ガツン!!
ダイエットを始めてから、千倉の朝は毎日五時起きだ。起きてすぐ、ストレッチをして体を起こしてからジョギングに行く。ジョギングのルートは決めていて、公園の前の道を通り、駅まで行き、駅から別ルートを通り、土手を走って戻ってくる。早朝ジョギングをしている人は結構多く、毎日していると顔見知りになる人も増えてきた。犬の散歩のおじさんに、ジョギングのお姉さん、朝練の野球少年……。
「梓、順調に痩せてるねー」
小春の言葉に、千倉は頬が緩むのを抑え切れなかった。
「わかる?」
「わかりまくるよ。今三週間目だっけ? 全然違うよ。多分もう別人の域」
「ホントに!?」
「ホントだよ。しかも、良い痩せ方してるよね。あんまり胸が落ちてるわけでもなしに、きちんと綺麗に痩せてって」
「えー。そんなに誉められると照れるな」
「と言っても一般的に言えばかなりむっちり、タイプだけどね」
と横から釘を刺したのは勿論真希子だ。
「もー真希子は。素直じゃないなあ」
小春は口を尖らせて言う。
「梓可愛くなったよ? わかってるんでしょ?」
小春の言葉に、真希子はちょっと顔をしかめた。渋々、というように言う。
「まあね。認めてもいいけどお」
「マジで!?」
まさか真希子からそんな言葉を聞くとは思わなくて、千倉は思わず聞き返してしまう。
「だからって良い気になってちゃ駄目だってば。一般的にはまだ全然ぽっちゃりしすぎの域だし」
あ、でも、とちょっと思いついたように言う。
「そろそろ警戒はしといた方が良いかも」
「警戒?」
「だってあんた、黒須君と仲良いじゃない?」
「うん」
「そろそろガツンと来るかも」
「ガツン?」
「そう。ガツン」
何の話だ? と首をかしげている千倉を尻目に、真希子は鞄からポーチを取り出す。
「まあ。あんたも頑張ったみたいだし、いっちょまえに成果も出してるみたいだから私も力を添えてあげましょう」
真希子のポーチは千倉が横で見ていてぎょっとするくらいたくさんのものがつまっている。コンパクト、ビューラー、アイシャドウ、小さなハサミ、マスカラ……その他、こんなにたくさんのものを一体何に使用するのだろう、というくらい大量に。全て美容系のものであろうけれど、千倉には用途のわからないものも多かった。
「そら。顔こっち出す」
「へ!?」
「眉毛くらい整えてあげるつってんの。せっかくマシになったんだから。あと、スカート丈!」
びびって引き気味の千倉を押さえつけて、真希子ははさみを近づける。
小春が横で、興味津々にその様子を覗き込んでいた。
「なんか、違いますね」
白雪姫の言葉に、千倉は「わかる?」とちょっと笑った。
「なんかね。クラスの友達が……金谷真希子と三崎小春って子なんだけど、色々やってくれて」
真希子は千倉の眉毛を整え、トイレに連れ込んでスカート丈を短くし、小春は髪の毛をいじって、髪の半分を残したまま、上半分を耳の下でふわふわと少しルーズにまとめてくれた。
「千倉さんが頑張ってるから、お友達も協力してくれるんですね」
白雪姫が微笑んでくれるので、千倉は嬉しくて笑う。
「いやあ。私はホント、良い友達をもったね」
「そうですね。とっても可愛いです」
その言葉に、千倉は胸がきゅん、となる。
(や。そりゃあ白雪姫の方が何百倍も可愛いんだけども!)
「ありがとー。超嬉しい。本当に、私の周りは良い友達ばっかりだよ。白雪姫も含めて!」
「私も、ですか?」
ちょっと困惑したように言われたので千倉がぎょっとする。
(しまった。調子乗りすぎたかも!?)
千倉的にはすっかり友達のつもりだったのだけど、白雪姫的には千倉が誘ってくるから単にお付き合いしているだけかもしれないのに!
(やばい。訂正した方がいいかな!?)
最近舞い上がっていてすっかりその可能性を考えなかった。迷っていると、白雪姫がちょっと真剣な目をして千倉を見た。
「ありがとうございます。そう言って貰えて嬉しいです」
「え。あ、本当?」
とりあえず良かった。良かったが、なんだろうこの改まり口調は。
「でも、ごめんなさい。謝らなきゃいけない事があります」
「へ?」
「私、千倉さんを利用していました」
「はあ……?」
白雪姫の言っている意味がわからず、千倉はぽかんとする。白雪姫は真剣な面持ちで続けた。
「私、黒須君の事を探る為に千倉さんに近づきました」
それで、ようやく千倉は合点がいった。
(やっぱり! 白雪姫は黒須君が好きなんだ!)
「でも、千倉さんは本当に良い人で、段々申し訳なく……」
ごめんなさい、としょんぼりと頭を下げる白雪姫はとても可憐で、千倉は慌てて言う。
「いいよいいよ。全然気にしてないよ。っていうか、それを言ってくれるって事は、今は私と友達でいてくれるって事だよね?」
「いいんですか?」
「嬉しいよ」
千倉が言うと、白雪姫は本当に呆れたような顔をした。
「本当に、お人よしですね。千倉さん」
「うお。千倉、なんかいつもと違え」
いつも別に黒須と一緒に帰っているわけではないのだけど、今日は買出しを付き合う予定だから校門で落ち合ったら、黒須にも開口一番言われた。
「真希子と小春がやってくれたの。もう今日いろんな人に言われてる」
「だってなんか、別人みてーだもん」
「そう?」
「うん」
(……。)
なにか物足りない気がして。千倉は黒須を見る。黒須はもうその話題はどこへやら、今日の夕飯の献立の温野菜の蒸篭蒸しの事について話しているのだけど。
(なぜ私、もやもやしてんだ?)
なんとなく、小さく失望したような気がしていて。
(はっ、もしかして私、「可愛い」って言葉期待してない!?)
自分で気づいて自分で恥ずかしくなった。
(真希子たちにもちょっと認められて白雪姫にまで言ってもらったからって、何調子に乗ってんのー!? 私)
意識すると、真っ赤になるくらい恥ずかしい。自分の顔やらさくらの顔を見慣れている黒須にとっては自分なんか足元にも及ばない事なんて明白すぎるほど明白なのに。
「おーい、千倉。聞いてんのかー?」
顔を覗きこまれて千倉はハッと我に返る。
「あれ? え? 何?」
「げ。マジで聞いてなかったのか。お前の心はどこを彷徨っていた」
「ま、マゼラン星雲の辺り?」
「めっちゃ遠いじゃないか。よく一瞬で帰ってきたな。誉めて遣わす」
「ありがたき幸せ」
「で、もう一度言うが今日は駅前のスーパーだぞ。卵の特売なんだ」
その言葉に、千倉はもう慣れたけど、と笑う。
「ホント、黒須君ってお金持ちらしからぬ、だよね」
「何を言う。得に買えるものは得に買った方が賢い」
「はいはい」
料理の腕前はイマイチでも、どうにもこうにも主夫根性が染み付いている。
(白雪姫が、こんな黒須君見たらがっかりするのかな?)
と考えてハッと我に返る。
(っていうか、私こんな黒須君とツーショットで歩いてて、白雪姫に悪くない!?)
思うけれど、どうしてかもう黒須の家に行くのを止めようとは思えなくて。
(まあ、ツーショットとはいえ、所詮は女の数に入らない私だし。ジム施設完備だし。さくら先生だっているし)
色々と言い訳を並び立てて。
(ごめん白雪姫! ダイエットが完了するまでだから)
心の中で謝る。
そんなことをしていたら駅に着いて、黒須についてスーパーに入ろうとして千倉は視線を感じて立ち止まった。
「あれ?」
思わず声に出して言ってしまったので、黒須が「何?」と振り返る。
「いや」
「何だよ?」
「えーっと。……やっぱいいや」
「言わなきゃ血を吸う」
「……絶対自意識過剰だって笑うもん」
「だから何だっつーの」
はあ、と千倉はため息をつく。
「なんか視線を感じただけ。で、見たら朝良く見かける人がいたから」
「見かける人?」
「うん。あの人」
千倉は既に後姿で去ろうとしている他校の制服を来た男子校生を指差す。
「朝よくジョギング中に見かけるんだわ」
「へえ。目が合うの?」
「うん。結構」
「いつごろから?」
「最近。……知り合いかな? と思ってよく見ようと思うんだけどいつもすぐああやって顔逸らされちゃって。もしかして、知り合いだけど、私が変わりすぎて確信もてないんで、ああやって見てるだけなのかなー、なんて」
毎日見てる自分の姿だから、そう変わったとはあまり思えないのだけど、これでも体重は当初より20キロ近く落ちているし、みんなにも変わったといわれる。だけど、いまいちそんな実感が湧かないから、自意識過剰かもしれない、とも思う。
「ふうん」
黒須は言って、「行くぞ」と千倉の腕を引っ張ってスーパーの中に入る。
(えー。むりやり聞き出しといてまさかの薄リアクション?)
千倉は少々不満を残しながらも大人しくあとについていった。
翌朝。千倉が下駄箱から上履きを取り出すと、何かの紙がパラリと落ちてきた。何気なくそれを拾ってぎょっとする。
『デブ。ブス。死ね』
赤文字ででかでかと書いてあった。
さらに、教師に入ると机の上にマジックで「黒須君、迷惑に思ってるよ? 身の程を知れば?」の文字。
「ガツン来たー!」
千倉が言うと、側の席の真希子は「は?」と言って机を覗き込み「ホントだ」と言った。
「うっわ。悪質」
小春も寄ってきて、顔をしかめる。
「油性ペンじゃない? これ。取れないよ」
「いいよ。もういっそ天狗にならないように日々自分を戒める標語として利用するから」
「何そのリサイクル精神」
真希子が呆れたように言う。
直後、「千倉―! 呼び出し」とのクラスメイトの声がして戸口を見れば、派手そうな女子生徒が五名ほど。
「今、お腹痛いから無理だって」
千倉が何か言うよりも先に、小春が大声で答えた。
「そうそう。今椅子から一歩でも立ち上がったら超ピンチ。大惨事だって」
真希子も口をそろえる。
(助けてくれるのは嬉しいけどやばいこの流れは! あだ名がゲリピー女になる!)
そんな千倉の心配もよそに、女子生徒たちはじろりと千倉を睨み続けている。戸口の生徒と女子生徒たちが何か言い争いをしている間にチャイムが鳴って、なんとかこの場は逃れたのだけど、今後の事を考えると憂鬱になるのだった。
昼休みは早々に屋上に難を逃れ、放課後になると小春と真希子が「一緒に帰ろう。送っていく」との申し出をしてくれたので一緒に帰った。
「複数で帰宅してれば手出しできないでしょ」
真希子は持ち前の強気でそう言い切った。
「え。でもいいの? 二人も目ぇつけられるよ?」
「や。ああいうタイプは個人狙いしかしてこないから大丈夫だよ」
小春はのほほんと笑って言う。
「ありがと」
「大丈夫。立派な貸しになるから」
真希子の言い方はいつもどおりだけど、これが照れ隠しの憎まれ口である事は知っているので千倉は素直に感謝する。
三人で歩いて通学路を帰るのは久しぶりだった。真希子は帰宅部でいつも早々に帰ってしまうし、逆に小春はソフトボール部で、結構遅くまで練習をしている。
普段学校でもよくしているような世間話をしながら三人で駅まで来た時だった。千倉はまた、視線を感じて顔を上げた。そこに、例の朝によく見かける青年を見つける。いつもの通り、千倉と目が合うと、青年はふい、と顔を逸らしてしまったけれど。
(やっぱ、知り合いかなあ……?)
知り合いならば躊躇していないでさっさと話しかけて欲しい。ああ、無言で見詰められると居心地が悪くてちょっと不気味だ。
「今の人、梓のこと見つめてなかった?」
小春が、にやにやしながら千倉の袖を引っ張ってそう言うので、千倉は「は?」と問い返す。
「梓、モテ期きたかもよ? これは」
「や。ただ見てただけでしょ?」
「何カマトトぶってんのよ。……あ。そうか。千倉もしかしてモテた事人生で一度もないからわからない?」
真希子も横から加勢してくる。
「あの目付きはそうよね。わかってないわー」
と上から目線で偉そうな事を言いながら。
「そりゃモテたことはないけども。だけど、見られただけでソレは飛躍しすぎじゃ」
「でも。梓今そろそろ春が来てるよね?」
小春がうきうきと言う。
「本人が初耳なんだけど」
「えー? だって黒須君とも仲良いしー。最近痩せたせいか、山縣とかも最近千倉可愛くなったって言ってたよ?」
(うっ……山縣)
嫌な思い出が頭を過ぎる。
「でー。さっきの他校男子でしょ! いいねーいいねー」
「小春は盛り上がりすぎよ」
真希子はちょっと呆れたように言って、それから彼氏もちの余裕の口調で言った。
「まあ、今このチャンスを逃さないようにしないと。一生に一度のチャンスよ」
「一度と限定!」




