現在状況が把握できておりません
頭がぐらぐらとした。朦朧としていた意識がはっきりとしたのは、見知らぬ車の中で、だった。大きく目を見開いて何か言葉を発しようとして、声が出ない事に気がついた。何か口の中に噛まされている。
両手も両足が、ガムテープで何重にもくっつけて巻かれていて動かない。フロンとミラーから覗き見られる前方の運転席に座る男が分かりやすくスキンヘッドに黒サングラスという出で立ちで、状況を理解できないまま生命の危険さえ感じて身が竦む。
(何この急展開!? 何が起こってんの!?)
スキンヘッド男の隣、助手席に座る高校生風の青年の姿を認めて、千倉はようやく思い出した。
『今、ちょっといいですか?』
言われて、青年について少し歩いた。警戒すべきかとも思ったけれども、白雪姫の件で同じように失敗したばかりだし、と思うとなんとなく自分が自意識過剰すぎる気がして恥ずかしくなってしまったので、大人しくついていった。
ほんの少し、僅かな物陰の脇を通り過ぎた時だった。突然青年が振り返った。急すぎて、構える隙もなかった。口元に、何か布のようなものが押し当てられたと思ったら、くらくらとして意識が遠のいたのだ。
「起きたか」
助手席に座るその青年が、バックミラー越しに千倉を見て、ちょっと笑った。それは、人の良さそうな外見からは予想もできないほど、酷薄な笑みだった。
「月並みだけど、暴れても無駄だ。まあ、ボスに会わせるまでなにもしないから気軽にドライブを楽しめば?」
(ボス? っていうか、何コレ。どうなってるの?)
あの青年は何者だろう? ただの男子高校生ではなかったのだろうか?
恐怖で脂汗が出て、吐き気がしてきた。
目を閉じてとりあえず心を落ち着かせようと試みた。
車が止まったのは、大きなお屋敷のような場所の前だった。
(白雪姫の家に似てる……)
恐怖で浅い息をしながらも、そんな事をぼんやりと頭の片隅で思った。車が止まって、中から体格の良い男が出てくる。運転席のサングラス男がそのうちの一人に何かを指示すると、体格の良い男は、千倉の腰を抱えて横抱きにして肩に担いだ。まるで荷物か米俵のように。
自分を担げる男性がいたとは驚きで、普段ならばちょっと感動したところだが、今はそうは言っていられない。抵抗するように足をばたばたとしてみても、陸にあがった魚のようにびたびたと無様な姿を曝すだけだ。男は千倉の抵抗など、ものともせずに屋敷の中へと入って行く。
千倉は読んでいる余裕はなかったけれど、屋敷の玄関には『虎岩組』と書かれた古めかしい木札が下がっていた。
「姉ちゃん! 千倉が行方不明だ」
足での捜索を早々に切り上げて、黒須は家に駆け戻ってドアを開けるなりさくらに怒鳴った。
「行方不明?」
廊下を通過して響いてきた声に、リビングで新聞を読んでいたさくらは顔を上げて眉根を寄せた。
「ああ。どこにも見つからない。今、蝙蝠使ってここいら一帯を探させてるけど」
リビングに入ってきた黒須は青ざめて、今にも泣きそうな顔をしていた。握り締めた両の拳がぶるぶると震えている。
「どうしよう。アイツが千倉に目をつけたとしたら。千倉がアイツの手にかかってたら……」
「落ち着け」
さくらはぴしゃりと言って立ち上がる。
「魔守には連絡したか?」
言われて、黒須はようやくそれに思い当たったという顔をした。さくらは少しため息をつく。
「ここいらの情報はヤツラの方が持っている。すぐに連絡しろ」
「俺の蝙蝠は今全部使用中だ」
「しょうがないな」
さくらはため息をつくと、窓を開けて短く口笛を吹いた。どこに止まっていたのか、数匹の蝙蝠たちが、暗い夜の空を飛び立った。
「大丈夫だ。あの時のようなことは、まだ起こっていない」
夜空に溶け込む蝙蝠を見送って、さくらは気休めの言葉を弟にかける。弟は不安そうに、それでもなんとか少し落ち着いた顔で頷いた。
さくらは思い出す。昔の事を。
さくらが目を醒ますと、周囲の全てが様変わりしていた。先生と住んでいたあばら屋は燃え尽きて灰となっていた。周囲にはおびただしい数の死骸が横たわっていた。みんな知り合いばかりだった。自分の実家の家族に、信之助の家族に、村人たち。みんな、血の一滴も流していなかったけれど、蒼白いその皮膚は、生きている人間のそれではなかった。恐怖で見開かれた目が虚空しか映していなかった。
「ごめん」
声が聞こえて振り返ると、すぐ側に少年が立っていた。さくらと共に、先生の住居に寝泊りしていた少年だった。
「陣衛門……これは、どういうこと?」
さくらは震える声で尋ねる。少年は泣きそうに顔を歪めて、それでもそれを堪えているようだった。
「村の大人たちが家に火をかけた。病人や子供は邪魔だって」
見れば、焼け爛れたあばら家の中に、黒焦げの人のようなものがたくさん転がっている。さくらは呆然と目を見開いた。
「ごめん、ねえちゃんを助ける方法は、これしかなかった」
「何?」
「姉ちゃんは、今から俺たちと同属になった。……人の血を吸って、ずっとずっと生きていかなくちゃいけなくなった」
ごめん、と陣衛門はもう一度言った。言われた事の半分も理解できなかった。ただ、自分の身に何か劇的な変化が起きたのは感じていた。
「助けてくれたんだ?」
「火の中から担いでくるのは姉ちゃん一人で精一杯だった。……姉ちゃん、死ぬ寸前だった。俺が自分の血を分けたから元気になったけど。今は分からないだろうけど、そのうち分かるよ」
そのうち。
そのうちでいいものは、いつかに回しておこう。それより今は目の前に起こっている事だ。
「……先生は?」
尋ねたら、陣衛門は更に顔を歪めた。これ以上ないくらい、苦しそうな顔をした。
「壊れちゃった」
コワレチャッタ。
それは、絶望したような声だった。




