今夜の夕飯はカレイの煮付です
ただいまあ、という黒須の声に返事をしなかったのは別に無視していたわけじゃなくて、たまたま鍋が煮立ったところだったからだ。黒須が帰ってくるのがいつもより遅いのを気にしていたわけでもない。
帰って来た黒須の方を振り向かなかったのは、顔を合わせるのがなんとなく嫌だったわけではなくて、制服が乱れていたらやだなあ、と思ったわけでもなくて、フライパンで炒めものをしていたからだ。
「千倉、なんか怒ってる?」
ガスコンロに向かっているのに横から顔を覗き込まれた。
「怒ってないよ?」
「嘘だ」
「なんで」
「こっち向いてくれないもん」
「淋しがりやめ」
「といいつつ本当にこっち向かねえ」
「なに?」
渋々黒須を振り向くと、黒須はちょっと安心したように笑った。
「ただいま」
「……おかえり」
よし、と黒須は満足そうに言って、ダイニングの床に鞄を下す。
「では俺様も手伝ってやろう」
「え。いいよ」
「なんでだよ?」
「いえ。もうすぐできますし」
「何故敬語?」
「……いや、ホント大丈夫だから!」
何故だかちょっとイライラして。ちょっと強めに千倉が言うと、黒須が驚いた顔をした。
(あれ? もしかして私今、そんなにきつく言っちゃった?)
こんなにびっくりした顔をさせるくらい?
「千倉、今日どうした? なんかあったか?」
「な、なんで」
「変だぞ? なんかあったんなら言ってみ?」
「や。ホント別に何もないけど」
「じゃあ、なにこの心の距離感」
「そんなにある?」
「昨日よりは確実に広がってるな」
「もともとそんなに近かったっけ?」
言ったら「冷たっ」と言われた。
「どうしたんだよ今日。雪女クラスだぞ」
「あ。そういえば妖怪仲間だもんね。雪女って実在するの?」
「話を逸らすな」
「逸らしてないよー。さ、できた」
千倉は言って、黒須を押し退ける様に避けて、棚から皿を出し、それを並べて盛り付ける。背中に黒須の視線を感じるのだけど、極力気にしないことにする。
「千倉さん、俺がちょっと本気でイラッとする前に言っておいた方が身のためですよ?」
キンピラゴボウとカレイの煮つけを三皿分盛り終わった時、背後から結構真面目な調子の声がしたので、千倉は一瞬どきりとした。ああこれはもう、のらりくらりとごまかせないなあ。
(もうすでに、ちょっとイラっとしてる口調じゃん!)
カレイの煮物の上に、用意してあった三つ葉を散らして彩りを添えて、それから空の鍋を手に持ってコンロの方を向き直る。正確には、コンロの脇にまだ立ち尽くしている黒須を。コンロに空の鍋を置くと、千倉はようやく言った。
「だって、黒須君。今日のお昼休み女の子といちゃついてたから。しかるべき人がいるなら、私があまり親しくしてもその子に悪いかな、って」
言いながら心の中で自分に「嘘ばっかり」と呟く。悪いかな、なんて思ってない癖に。二股女なんかと付き合わないで欲しいと思っているくせに。でも、そんなのは黒須の勝手だから、自分がどうこう口出す筋合いはないだろう。だったら強がりにそういうことにしておくしかない。
黒須の目が、一瞬動揺に泳ぐ。
「あれ、千倉見てたの?」
「屋上からばっちり」
「そうか! 上か。盲点だった」
「甘いね」
「……だな」
「そうかそれで千倉は嫉妬して」
「いや嫉妬っていうか」
(っていうか、何だろう?)
一瞬頭の中でちょっとわからなくなる。なるけど、考えないことにした。
「……知り合いのああいうの見ると、なんか……気持ち悪くて」
「気持ち悪いとな!」
ちょっとびっくりしたように言ってから、はあ、とため息をつく。
「千倉はおっかさんみたいなくせに、意外とおこちゃまなんだなあ」
「そりゃあ、黒須君みたいに進んではいませんが」
「進んでるって、何が?」
「え。何って……」
ちょっと困って言葉に淀むと、黒須はにやにやと笑ってそれを見ていた。その顔に、千倉はむっかー、とする。
「知らない!」
乱暴に言って「話終了!」と中途半端なところで話を打ち切るが、黒須はそれを許してくれなかった。
「ねえねえ、何が?」
背後から楽しむようなからかい声が追いかけてくるけど聞こえないふり。
「無視すんなよー。淋しいじゃんかー」
無視させるようなセクハラ発言をする方がいけない、と言いたいがセクハラ親父は相手にすると調子に乗るので放っておくのが一番だ。その法則を守って無視に徹する。
「ちーくらさん、こっち向いて?」
(向けるか!)
と思うのは、今の会話でむしょうに恥ずかしくなって顔が赤くなってしまっているからだ。自分でそっち系の耐性のなさに呆れてしまう。
とはいえ、二百歳オーバーの自称永遠の18歳はだいぶおこちゃまなので、しつこく背後をついてまわる。リビングとキッチンを一往復して皿を並べている間ずっと面白がって後をついてくるので、千倉はついに耐えかねた。
「もう。いい加減にしてよ」
赤面を見られてしまうのはしょうがないと、諦めて振り返って、ちょっと怒った声で言うと、黒須はちょっと驚いた顔でぴたりと立ち止まった。綺麗な目が少し見開かれて、視線が千倉の顔に注がれている。まじまじと見られて、だから思わず千倉もまじまじと見返してしまう。
(うわ。黒須君の目ってよく見るとグリーンが混じってるんだ……)
茶色い光彩の内側が淡く緑色なことに初めて気づく。それくらい、まっすぐに間近で見てしまった。
「……千倉、顔真っ赤じゃん」
ほんの少しの沈黙の後、発された黒須の声は何故だか少し掠れてた。その声に、どうしてなのかもう、からかう調子はなかった。黒須の大きな手が千倉の右の頬に軽く添えられる。指が長くて、骨ばっていて、千倉のものより少しごつごつとした手だ。男の子の手だ、と思う。それはとてもひんやりとしていた。ひんやりとしていて、千倉の頬の熱さが余計際立ってしまう。
千倉は身動き一つできなかった。その瞳の中に吸い込まれそうだと思った。キレイだな、と思った。その目が、微かに細められる。じっくりと、観察されているように。千倉の背筋がざわりと一度粟立った。
黒須の顔が下りてくる。千倉の左頬を、黒須の右側の髪がくすぐる。柔らかくて、でもちょっとちくちくと皮膚を刺す感触が妙にリアルだった。思う間もなく、左の首筋にひんやりと冷たいものが、冷たくて鋭いものが当てられた感触がした。
(これは……牙?)
ああそうか。黒須は吸血鬼だった。そういえば。
でも、いいかもしれない。悪くはないかもしれない。というか、どうにでもなれ。
悪い気はしなかった。怖くもなかった。脳味噌の奥がぐらりと揺れるような感覚がして、微かに体が震えた。
「ただいま帰ったぞ! ひれ伏して出迎えろ者ども」
唐突に、そんな声が耳に届いた。
千倉はハッと我に返る。同時に、黒須も我に返ったようだった。千倉もちょっと驚くくらいガバリと勢いよく身を離す。腕を精いっぱい長くのばして、千倉の両肩を両手で追いやって。その手もすぐに離した。
「あ」
1メートルくらいの距離を保って、言葉を探すようにちょっと口を開いて。うろたえた様な顔で。黒須は何度か何かを言おうとして、それから大きく深呼吸した。
「……っごめん!」
「へ?」
「なんか。血迷った」
(……血迷った?)
言うだけ言い切ってしまうと、長い脚ですたすたと大股に千倉の隣を通り過ぎてダイニングに行ってしまう。
「おーおかえり」
「出迎えろっつってんだろ」
「うおぉ、危ねえ!」
「避けんな!」
さくらが黒須の腰に強めのサイドキックを入れている音を聞き流しながら、千倉は思わず自分の首筋を抑えた。まるでそこが熱をもったようだった。体中が鼓動に合わせて脈打っているように感じるくらい、心臓が激しく鳴っていた。
(落ち着け。落ち着け自分)
目を閉じて、心を落ち着かせる。
「千倉―。夕飯食うぞ」
「はいっ!」
さくらの呼び声に慌てて返事をして、大きく深呼吸して、両手で自分の頬を一つ叩いて、極力平静を保ちながら茶碗にご飯を盛り始めた。




