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『血』迷う。ナルホド

 「ちょっと陣衛門、邪魔だからさっさと風呂はいっちゃいな」

 夕食も終わって、千倉が帰ってからも黒須がダイニングのソファに両膝を立てた体勢で座って動かないので、さくらは面倒くさそうにそう言って、自分も自室にひきあげようと立ち上がった。黒須はさくらの方を振り返らずに、相変わらずソファ正面に設置してあるテレビの方向だけを向いて、唐突に発言する。

 「……姉ちゃん、ご相談が」

 「は? 珍しい」

 「本日とても珍しい現象が起きまして」

 さくらは歩きかけていた足を止めて、振り返って両腕を組んで、聞く態勢をとる。黒須はいまださくらの方を見る事はせずに、顎を自らの膝の上に置いたまま、困ったように喋った。

 「今までなんともなかった女の血が、突然急にそれはもう衝撃的に飲みたくてしょうがなくなって、抑えきれずに襲っちまいそうになったんだけど、どうしてだと思いますか?」

 「陣衛門それ、本気で聞いてるのか?」

 「割と。なんかの病気かな?」

 「そんなことも分からないのか? 何年吸血鬼やってるんだ?」

 「233年ほど」

 「きちんと答えてるんじゃないよ。……血が欲しくて理性が飛ぶ、だなんて理由は一つしかない。あんたの本能が千倉を欲しがってるんだ」

 その言葉に、黒須は動揺したようにがくんと体勢を崩して、思わずと言ったようにさくらを見た。

 「なんで千倉って……」

 「私を侮るんじゃないよ未熟者どもが。お前らの態度見てたらなんかあったな、くらいは想像つくわ。もっとも、そんな事があったとは思わなかったけどな」

 さくらはにやにやと意地の悪い笑いを顔に浮かべて弟を眺める。黒須はその視線から隠すように膝の上に顔を伏せた。僅かに覗く耳が赤くなっている。

 「俺、今までずっと自分は面食いだと思ってたのになあ」

 「それは目出度いな」

 「なにがめでたいって?」

 「ようやく見たくれだけじゃなくて中身まで見て惚れたって事だろ? 長い間生きてきて、あんたが付き合った女なんてどれもこれも見たくれが可愛らしいだけのつまんない女ばっかりだったからな」

 「ひでえ言い様」

 黒須の若干非難の混じった口調を、さくらは鼻で笑って流す。

 「まあ、自分では気づいてなかったみたいだけど、最初から千倉に対しては特別だったよ。最初っていうか、ダイエットを本格的に協力し始めた辺りかな? 今までどんなに可愛い子と付き合っても絶対に家になんて連れてくることなかったのに」

 「それは……」

 黒須は言い訳するように言って、言葉を捜す。

 「なんつーか、泣かせちゃったし。いや、俺が直接の泣いた原因ではないと思うんだけど、後味悪かったし。っていうか、それまであいつが普通の女の子みたいに傷つくって知らなくて結構無神経な事言っちゃってたのも悪かったな、とか思ったりで。そういう」

 「誰に言い訳してるんだ?」

 さくらのその一言に、不明瞭な言葉をぴたりと止めた。

 「陣衛門、何を恐がってるんだ?」

 からかうのを止めたさくらの声に、黒須は顔を上げて言う。

 「……わかってるだろ?」

 さくらは笑う。ちょっと呆れたように。

 「それを恐れる事が出来るくらい人を好きになるなんて初めてだろ? 良い経験をさせて貰ってるな」

 「人事だと思って」

 恨めしげな声に、さくらは苦笑する。

 「人事だよ。あたしの好きな人は、もうとっくにいないんだ」

 陣衛門、とさくらは呼ぶ。

 「あんたは、まだまだ弱いなあ」

 「……すみませんねえ。へたれた弟で」

 「そうだな」

 ところで、とさくらは声の調子を変える。

 「千倉の血、美味かった?」

 「え? 知らね―よ。だから未遂だって」

 「は!? 未遂なの?」

 「言ったじゃん」

 「そんなのきちんと聞いてるか。……しかし未遂かあ。陣衛門、あんたホントにへたれだね」

 その言葉に黒須は顔を赤くする。

 「うるさい」

 (誰のせいで未遂だったと……)

 そう不満に思いながらも、けたけたとからかうように笑う姉の顔を見ながら、少しだけ心の重荷が下りた様な気がしていた。少しだけ、ほんの少しだけ。


 (なんだったんだ? あれ)

 黒須家からの帰り道、千倉はゆっくりと歩きながら頭を冷やしていた。もう随分涼しくなってきた今頃は、頭を冷やすのにぴったりだ。ついでに思い出して火照った頬も冷やしてくれる。

 (どう考えてもあれは……捕食?)

 我ながら恥ずかしながら、千倉は一瞬、キスされるのかもと思った。口が裂けても本人には言えないけれど。

 (だって急にあんな真面目顔するし。顔近づいてくるし! それにあの目!)

 黒須の目は熱を含んだように熱くて鋭くて、真っ直ぐにその目に見られたら体が動かなくなってしまった。

 (魔性の男だ! ああやっていつも女の子の血を吸ってんだ)

 なんて悪い男!

 心の中で悪態をつく。

 (しかもなんで、私なんかの血ぃ吸おうと思うのさ!)

 白雪姫が好みとか言ってたくせに。お腹がすきすぎて言葉通り「血迷った」のだろうか? 

 (おおまさに。「血」を迷う)

 くだらない事を考えて、勝手にちょっと一人で笑う。丁度、カラスがアホーと鳴いて上空を飛んで行った。

 (……それはともかくまあ止まれこの心臓の余剰運動)

 あの後、夕食時は普通に行動できた。黒須も全くいつもと変わらなかったし、千倉も平静を装えた。でも一人になって色々思い返してみてしまったりするともう駄目だ。手は震えるし顔は熱くなるし心臓の鼓動が三倍速くらいになる。

 (ああもう私、情けないな! いくら耐性がないからって動揺しすぎだろ)

 腹立ち紛れに、明日学校で黒須に会ったら責めたててやろうかと考えてあ、と気づいた。

 (明日土曜日か。学校休みだわ)

 週末は流石に黒須家にも寄らず市民プールに行くのといつもの筋トレを家でやる以外は家でぶらぶらしているか友達と遊ぶかして過ごしているから、少なくとも二日間は黒須に会わない。

 ちょっとホッとして、ちょっとがっかりした。

 (なんで私、がっかりしてるの?)

 冷たい風が頬を冷やす。

 (だって、黒須君はそのうち、白雪姫と上手く行っちゃうよ?)

 白雪姫は黒須の事が好きなようだし。黒須だって最初に言葉を交わした日に好みだとハッキリと言っていた。千倉が入り込む隙なんて、どこにもない。

 (……っていうか、元から私が黒須君とどうにかなれる可能性なんてゼロに近いし)

 自分に言い聞かせるのに。なんだか胸がムカムカとした。急に風が肌寒く感じて、両腕を押さえてぶるりと一つ震えた。

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