鼻痛い
ぴんぽん、と軽快なチャイム音が鳴って、さくらが何かを言う前に、黒須が走って出迎えた。
「ちわーす。魔守です」
若い男の緊張感のない声が聞こえたと思ったら、黒須が引っ張るような勢いでその男をダイニングに迎え入れて来た。
「ん? 斎君じゃないのか?」
その姿を見て、首をかしげたさくらに、男は苦笑いをする。
「あいつは結構前に引退しました。ちょっとやらかしまして、今はただの人間として、彼女とよろしく平和に楽しく暮らしてるようですよ」
その言い方にはちょっとトゲがあった。
「へえ。あの斎君に彼女ねえ。意外。……で、君がこの地区の新しい魔守の代表?」
「の、遣いです。矢田って言います」
「姉ちゃん、世間話してる場合じゃないだろ」
黒須の言葉に、さくらはちょっと肩を竦める。これは、相当余裕をなくしている。
魔守というのは、この国の人や土地を「人ならざるもの」から守る組織だ。いわゆる「神」と言われているその土地土着の存在を中心に結成されている。外部から入ってくる「人ならざるもの」は有害無害を判別され、無害だと判断されれば魔守の許可を得てその土地に住まう事ができる。条件や場合によっては情報提供や保護もしてくれる。黒須たちのように人と共存するには血が必要とあらば、献血が手に入るように手配してくれたりもする。その土地によっても違うが、中心となる「神」がお人よしだったり、暇を持て余してたりすると、この国で暮らす上での日常生活のアドバイスをしてくれることもある。その代わり、無害登録された者たちは、必要に応じて魔守に協力したり力を貸したりしなければいけない。そういう組織だ。
逆に、もし魔守に有害と判断されれば、魔守はその存在の排除に力を注ぐ。
「俺も急な呼び出しだったんで、資料読みかけなんですが、黒須さくらさん。職業は吸血鬼でオッケーですか?」
矢田は手に持った書類に現在進行形でぱらぱらと目を通しながら尋ねる。
「そうだな」
「無害登録は……うわ。随分長生きっすね。222年前。黒須陣衛門さんは233年前ですね。合ってます?」
「ああ」
「そして、あなたたちが情報を欲しがっている『黒須蒼衛門』さんは、222年前に無害から有害登録に切り替えられ。それ以来ずっと有害登録のままになっている、という事で間違いありませんね?」
「間違いない」
矢田は資料を目で追いながら、顔をしかめる。
「これはひどいな。今まで二度、魔守と対峙した事があるのに、封印はできても退治はできてない。それで、結構人死にが出ましたね」
「今までの事はいい。問題は、今被害が広がってる事、そうだろう?」
さくらが言うと、矢田はちらりとさくらの顔を見て、また書類に目を落とした。そのまま、言葉を返す。
「あのですねえ。俺もこんなこと、言いたくないんですけど。はっきり言って、魔守の目的の第一はあんたたちではなく人を守る事です。こちとら被害者ゼロを目標にやってきてる。それが、今既に人死に二人だ。洒落にならない」
「斎君は、そういういちゃもんを一度もつけなかったのに」
さくらが言うと、矢田はむっとした顔をした。
「俺、アイツと比べられるの好きじゃないんですけど」
「素晴らしい劣等感だな」
「……おねえさん、手厳しいですね」
矢田が苦々しい顔で言うと、さくらは肩を竦めた。
「もちろん、俺たちだって出来る限り迅速には対処する」
横でいらいらと見ていた黒須がついに口を挟んだ。矢田は資料からようやく目を離して、黒須の顔を見る。
「対処って、また100年くらい眠ってて貰うんですか? 今まで二度、そうやって凌いでいるようですけど。それで何が変わるんです? 結局100年後悲劇は繰り返される」
ぱたん、と資料を閉じて、矢田はきっぱりと言う。
「ウチの主人の伝言を伝えます。魔守はもちろん協力したいと思っています。ただし、条件がある。今回こそは根本を叩く事。資料を読む限り、毎度魔守とあんたたちが協力し合って、退治しようとしても、封じ込めるのが精一杯だったようだけど、今回はそうはいかない。ウチの主人は一見甘そうだけど、厳しいもんで」
「そのようだな」
「主人は目星をつけています。前回と前々回に、奴を退治しきれなった原因を。気持ちは痛いほどわかるけれど、今回こそは、と御所望です」
さくらは軽いため意気を一つついて愚痴っぽく呟く。
「だから私、秋芳さん苦手なんだ」
男に担がれて連れて行かれたのは、屋敷の奥深くの部屋だった。男は一声かけて煌びやかな襖を開ける。その畳に、どんと乱暴に放られた。手も足も縛られているから勢いがついて、千倉は三回転くらい畳の上を転がって行く。挙句、止まったものの顔が畳を見ている位置で止まったため、周囲の光景は見れないし、鼻が潰れて痛い。
「……重かった」
男の密かな呟きにもちょっと傷ついた。
「騒がしい」
部屋の中から、別の男の声が聞こえた。低くてよく通る声だった。
(……なんか、この声、聞いたことあるような?)
千倉はそう感じて、確認したいのだけど、なにしろ状況が状況だから、大人しくうつぶせに硬直していた。
「すみませんお頭。お食事中でしたか?」
「もう少しで食べてしまうところだった。大事な人質だったから、君の闖入は逆にありがたいというところかな」
声に表情は感じなかった。感情がない声、というのを初めて聞いた。それは、なんとも不気味なものだった。
「龍川には連絡したの?」
「これからです。もうすぐ戦争の準備も整いますので、そうしたら」
「任せたよ。……ところで、その不味そうな子は誰?」
「お頭が注意しろって言った黒須とかいう高校生とよく一緒にいた女ですよ。彼女じゃないですかね。豚に真珠的な感じですけど。いざとなったら人質になるかもしれないって、弥之介がさらって来ました」
「君、多分豚に真珠の使い方ちょっと間違ってるよ」
言う声に、畳を踏むひそやかな足音が重なった。その音は、どんどん近づいてくる。微かな振動を鼻の下にある畳から感じた。
「どれ」
すぐ頭上で声が聞こえたと思ったら、すごい力で髪を引っ張り上げられた。痛くて痛くて、思わず「うっ」と小さく叫んで顔を上げる。
「へえ。これが、陣衛門の彼女」
目の前で見る事になってしまった男の顔に、千倉は息を呑む。整った顔立ち。僅かに緑がかった色素の薄い瞳に、堀の深い鼻筋。目を奪われるほどの美形だけど、千倉が驚いた理由はそこではない。
(黒須君に、そっくりだ!)
思ってすぐ、声に聞き覚えがあった事を納得した。声も、黒須にそっくりなのだ。
(だけど、全然違う)
明朗で生き生きとした黒須の表情と違って、目の前の男の顔は能面のようにぴくりともしない。青白い、不健康そうな顔は生気を感じさせないし、ややとろんとした目には光がない。
ぱ、と髪が離されて、千倉の顔は畳に直滑降。鼻をしたたかに畳に打ち付ける。
「それはそれは。今日はお客さんが多そうだな。君、そのナントカ介、お仕置きしておきなさい」
「弥之介でさあ。……でも、お仕置き、ですか?」
「私は調子に乗りやすい頭の弱い人間は嫌いなんだ。その子の勝手な行動のせいで、余計なものを呼び込んでしまう事になった」
足音が、振動が、千倉から遠ざかる。
「……お客さんが多いのならば、支度をしなければ」
呟くような声の後に、しばらくしてパタンと襖が閉まる音がした。




