故かネズミのオモチャ。それが、後ろ足二本で立って千倉の方を見上げている。

 「うわあ」

 「散々吸血鬼と仲良くしていて、この事態の中、これくらいで驚かないでくださいね」

 「……はい」

 先手を打たれて、千倉は素直に言葉に従った。

 「で、黒須君があの中にいるの? やばくない?」

 「やばいですよ?」

 「助けた方がいいの?」

 「さあ」

 「さあって……」

 まあ聞いてしまった以上、助けるだろ普通、と千倉は障子に手をかける。庭を突っ切れば、結構近そうだ。炎の量は半端ないけれど、全てが炎に包まれているわけではまだ、ない。

 「でも、あの中には恐い人もいますよ」

 「恐い人?」

 「お兄さん、ですね」

 「大量殺人者の!」

 それは恐い。だけど、黒須がその人と一緒にいるというのは、もっと恐い。あんな炎の中で。だから、迷いは一瞬だった。

 「行く!」

 とりあえず様子を見るだけでも。万が一、黒須が困っていたら大変だ。このお節介な気質のせいで恥ずかしい思いも結構しているけれど、やっぱり放っておく事はできない。笑われたら頭をかいてあははと一緒になって笑えばいいし。

 「よく言いました。案内して差し上げましょう」

 ネズミはぴょんと跳び上がって庭に下りる。

 「ついてきてください」

 言ってちょろちょろと進むので、千倉は慌てて後を追った。

 離れたところにいるのに、ぞくっとするような炎の熱気を微かに感じて、千倉は一瞬背筋が粟立った。炎の勢いはかなり強い。それでも、退く気ににはなれなくて、ちょこまかと進むネズミを悪戦苦闘しながら追いかけて、庭の池の脇あたりまで来た時にふと思いつく。ドラマとかで火の中に救助に行く時、よく頭から水を被ってない!?

 迷っている暇はないのでとりあえず池に飛び込んでみると、ネズミが「はぁ!?」と声を上げたのが一瞬聞こえた。

 若干藻臭い水に頭から全て沈んで、ざばりと飛び出すと、鯉がびちゃびちゃと驚いたように側で跳ねた。池の脇でネズミが待機している。

 「……豪快ですね」

 「ないよりはましかな、と」

 千倉の返答に、ネズミはちょっと、いっちょまえに肩をそびやかすと、また走り出す。びちゃびちゃと水を撒き散らしながら、千倉もその後を追って、いよいよ燃え盛る建物の中に飛び込んだ。


 頬を殴られ、顎を殴り、何度も殴り合い、蹴り合い、もつれ合い、取っ組み合いながら畳の上に転がった。部屋の中の机や家具を蹴っ飛ばしたり、物が落ちて割れたり、そんな瑣末な音は気にならなかった。炎が部屋を取り囲むように覆っていた。その光に、黒須も兄も強く照らされて、炎の微妙な揺らめきにゆらゆらと陰影が揺れていた。がつん、と畳に頭を打ち付けられて、脳が揺れる。腹の上に馬乗りに乗られて、首の周りに両手のひらが回される。苦しくはなるけれど、苦しいだけだ。いくらそこを絞め続けられても死ぬわけじゃない。それを、兄も分かっているからその体勢のまま黒須の首筋に唇を近づけてきた。

 (苦しい……)

 兄に血を吸われて自分の血が足りなくなれば、動けなくなる。そのまま、炎に焼かれて死んでしまうだろう。

 (それは、まだ駄目だ。逝くなら一緒じゃないと)

 唇が首筋に当たる直前、黒須は思い切り右足を突き上げる。黒須を跨いで馬乗りになっている相手の足と足の間の当たりに狙いをつけて膝があたるように。当たった感触はあったし、相手は一瞬びくりと体を強張らせた。

 (さすが、痛みに強い……)

 自分ならきっと悶絶ものだ。まあそれはいい。喉を締め付ける兄の手が緩んだのをいいことに、黒須は両手を兄の首に回して、その首筋に素早く噛み付いた。兄の体がびくりと震える。口の中に血の味が広がる。同時に自分の首筋に牙が突き立てられるぴりりとした痛みを感じた。これだから、吸血鬼同士で血を吸うのは不毛なのだ。どちらが先に相手の血を吸い尽くして動けなくなるか、だ。吸うのが人の血ではないから、それが自分の血となってくれるわけではないし、美味しくもない。本当に、相手を倒すためだけの行為。

 体が痺れてくる。ただ牙にだけ意識を集中させて、動けなくなってもいいからとにかく、血を吸う事だけに意識を集中させる。兄の首に回した両手が落ちる。それでも口は放さなかった。兄も浮かせていた体は今は完全に畳の上に下ろして力が抜けている。それでも、首筋から牙は離れない。

 ばりばり、と部屋が焼ける音が聞こえる。火の爆ぜる暴力的な音。瞼が重くてもう開けないのに、その瞼を通してでも炎の明るさは感じられる。

 執念のように、兄の首筋にかぶりついた口だけは離さなかった。このままもろとも、兄とともに消えてしまう。それが自分の、一族の生き残りとしての義務だろう。

 さくらには寂しい思いをさせてしまうかもしれない。同属が一人もいなくなってしまう。でも、さくらは黒須にありがとうと言った。「信之助と一緒に生きられた。人生の最期まで看取ってやる事ができた。それだけであたしは、あんたに感謝してもしきれないよ」いつか言ってくれたことがある。だから、少し黒須は肩の荷が下りた。さくらはそういう強い人だから、きっと一人でもなんとかやっていくだろう。妖怪や、他の友人を作ったり。もしかしたら千倉と末永く仲良くやっていくかも。

 (千倉、か……)

 最期にもう一度会いたかったな、と思う。未練たらしいけれど。

 がくりと、圧し掛かっていた兄の力が抜けて自分の首筋からその口が外れるのを感じた。

 (……勝った?)

 思った瞬間、自分も体から力が抜けた。


 「黒須君!? いたら返事して!」

 眩しくて、視界がちかちかとする。炎にあおられて、影が激しく揺れる。肌の表面がじりじりと焼かれているようだ。長くは持たないだろう。

 「あっちの部屋です」

 ネズミの声にその部屋を見たとき、ネズミの毛に炎が燃え移る。

 あ、という間もなかった。ネズミの体がオレンジ色の炎に包まれてぱっと燃え上がる。あまりの事に呆然とする千倉の耳元に、声が聞こえた。

 「大丈夫です。あれは仮の姿。それよりも早く」

 その言葉に、少し安心してまた駆け出そうとしたのに、千倉はぴたりと足を止めざるを得なかった。炎が舞踊っている廊下の真ん中に、千倉の数メートル前方に立っている人影。その姿は、見覚えがあった。背筋の方から、体が震える。武者震いできるほど強くはない。標準よりも大柄とはいえ、普通の女子高生だし。素直に、恐怖だ。

 (たしか、弥之介、って呼ばれてた)

 黒須そっくりの男と体格の良い男の会話を思い返す。「お仕置き」をされてしまったのか、その青年の頬は腫れ、唇と鼻の下に血の跡がこびりついている。

 弥之介は千倉が自分に気づいたのを見て、多分千倉が青褪めたのが分かったからだろう、ちょっとだけ口元に冷たい笑みを浮かべた。

 「お頭を探してんのか?」

 「え?……あ、ち、違う、違い、ます」

 恐くて、上手く考えられなくて、舌がもつれる。

 「あの男を捜してるってんなら、どっちにしろ同じだ。あいつはお頭と戦ってる。……手出しすんなって言われてるから、俺はここで見張りしてた。あんたじゃ、張合いがないけど。ただの人間だし。だけど、邪魔はさせねえよ。あの人の邪魔になるものは全て排除する」

 「排除って……余計な事すんなってお仕置きされてたんじゃ……」

 「うわ。ムカツクとこ、ピンポイントで指してくんな。それだってあんたのせいなのに。まあ、でもお仕置きくらいじゃ俺のあの人への忠誠は揺るがないってゆーか。むしろ深まるっていうか」

 (やばい。心酔者だ。Mタイプの)

 「俺、あの人の事戦時中からずっと憧れてるからさ。少しでも役に立ちたいっていうか。結核で役立たずだからってメシをとりあげられて、餓死しかかってたの、血ぃくれて救ってくれたのあの人だし。町内会みんな失血死だったし。いい気味。だから、もう俺の命あの人のものって感じだよね」

 (血!? って事はこの人もタイプさくら先生の吸血鬼じゃん! 人じゃないじゃん!)

 更に青褪める千倉に、弥之介は酷薄に笑う。

 「ダイジョーブ。こう見えても、俺も吸血鬼の端くれだから、痛い様にはしない」

 逃げなさい! と叫び声が聞こえた。さっきまでネズミだった声だ。今までの飄々とした様子はどこへやら、切迫した声だった。だから、これはやばいのだと、千倉は直感する。それと同時に、足が動いていた。

 逃げる、のなら来た道を引き返さなければいけないのに、そのまま直進した。混乱していた。完全に。だけど、混乱の中でも確かに、一つだけ明確な意思があって。とにかく黒須を助けなければ黒須をこの炎の中から助けなければ黒須をこのまま放っておいたら炎に巻かれて死んでしまうとにかく黒須を救わなければ黒須を黒須を黒須を黒須を……。

 混乱の中でそれだけ思ったから、とりあえず千倉の体は直進した。目の前の青年に向かって、真っ向から。そして、それが結果的に、青年の虚をついた。

 予想外の行動だったのだろう。加えて、元々「お仕置き」のせいで弱っていた事もあった。青年は千倉のタックルを正面からまともに食らってその場に尻餅をついた。

 床に倒れる青年を見下ろして、さくら所有の軍隊式ダイエットDVDの教官の声が千倉の脳内に響く。『Right! Left! Punch! Punch! Kick !』全体重を腕に込めて顔面目がけてパンチフックストレート……。

 「……もう、それくらいにしときなさい。時間なくなるし」

 呆れたような元ネズミの声ではっと我に返ると、青年は気を失って床に伸びていた。

 (やばい。私、自分が恐い)

 思いながらそろそろと跨っていたその青年から腰を上げ、その体を廊下から引き摺り下ろす。このままここに寝かせておいたら完全に焼け死ぬし。そうなったら今の数万倍は後ろめたいし。

 「じゃ、まあ、正当防衛ってことで」

 建物からちょっと離れた地面に寝かせて目の前で合掌して、そう言い訳して、それから千倉は慌てて建物に書け戻る。

 「部屋はもう、わかりますね?」

 元ネズミの声に言われて頷いて、千倉は既に障子が焼け落ちて、ぽっかりと広がっている入口に飛び込んだ。

 「黒須君!」

 飛び込んですぐに、それは見つかった。人影が二つ、折り重なるように畳の上に倒れている。

 千倉は慌てて駆け寄って、しゃがみこんだ。手を触れようとして、その手を止めたのは、黒須の上に重なっていた男がぱちりと目を開けたから。

 (うっ……恐い人の方だ)

 でも、その人の下に黒須はいるし。躊躇の末、千倉はその人の下から黒須を引っ張り出す。男は、何も言わずに千倉の行動を見ていた。

 なんとか黒須を引っ張り出すと、「よいしょ」と掛け声をかけてその両手を肩に回して、担ぐようにする。

 (女として悲しい事だけど、デブで助かった)

 長身の黒須を担ぐには、普通の女子にはなかなか骨が折れただろう。

 だけど、そのまま立ち去るにも背後の人が気になる。いくら悪い人と言えど、炎の中に生きている人を取り残していくのはいかがなものか。人として。

 三歩ほど黒須を引き摺りながら悩みに悩んで、千倉は背後を振り返る。

 「黒須君を下ろしたらすぐ戻ってきますから、待っててください」

 言ったら、男は少し目を大きくした。それから少しだけ微笑む。

 (あ。今の笑い方、なんか黒須君に似てる)

 「私は、いらない。多分、待ってたんだ。この時を」

 その整った口元から聞こえてきたのは、とても静かな声だった。とても、大量殺人者の声とは思えなかった。

 「生きていくのは辛くて苦しくて……血を吸うと、少し気分が晴れるから。気を紛らわせる為にこんなことをしていただけなんだ。こんな毎日が終わりになるなら、それはそれで、いい」

 (悪い人、のはずなのに……)

 そんな恐い人に思えない。落ち着いた印象の、むしろ優しげな人に見える。さっき座敷の部屋で会った時はもっと恐い印象だったけど。

 男は静かに、目を閉じながら言う。

 「人は嫌いだ。だけど、同じくらい、私は自分が嫌いなんだ。……でも、陣衛門は好きだよ。さくらも好きだ。二人が楽しそうで良かった」

 いきなさい、と男は言う。

 「先にある茶室の棚の裏に隠し扉がある。そこから外に出られる」

 「……黒須君おろしたら、迎えに来ます」

 千倉は言って、急ぎ足で、それでも黒須の重みで大分ゆっくりになってしまっているのだけど、炎が囲む廊下を歩く。めりめりと言う天井や、ぱちぱちと火の粉が爆ぜる音が恐い。いつ天井が落ちてくるか、柱が倒れてくるか、炎が襲い掛かってくるか。

 茶室の入口は炎が少なかった。中までまだ炎が回っていない。ほっと息をついて棚を探してそれを動かしてみる。

 (……ダイエットで筋トレしててよかった)

 棚はかなり重かったけど、なんとか動いた。言われた通り、扉があった。カギはかかっていない。まるでこうなる事を予測していたかのように。錠が存在するのに開いていた。

 ドアを開けて、まず自分が外に出て、外側から黒須の足を引っ張る。

 (やばい。黒須君の後頭部がハゲたら私の責任だ……)

 結構ずるずると容赦なく引き摺った。後頭部が擦れているのは確実なのでそういう心配をしたが、この際どうしようもない。ザビエルになっても美形は美形だ。諦めて貰おう。

 (っていうか、後頭部だから気づかれないかも)

 何とか黒須を引っ張り出した先は、普通のアスファルトの道路だった。屋敷の外に通じる道だったのだろう。とりあえず黒須は置きっぱなしにして今度は兄の回収をしに、元来た扉を戻ろうとした時だった。背後でばりばりという音がして、屋敷を取り囲む壁の向こう側で、建物が崩れた。炎がひときわ大きくなり、暗い夜の空に白い煙と金色の火の粉が吹き上がる。

 一瞬見入ったようにそれを見詰めて、それから慌てて扉に戻ろうとする。でも、扉は押しても引いても開かなかった。戻れない。

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