黒髪の彼女は「心」を考える
「『心』って、何だろうね?」
彼女は今日も唐突に言った。いつもそうだ。彼女はいつも唐突にものを言う。
「嬉しいとか悲しいとか、そういう気持ちの変化をヒトに与えるものなんじゃないですか?」
俺は自分が思うままに答える。
「抽象的だね」
彼女は頬杖をつく。
「『心』ってそういうものじゃないですか?どんなものなのか、どこにあるものなのか分からない……」
「そういえば心は脳にあるとか、心ノ臓にあるとか言うこともあるね」
彼女は大きく椅子にもたれかかった。
「でもそれっておかしいと思わない?」
「何がおかしいって言うんです?」
俺は期待に胸を膨らませながら問う。彼女の話はいつだって俺の世界を広げてくれる。
「心は抽象的で……そう、概念的なんだよね。実体を持っているわけじゃない。なのにどうしてそれが身体のどこかにあるって信じるの?」
「実体があるものとないものとがごっちゃになってるってことですか?」
俺は彼女の話を確実に消化できるように訊いた。
「そう。身体の中に『心』って臓器がない以上、心を体現するのは難しいんじゃないかな」
「『働き』として考えるのはどうでしょう?」
俺はたった今思いついた論を展開する。
「『心』っていう働き。例えば辛い時に胸が痛くなるのは、心臓の『心』っていう働きのせい。……どうでしょう?」
「面白いね」
彼女はにっこりと笑った。
「悲しい時に涙が出るのは目の『心』っていう働き。嬉しい時に笑顔になるのは脳の『心』っていう働きになるわけだね」
「そうです」
俺は少し得意になって言った。
「……でも、さ」
「え?」
どうやら、彼女はまだ納得していないらしい。
「じゃあ、『心構え』って何?」
「こ、心構え……?」
「そう。『心』を働きだとするなら、『心構え』はどういうことなのかな?或いは『心苦しい』とか」
彼女は今この瞬間を本当に楽しんでいるようだった。机の下でぱたぱたと動かしている足を見れば誰でもすぐ分かるだろう。
「うーん……。それって、『心』っていうものがあるみたいな表現ですよね……」
「そう。ここでは『心』ってものが実体を持ったものとして使われているんだ。まるで、そういう器官があるみたいにね」
「うーん、ダメだ、お手上げですよ」
俺にはこれ以上のことは思いつかない。
「あなたはどう考えますか?」
「これはね、1種の『思想』だと思うの」
彼女は人差し指を立てた。
「思想?」
「君は、神様いると思う?」
「うーん、どうかなァ……」
俺は言葉を濁した。正直、いるとは思えないが、『いない』とはっきり言うことは憚られたのだ。……ということは少しは信じているということだろうか。
「心も、同じなんだよ」
彼女は、俺の口には出さない思考を知ってか知らずか、話を続ける。
「実際には存在しない『心』ってものを、実在するものとして考える……そういう思想」
「つまりあなたは、『心』が1種の宗教用語だって言うんですか?」
「うーん、宗教とまで言っていいかについては、もう少し検討してみないと分からないけれど、」
彼女は手に取ったペンを下唇の辺りに当てて視線を上げる。
「そもそものこと、『心』ってヒトの感情とか、気持ちってものを説明するために考えられた辻褄合わせの言葉だと思うの」
「そんな、身も蓋もない……」
「ないんだよ、もともとは。……だけどこれが、この考え方が、多くの人々に受け入れられていって、今はもうなくてはならない言葉になったんだ」
「ふうん。じゃあ、あなたはヒトの感情をどう考えるの?」
「分からない」
「え?」
「今の私には、『心』を超える素晴らしいアイデアはないよ。ただ、確かなのは、たとえ人間科学が進んでそういうことが解明されたとしても、私たちにとって『心』は大切な言葉だってこと」
彼女の言葉はまさしく「心に響く」ものだった。