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さくら先生ごめんなさい

 冷たい土を素足で踏んで歩いていた。道を歩くだけで、死骸に行き当たった。既に動物はこの辺りに一匹も見かける事がなかった。犬の一匹でも歩いていれば、村人たちが血走った目で追い掛け回して、狩って食べてしまう。足元の土には雑草の一束も生えていなかった。食べられる草と言う草は、誰かが食べてしまった。それでも、人々の腹は満たされない。とうてい足りない。骨と皮になって、下腹だけが大きな人が、河原で水を飲んでいるのをよく見かけた。せめて水で腹を膨らまそうと言う思惑だろう。この度の飢饉は、本当に酷い。

 寒々しい気持ちで歩き続けていたら、背後から声が聞こえた。

 「さくら」

 名前を呼ばれたので振り返ると、長身の青年がこちらへ向かって歩いて来るところだった。ここいらではてんで見かけないような顔立ちの男で、ここへ来た当初は周囲にずいぶん疎ましがられていたし、迫害もされていたのだけど、医術が達者で暇な時には周辺の子供らを集めて寺子屋のような事をしてくれていたから、いつのまにか村の者たちも受け入れていた。もっとも、ここ最近はそこに姿を現す子供の姿も少なくなったのだけど。

 穏やかで、物静かな男だった。決して声を荒立てることもなく、いつも優しい瞳で子供たちを見守っていた。

 「出歩いては駄目だと言ったのに。悪化する」

 男の心配そうな顔に、さくらはちょっと笑った。

 「ありがと。先生。……でもさ、悪化した方がいいんじゃない?」

 近づいてきた男がさくらの骨と皮ばかりの腕を掴んで強引に引っ張って行くのに、さくらは冷静に言う。

 「あたしが死ねば、食い扶持が一人分減るんだよ。どうせやまい持ちでなんの役にも立たないのに」

 「私が今まで頑張って君を生かしてきたのに?」

 「あたしは生かされてるのに、あたしより必要な人がどんどん死んでる」

 「それでも、君はまだ生きている」

 「あたしの命で、誰かが生きれるかもしれないのに」

 「お前が死んだら、信が悲しむ」

 言われてしまったら、さくらにはもう返す言葉がない。幼い頃からずっと側にいて、お互い年頃になったらいっしょになろうと言っていて、実際に数年前に夫婦めおとになった小寺信之助は、確かに悲しんでくれるだろう。今だってさくらのためにどこからか食料を調達してきて、先生にこっそりと渡していると聞く。病勝ちでずっと先生のところでお世話になってしまっているさくらとは離れ離れに、信之助はお城に奉公しているから村にいるよりはそれはまだできることなのかもしれないけれど、そのせいで自分の食い扶持を減らしているのではないか、と心配になってくる。病のせいで子供さえつくれない、妻の役目も果たせない女の為にどこまで優しいのだろうと、自分が不甲斐無くて泣きたくなる。

 「いつか治る、いつか治ると言われて、でもいつ死ぬかいつ死ぬかとおもってずっと生きてきて、もう疲れたんだよ、先生」

 「それでも、幼い頃から見てやってるお前が死んでしまったら私も悲しいよ」

 (でも、そう思ってくれているのは信之助と先生だけだ)

 思ったけれど、言わなかった。だけど先生は、それが分かったみたいに大きな手でさくらの頭を胸元に抱き寄せる。食い扶持減らしの為に、さくらが死ねば良いと思っている実家の家族からも、信之助の家族からも、他の村人たちからも、全てから守ってくれるとでも言うように。

 「勝気なさくらは泣き顔も見せてくれないんだね」

 優しい声で言われたから、それで泣いてしまった。本当に、先生はさくらの扱いをよく心得ていた。幼い頃からずっと、お世話になっていたから。


 がくん、と体が震えて、さくらは顔を起こした。目の前にあるのは机、書類。唇の下に冷たい湿り気を感じて、無意識にそこに指をやる。冷たい液体の感触。

 (ヨダレ……いっけね。書類に垂れてないよな)

 慌てて身を起こして確認する。辛うじて書類はセーフだったが、机の上に若干雫が残ってる。

 常備している箱ティッシュからティッシュペーパーを一枚抜き取り、澄ました顔でそれをふき取ると、さくらは大きく伸びをした。

 (仕事中に居眠りしちゃったか……)

 窓越しに外を見ると、すっかりと日は暮れている。伸ばした手を宙で止めて、さくらは考える。

 (随分昔の夢を見たな)

 本当に、随分昔だ。さくらがまだ人間だった頃の夢だ。

 少し感傷にひたりそうになって、一つ大きく首を振った。姿勢を元に戻して立ち上がる。

 「さて、帰るか」

 声に出して言って、自分に気合を入れて。やりかけの書類は明日に回して、椅子を引いて保健室の電気を消してカギをかけた。

 

 「千倉、何があった」

 さくらが腕を組んで、仁王立ちで言うと、千倉は土下座でもしそうな勢いで謝った。

 「すいませんさくら先生、本当にすいません」

 「私は根性のない女は嫌いだぞ?」

 「ほんっと、ごめんなさい」

 「何キロ増えた?」

 「10キロです」

 「じゅう!?」

 さくらが大声を上げると、千倉は首をすくめて「ひいぃ」と言った。

 「姉ちゃん、とりあえず夕飯食おうぜ」

 「陣衛門、意外に冷静だな……さてはお前」

 「なんだよ」

 「デブせn……」

 言いかけたら、睨みつけられてしまったのでさくらは黙る。代わりににやりと笑ってやったら、黒須は忌々しそうにそっぽを向いた。

 「俺が百合枝殺しの犯人だと勝手に勘違いして、俺に食われる前に美味いもん思う存分食ってから死のうと思ったらしいよ」

 「黒須君、それ違う!」

 千倉の抗議の声は置いておいて、さくらはちょっと片眉を上げた。

 「中村殺しの? 千倉結構カンいいじゃん。緊張感ない顔してるくせに」

 「なんですか先生その形容」

 「いやいや。突っ込むところそこじゃないだろ」

 黒須は呆れたように言って、とりあえず、と言う。

 「後で姉ちゃんと俺で説明するって言ってあるから夕飯済ましちゃおうぜ」

 

 「陣衛門がこの土地に来たのは、そもそも今回の殺人事件の犯人がそろそろ現れる頃だと占いに出たからだよ。だから南の方にいたのにわざわざ転校してきた」

 夕飯が終わって、一息ついてから、さくらは言った。

 「殺人事件が起こるって知ってた、って事ですか?」

 「殺人事件、というか。まあ、何かそれに類した事が……場合によってはもっと悪い事が起こると推測していたな。無差別大量殺人的な」

 「本気ですか?」

 千倉がぞっとした顔で言うのに、さくらは大真面目な顔で頷いた。

 「ヤツが前回現れたのは太平洋戦争の真っただ中だ。戦争で人死にが多いのを良い事に、それに紛れて数十人……下手したら百人以上殺したかもしれない」

 あまりの事に、千倉は沈黙する。さくらは淡々と続けた。

 「その殺人鬼も同属でな。普段はどっかで眠ってて大人しいんだけど、数十年くらいに一回、起き上がって捕食する。といっても、今までに起きたのは二回だけだけどな。一度が、江戸時代の天明八年。それから、太平洋戦争真っただ中。ヤツは、ずっと寝てるから加減がわかんないのか、それとも敢えてやってんだか、捕食した相手は絶対に血を吸い尽くして殺していく」

 「そんな人に、黒須君はわざわざ会いに来たの? ……っていうか、知り合い?」

 「知り合い」

 「その人を、止めるために来たの?」

 「止められないだろうな」

 黒須は苦々しい顔をして言う。

 「生半可な方法じゃ止まらない。完全に、狂ってるんだ。敢えて殺すまで血を吸ってる。人が嫌いだから」

 千倉に説明する、というよりも独り言のようだった。千倉が非現実的すぎて受け入れられずにぽかんとしていると、顔をあげて、ようやくそんな千倉にちょっと笑って見せた。

 「まあ、心配すんな。どうにかは、するつもりだし。ついでに俺、明日から学校行かないから」

 「は? サボリ?」

 教師であるさくらのいる前でサボリ宣言はいかがなものかと思いながら尋ねると、黒須はちょっと困ったように笑う。

 「違う。転校」

 「え!? 転校?」

 「だってもう、目的達したらここにいる意味ないもん。元の学校に戻るよ」

 (え。別に戻らなくたって良くない? こっちにいればいいじゃん)

 思ったけれど、言えなかった。

 (そんなに向こうの学校が良いのかな? もしかして。彼女がいたとか?)

 余計な事を考えてしまう。

 千倉の考えてる事なんて知る由もなく、黒須はあっさりと続けた。

 「姉ちゃんはこの家いるから、ダイエット続けんなら、合鍵持ってていいぜ」

 「な?」と黒須が言うと、さくらもそれには頷く。

 「美味いメシ出してくれんなら、あたしに異論はない」

 今まで世話になったな、と少し困ったように笑う黒須の顔を、千倉は呆然としたように見ていた。

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