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レター・ノート

作者: 葱田金鹿
掲載日:2012/02/15

 

    ***


 宮原由紀との最初の出会いは小学四年生の時だった。そのときの彼女の印象はいつも休み時間になると図書館で借りた本を読んでいて、とてももの静かで、あまり話さないだけの、少しだけ髪が長い、どこにでもいるような女子だった。

当時、一般でいうところのやんちゃだったオレは、先生に毎日うるさいと注意されるクラスには必ず一人いるような男子児童で、ことあるごとに座席を教卓に一番近い中央の前の席に座らされていた。親の話では三年生くらいの頃からそんなことがあったらしいが、幸か不幸かオレの記憶には残っていない。

 四年生の一学期だったと思う。その日何度目かの説教を授業中に受けた俺は、先生に言われるままに一番前の席に座った。

 そのとき隣に座っていたのが宮原だった。

 宮原に対する当時のオレの印象は髪の長い女子、という至極単純なもので、彼女に関する記憶の中でこれといって強いエピソードはなく、それどころかこのとき初めて彼女のことを認識したと、いっても過言ではないくらい宮原のことを意識していなかった。そういう意味では単純に外見上の特徴である黒髪に印象を受けるのは自然な事だと思う。でもまあ、単純といってもそんな印象を抱くのも無理は無く、そのときの彼女の髪は腰まで長い真っ直ぐな黒髪だったのだ。男のオレからしたら長くて邪魔そうな鬱陶しいはずのその長い髪も、彼女の髪だと何故か栄えて見えた。

 宮原は物静かで、髪が長くて、目が悪い。眼鏡をつけるほどでもないけれど、前の方じゃないと黒板の文字が見えないようだった。だからいつも彼女は席替えをしても前の方に座っていた。オレはオレで厳正なる抽選やあみだくじ、話し合いによる自由席だとかでいろいろな席に座っていたけど、どんな席に座っても前後左右の男子とすぐに周りと話し始める性格のせいで、特別席なるものが用意されるようになった。まず前のやつと話せないように最前列の席に座らされ、隣の席は女子にさせられた。このとき隣がいわゆる委員長タイプの女子だと静かにはならない。彼女はオレが逆隣にいる男子と少しでも話すようなら持ち前の責任感でオレを注意するからだ。それがまたうるさく、それはそれで先生の怒りを買う原因となった。結果として席替えをして三週間くらいすれば大抵はいつもの席に座らされていた。

 そういったオレの性格を原因とする先生の計らいと、宮原の視力の都合があって、席替え一週間くらい前になるとオレは宮原の隣に座らされていた。そこまで先生にやられると反骨精神というか、逆らってしまいたくなるのだけれど、隣はろくに話さない宮原で、逆隣はちょっと言動が変わった男子だったから、自分から話しかけるようなことは無かった。少しでも後ろを向こうものなら目の前からどんなことを言われるかわからなかったというのもある。

 そういった事情が四年の一学期には既にあって、オレは宮原の隣の席になる機会が多かったけれど、彼女の『声』を初めて聞いたのは夏休みが終わって一月が経った十月の上旬だった。


   ***


 その日のオレはいつも通りに先生の怒りを買い、四時間目の算数の時間の頃にはすでに一言でも余計な事を言おうならば怒鳴られるくらいの説教をくらった。

 ここまでくれば騒がしいオレだって大人しくなるしかないのだけど、この日は少し間が悪かった。

少しでも声を出そうなら怒られるので、オレは授業中ずっと黙っていなくてはいけなかったのだ。しかし、何故かこういう日に限って悪いことは重なるもので、面倒なことに消しゴムを無くしてしまった。消しゴムを無くしたことと授業中にずっと黙ってなければいけないことが何の関係があるのかといえば、消しゴムを借りるために声を出さなければいけない、ということだ。

 それくらいは良いじゃないか、と思うかもしれないけれど、このときのオレは消しゴムを無くしたのが悪いということで先生に怒られるのが嫌で、幼心にどうにか声を出さずに消しゴムを手に入れなければいけない気がしたのだ。

 計算問題を解く時間で、先生が教室内を歩き回り、計算の拙いやつに助言をしていたとき、オレは小数の掛け算で筆算を間違え、消しゴムを探してきょろきょろしていた。

 そのときに目についたのが隣の席にある宮原の消しゴムだった。

 これが仲のいい友達だったらサッと借りてサッと返すはずだったのに、ろくに話したことの無い宮原にそれをするのはかなり気が引けた。

 間違えたところを黒く塗りつぶすのにも気が引けていたオレは、そっとノートに鉛筆を走らせ、彼女の机の上にそれをずらした。


 けしごむなくした

 かして


 やってみてどうかな、と思っていたら、ノートを宮原の机にずらしたせいで赤鉛筆が床に落ちてしまった。

 一瞬、赤鉛筆が床に落ちる音で先生に怒られると思ったオレは、イスから立ち上がらずに焦りながらそれを拾い、すぐに何事も無かったかのように姿勢を戻した。

 姿勢を戻しながら後ろを窺うと、先生はまだ何人かの計算を見ていた。

 安心して前を向き、自分のノートを見るとそこには隣の机の上にあった消しゴムがノートの上に置かれていて、オレの字の近くに


 どうぞ


 と、綺麗な字で返事が書かれていた。

 このとき、なぜか、初めて彼女の『声』を聞いた気がした。

 別に宮原は声を出せないわけじゃない。授業のときに先生から指名されれば立ち上って文章も読むし、クラスメイトから話しかければ返事もする。ただその声はか細くて弱々しく、物静かな彼女らしかったけれど、オレのノートに書かれた彼女の『声』は丁寧で、しっかりとしたもので、とても綺麗だった。

 そうしてオレは初めて彼女の字が綺麗だと知り、そういえばたまに先生からそれを褒められることもあったなと思い出した。

 そして、なかなか話さず、声も小さい彼女の本当の、誰も知らない『声』を聞いた気がして、嬉しくなったのを覚えている。

 だから、


 ありがとう

 字、きれいだね


 と返事を書いて宮原に見せたのも、オレからすれば自然な行為だったように思う。今思えば先生だってこの字をいつも見ているのに、このときのオレは何故か誰も知らない彼女の秘密を知ったような感覚に陥っていた。

 そしてさらにそのあとの彼女の返事でさらに計算の間違いを指摘されたオレは、思わず声を出してしまい、先生に叱られることになる。

 それでも頭の中は彼女の『声』のことでいっぱいで、計算問題の解説をしようとする先生から「どうして村山君は笑っているの?」と言われるまで自分の表情に気がつかなかった。

 それぐらい、彼女の『声』が聞けたのが嬉しかった。


 ***


 その後の数カ月は宮原の字が見たくて、事ある毎に自分のノートの隅に他愛のないことを書き、それを宮原が見える位置にずらすことがオレの授業中の日課になった。宮原の隣だと静かになると気がついた先生は事あるごとに何かと理由をつけてオレを宮原の隣にするようになり、オレとしては彼女と沢山話ができるし、その字を見ることができて都合が良かった。

 宮原も宮原で授業中の会話に興味を示したのか、オレのノートに返事をするようになったし、時には自分のノートを使ってオレに話しかけてくることもあった。算数の授業では先生の計算ミスについて確認したり、国語の授業中は慣用句の意味を教え合ったりした。もちろんテレビの話とかいつも宮原が読んでいる本の話とか、他愛もない話もたくさんした。普段の宮原はぼうっとしていて、あまり感情を表情に出さないし、実際に口を聞いたことは多くはないけれど、紙の上で交わされる彼女との会話だと何故か話が進んだ。

 そしてそんなふうに授業中に会話をしていると、いつしかその会話の量が膨大になり、中には授業中に使っているノートの半分近くがその跡で埋まってしまうこともしばしばあった。けれど本来の役割を半分しか果たしていないそのノートは、それはそれでオレとしては充実したものがあったように思う。

 でもそのノートを提出しなければいけないこともあるので、オレと宮原は授業用のノートと提出用のノートを分けるようになった。これは宮原の考えだった気がする。おかげで同じ内容を二回書く破目になったけれど、結果としてそれが勉強に対する抵抗の減少につながったので、後から考えてみればそれはそれで良いことだったようだ。

 それから月日が流れ、学年も変わった。幸いなことに五年になってもオレは宮原と同じクラスになった。

 この頃にはオレと宮原はノートを授業用と提出用に書き分けることは無くなっていて、代わりに真新しい一冊のノートを使ってお互いに言葉を交わしていた。



 村山君って、背は私より小さいよね



 担任が変わり、五年にもなるとさすがにオレも落ち着いて授業を受けるようになり、めったなことで先生から何か叱られるという事はなくなっていた。



 ちいさくない



 そのせいか、あるいは単純に担任の先生が変わったせいか、宮原の隣にオレが座る機会は四年の時と比べて激減した。



 何センチ?



 最初はそれが不満で、いっそのことわざと眼が悪いように言おうかと思ったけれど、後々の視力検査や親への言い訳を含めると悩ましいところなので、結局は何も言わず、結果として、当然だけれども、先生の席替えの際の俺への対応はみんなと変わることは無かった。



 145センチ



 結果として五年の時の彼女との会話の量は、四年の時に比べて半分以下になってしまった。隣に座った時だけこっそり二冊目のノートを机に真ん中に置いていたけれど、そもそも隣になる機会が少なくなってしまったのだから仕方がないことだった。だからといってオレが彼女に直接話しかけるようなことはしなかったし、彼女もオレに話しかけるようなことはもちろん無い。事ある毎にオレが彼女のことを見る機会は増えたけれど、まわりに彼女について囃したてられるのが恥ずかしくて、それがまわりにばれないように教室の外で遊んでいた。



 うそだ。私140センチだけど、私の方が大きいもん



 会話の機会と量が減って、彼女との関わりが同じクラスの他の女子と比べて少なくなっても、会話自体が無くなることは無かった。授業中に言葉を交わすことは無かったけれど、その代わりにオレは自分のロッカーの隣にある彼女のロッカーにノートを入れて渡していたし、彼女は朝早くに来てオレの教科書が詰まった机の中にノートを入れて渡すようになった。何度かクラスメイトに宮原のロッカーにノートを入れるところを見られてしまったことがあったけれど、彼女のロッカーに自分の教科書や資料集を入れさせてもらっていると言えば、それ以上彼らが深入りすることもなかった。もちろん、宮原には本当に予め許可を貰っていることだった。

 授業中に先生に気づかれないよう言葉を交わしていたときと違って、他の目を気にすることなくする会話は、間近でする機会が少なくなった代わりにその量と頻度が少しだけ多くなった。

 そして進級して、オレも宮原も当然ながら六年になった時、幸運にも彼女とは同じクラスで、その上ロッカーも隣だった。

「六年になってもまだ宮原さんのロッカーを借りてるの?」

「いいじゃん、荷物が多いんだもん」

 五年になって彼女のロッカーに自分の教科書を少しだけ入れる口実を作るために、オレは野球クラブに入った。野球クラブは所属している間はボールやグローブを私物化して良いので、オレはそれを自分のロッカーに詰めていたし、他にもめったに使わない裁縫道具や習字道具もロッカーに入れていた。そしてそれは六年になっても同じだった。

「お裁縫とかお習字とか、使わない物は持って帰りなよ」

「めんどくさいの」

「じゃあなんで宮原さんのロッカーにだけ入れるの?」

 こんな質問をされて、ひどく緊張したことを覚えている。ただマシだったのが、オレがロッカーを漁っている後ろからの質問だったので、露骨に出た表情を見られなかったことだった。

「じゃあ矢代のやつにも入れよ」

「あ、ちょっとやめてよ!」

「ついでに横山のにも」

「勝手に入れないでよ! ちょっと!」

 こんなことがあって、オレは第三第四のロッカーを手に入れた。これ以来ロッカーを漁ることに文句を言われるようになったけれど、特に宮原のロッカーに関して言われることは無くなった。とっさの判断ながらカモフラージュは成功したようだ。

 そんな感じで、宮原との三年目の会話は無事に続けられた。オレの身長が彼女に追いつく頃にはノートは七冊になっていて、卒業式前日に書きこんだ最後のページのノートは、二桁になる節目だった。

 

 ***


 小学校を卒業し、当然ながらオレも宮原も中学生になった。もともと住む家が近かったから通う中学校もやっぱり同じだった。

 入学式の日に昇降口に張り出されたクラスの名簿を見る。

 なんとなくわかっていたことだけど、オレのいるクラスに彼女の名前は無かった。

(三年間同じだったのが稀な事なんだよな……)

 オレは一組で、宮原は三組だった。同じクラスにさえなれば名前が近いから小学校の時のように頻繁にノートを渡せるけれど、違うクラスなら会う事さえままならない。

 それどころか、ノートの中の会話が続くという確証もなかった。

 もともとは面白半分でオレが始めたことだけれど、もしかしたら宮原はなんとなく付き合ってくれていたのかもしれない。普段物静かな彼女があれだけ話すというのは、今更ながら不自然な気がして、彼女に無理強いをしていたのではないかとオレは急に不安になった。

 中学校が始まれば、中学生としての生活が始まる。オレも彼女も部活や委員会、学校の勉強に忙しくなるし、下手をすれば彼女が塾に行くかもしれない。たまたま同じクラスだったからやっただけで、本当はオレの感情とは違うものを宮原は抱いていたのではないか、なんてことを考えるようになった。

 彼女の声が聞こえないだけで、一日がやけに長く感じられた。

 入学式の前日に買った新しいノートは、オレの言葉が二行書かれているだけで、入学してから三日たっても言葉が交わされることは無かった。学校にいる間、ずっとそれを持っていると何だかみじめな気がしてきて、新しい学校生活を忙しく感じている中でも、どこかにぽっかりと穴が開いたようだった。

 彼女を見かけるのはせいぜい朝会のときや学年集会のときで、そんなときはノートを持っていなかったり、逆に持っていても、彼女がこちらに気づかなかったりと、会話の機会はほとんどなかった。

 ずっとノートを持っていても、教室の机の上にそれを置いていても、どこかの穴はふさがれることは無かった。

 でもよくよく考えてみれば、廊下に出ればそこは新入生気分で浮かれた同い年がごった返しているわけであって、

「おら村山! 行くぞ!」

 同じ小学校のやつですれ違いそうになれば、挨拶や話したりくらいはするけれど、

「ちょっと、待てって」

 彼女とは挨拶することはないし、話しかけることもないだろう。

「宮原さんってどこ小?」

 だってオレは意地っ張りで、強がりで、

「えっと、北小」

 彼女は物静かで、大人しくて、

「……」

「……」

 それは小学校のころから変らないことであって、

「今の宮原じゃん」

「え? どこ?」

 彼女と言葉を交わすのは、

「今、お前すれ違った……って、ノートどうした?」

「ん? あるけど」

 いつだって特別なノートの中だけで、

「色変わってね?」

「そんなわけあるか」

 そんなノートの中で久しぶりに見た彼女の『声』は、



 村山君、一緒に図書委員やらない?



 オレの中学校生活をようやく始めさせるものだった。


 ***

 

 宮原と同じく図書委員になったオレは野球部に入った。体験入部が終わり、正式に入部してから一カ月後には、もともと少年野球をやっていたためか一年のはずなのにベンチ入りさせてもらえるという、気持ちの悪いくらい幸先のいい部活始めだった。



 村山君、野球部でレギラーなんだって?

 すごいね。



 図書委員の主な仕事はペアで各曜日の昼休みか放課後を図書室で過ごし、貸し出しや返却の手続きをするという簡単なものだった。もちろん空いた時間に本棚の整理や掃除、新しい図書のラベル貼りなんていうものもあったけれど、そういういった仕事が一年生にまわってくることはなかった。



 ありがとう。でもたまたまだよ。ピッチャーがいないんだって。

 あと、レギュラーね。



 初めの一回は三年生の先輩と宮原とオレで三人組だったけれど、三年生は受験を控えているし、もともとはペアで担当という事だったので、ゴールデンウイーク前には毎週月曜日の休み時間はオレと宮原の担当になっていた。



 宮原は部活に入った?



 あれだけ不安がっていたはずなのに、いざ彼女との言葉の交わし合いが始まると、なんだかむずむずとした感覚がした。小学校のときと変わったことはお互いに制服を着ていることとかいろいろあったけど、オレとして一番大きな変化だったのは授業中や家でノートを使って会話するだけではなく、週に一回図書室で彼女が持参したメモ帳を使って直接言葉をやり取りする機会を得たことだった。

小学四年以来の定期的に言葉のやりとりができるその機会はオレにとってかけがえのないものになっていた。



 入ってないよ。



 毎日朝練から始まって、午前中に授業を受け、昼休みはグラウンド整備。放課後は遅くまで部活。土日も部活。中学生としての忙しさに毎日必死になりながら、毎週月曜日の昼休みに聞く彼女の『声』は、どれも心安らぐもので、時間に追われ体力と気力を消耗していく学校生活の中で、ゆったりとした時間が流れるような、本当に貴重なものだった。



 なんで?



 図書室での会話以外でも当然ノートのやり取りは続いていて、オレはノートを借りた体だったり図書委員関連の書類だったり、借りた本を返すときの紙袋の中にノートを一緒に入れていたり、すれ違う瞬間に手渡ししたりといろいろな形で彼女にノートを渡していたけれど、中学生になっても彼女はあいかわらず教科書などでごった返しているオレの机の中へ、毎朝早い時間にノートを入れているようだった。



 いろんな人と話すのは、あまり得意じゃないから。



 幸いにして会話やノートの交換が他の生徒に気がつかれたり、からかわれることはなかった。それだけお互いに慎重になっていたというよりは、四年目になる会話とそのノートのやり取りが不自然なものではなくなっていたからだろうと思う。



 みんなとも紙の上で話ができればいいかもね



 紙を使った言葉のやりとりをするようになっても、彼女は相変わらずだった。休み時間や移動教室の途中でたまに彼女のクラスを覗きに行っても、同じクラスの女子と会話しているところよりも一人で本を読んでいるところを見る機会のほうが多かったし、図書室でもやっぱり相変わらずで、物静かで、本を読んでいるいつもの彼女だった。



 こうやって話すのは村山君だけがいいな



 そんな彼女に影響されてか、あるいは図書委員になったからか、オレもこのころから少しずつ本を読むようになっていた。部活疲れで家に帰ってからは絶対に読めないので、毎週月曜日の昼休みだけの読書だけど、それでも彼女と同じ時間に同じことをして過ごす図書室は居心地のいいものだった。


 ***


 二学期になって三年生が部活を引退し、委員会も似たような時期に引継ぎと呼ばれる時期に入った。部活動では三年生が参加することはほぼなくなるし、それは委員会においても同じだった。

週に一回、昼休みを担当すれば良いだけだった図書委員の仕事も、三年生が担当していた放課後の受付を一、二年生が請け負うことになった。ペアが変わることはなかったけれど、運動部に所属している生徒は無理に残る必要がない、ということだった。

 せっかく彼女と一緒にいる時間が増えることになったのに、三年生が引退して新体制で臨む野球部は、五時間目が終わった瞬間から練習が始まるような勢いなため、放課後まで図書室に行くことはできそうになかった。

「ごめん、宮原。部活があるからこれから放課後の方は、たぶん来られない」

「うん」

「なるべく来ようとは思うけど、たぶん無理だと思う」

「大丈夫。部活、がんばってね」

 こんな会話をして、この日の昼休みは終わった。入学してからほぼ毎週来ている図書室は相変わらず生徒は誰もいなくて、紙に書かなくてもいつでも会話ができる環境だったけれど、お互いに必要以上に声を出して話をすることはなかった。生徒は誰もいないけれど、誰も来ないわけではなく、たとえば授業で使う辞書を借りに着たりする生徒もいるわけで、図書室で本を読む生徒もいないわけではない。だから当然というか、図書室では極力声を出さずに、オレたちとしては都合の良い形で会話をしていた。

 放課後に会話をする口実ができたのに、部活の都合でそれを利用できないのはなんだかもどかしかった。別に今のままでいつもと変わらないのだけれど、一度見せられたチャンスはものにしないとなんだか損をした気分になり、そんなふうに、またいつかのように、関わりが薄くなってきたように感じることが何度かあった。けれど、実際は毎週月曜日に図書室へ行っているし、お互いの都合でどちらかが来ないこともたまにはあるけれど、それを嘆くほどオレは子供でもないし、またそんなことの頻度も高くはなかった。

 ノートのやり取りも続いていて、家に帰ったらすぐに寝てしまう生活になっていたけれど、その分朝が早いので朝飯を食べた後に内容を確認したり、一、二時間目の授業中に返事を書いたりと二学期の間は問題なかった。

 野球部は運動部としては申し分ないくらいに効率的に部活動をしていた。当たり前だけれど、毎日放課後早くから遅くまで校庭で練習ができるわけではない。校庭の広さは限られているし、練習時間も制限されている。だからといって練習が遅く始まったり、早く終わるかというとそういうこともなく、学校の周りを走ったり、校舎内の使われない教室や空きスペースで筋力トレーニングをして時間を過ごすので、結局は効率よく、部活動は続いていた。

 時折雨や先生の都合で部活動が無くなることもあったけれど、それが毎回月曜日になるほど都合の良いことはない。結局、二学期の間にオレが月曜日の放課後に図書室へ行くことは一度もなかった。新人戦で好成績を残すことになった野球部には、テスト休みがなかったのだ。


 ***


「今日の放課後、空いてる?」

 三学期になって最初の月曜日の昼休み。その終わりを告げるチャイムが鳴った後、宮原がそんなことをオレに聞いてきた。

「空いてる、けど。なんで?」

「五時間目が終わったら、体育館脇の花壇のところに来て」

 それ以上彼女が何か言うことはなかった。オレとしては、たとえばどうして今日、野球部がなくて放課後が空いているということを知っているのだとか、放課後の図書室はどうするのかだとか、わざわざどうして人気のないところに行かなくてはいけないのかとか、いろいろと聞きたいことがあったけれど、宮原は有無を言わせず図書室の鍵を返しに職員室に行ってしまった。

 その日、初めて放課後の図書室に行くことを朝から密かに楽しみにしていたオレは、よくわからない理由で一度も行ったことのない場所に行く羽目になった。

 でもまあ、宮原もいるのだから、きっと図書委員関連で何か雑用でもあるのだろうと適当に解釈して、オレは午後の授業に望んだ。このときノートは宮原が持っていたのでオレは黒板に書かれた数式を適当に写しつつ、今日の放課後彼女と会話する内容を考え始めた。

 そんなふうに午後の授業を過ごし、あっという間とはいえない体感時間を感じつつ放課後になった。いつもなら帰りのホームルームの時点でソックスやアンダーシャツを着ているのに今日は朝と変わらない格好で教室に荷物を置きっぱなしにすることの違和感と新鮮味を感じつつ、オレは昇降口を出て奇妙な感覚で体育館脇にある花壇に向かった。

 花壇の手前には倉庫があって、そこに机や椅子の予備が置いてあることは二学期のはじめに知った。新しく図書室に入る本も一度ここには箱詰めにされたまま置かれ、それを図書委員がわざわざ図書室まで運ぶのだ。ちなみに図書室は四階にあって、当然ながらエレベーターもエスカレーターもない。良い所を見せようと思った他クラスの男子が階段でひっくり返ってちょっとした惨事になったのは、今でもときどき話題になる。

 そんなこともあって、このときのオレは完全に図書委員会の都合でここに呼ばれたものだと思っていた。

 だから倉庫のシャッターが閉まっていて、それにもたれかかる形で見慣れない女子が立っていたことに強い違和感を覚え、ようやくオレがここに呼び出された本当の意味を悟った。聞けばここはそういうことに関して条件の良い場所であるらしく、そういった都合を求める生徒の間では一般的なスポットだったらしい。

 目の前の女子が何かを言って、オレのこと見たけれど、オレはオレでそれどころではなかった。見慣れない他クラスの女子から告白されたことや、自分の勘違いのことにも動揺していたけれど、それ以上にこの場面にオレを呼んだのか宮原で、しかもそれがこういうことだというのを知っているらしいことに動揺していた。

 自分で言うのもおかしいけれど、オレはこういったことにめっぽう弱く、一度動揺してしまうと前後の記憶があいまいになり、感覚が不安定になってしまう。

 だから、今の自分の気持ちをしっかりと目の前の女子に伝えようと強く意識していたはずなのに、

「宮原さんと、付き合って、るの?」

 という言葉に対する返事は、オレの記憶の中には残っていなかった。

 気がつけば教室に戻っていて、時間は五時間目が終わってから一時間近く経っていた。体育館脇に行ってからここに戻ってくるまでの間の記憶は曖昧なのに、告白された一言よりも最後に言われた言葉が頭に残って仕方がなかった。

 このとき初めて、オレにとって宮原はなんなのかというのを考え始めた。おそらくは物心がつく前から彼女とは今のような関わり方だったし、きっとこれからもそういうもののような気がした。

 だけどそれはきっと考えることを放棄しているような気がしたのは、落ち着いて考えられるようになったのは、荷物を持って図書室の前に来たときだった。

 ドアを開けると中には女子生徒が二人対面する形で座っていて、勉強をしていた。雰囲気的に三年生だろう。それ以外に人気はなく、受付のところにも誰もいなかった。

 宮原がいなくて何故かほっとしたオレは、荷物を準備室に置き、そこに彼女の荷物があることを確認してから受付に座った。

 受付の引き出しにあるメモ帳には何も書かれていなくて、今ここにいないことに対する理由も書かれていなければ、当然ながらさっきまでオレが体験してきたイベントに対する彼女の言葉も書かれていなかった。人目につく可能性のあるメモ帳にいつものように言葉は書けないだろうけれど、それにしたって今ここにいない理由くらいは書き置いてもいい気がした。

 でもまあ荷物は置いてあるし、開室はしてあるのでいつかは戻ってくるだろうと思いながら、オレは先週の月曜日に彼女から借りた小説を読み始めた。

 しばらく読みふけっていると、図書室のドアが開いた。開けたときの音でもう誰が入ってきたかわかったので、オレは顔を上げることなく読書に没頭した。彼女は彼女で一瞬歩みを止めた後、オレの隣まで来て音も立てずに座った。



 図書委員の仕事だと思ったんですけど



 用意しておいたメモ帳にそう書いて、オレは読書に戻った。

 彼女は自分で読む本を準備してから返事を書いた。



 ごめん。黙ってて。



 そう書いた彼女の字がどこか悲しそうで、申し訳ない感じがした。たぶん、すぐ隣に座っている彼女から感じた部分が大きいとは思うけれど。



 別にいいよ。どうせ頼まれてたんでしょ?



 文にすると印象が良くないなと思いながらも、一度書いてしまったものはすぐには消せなかった。



 うん。ごめんね。



 それっきり、お互いに何も言わず、書かずに本を読んでいた。本を読んでいる間ずっと気まずい雰囲気があったけれど、やっぱりお互いに何も言わなかった。

 そんな雰囲気が嫌で、オレは早い時間から図書室の片づけを始めて、

「オレ、来週からまたこの時間来れないから」

 そう言って最終下校時刻の三十分前に荷物を持って図書室から出た。


 ***


 気まずかった雰囲気は、彼女から帰ってきたノートに書かれたあのときの経緯をオレが読み、それに対して返事を書いたことでなくなった。だから毎週月曜日の昼休みは今まで通りのものだったし、寒さが厳しくなってボールやバットを握るのが辛い時期になっても今まで通り放課後の委員会活動にオレが参加するとはほとんどなかった。

 そして、自分が思っていることを素直に書けなくなったのは、彼女が買った二十冊目のノートを開いたとき日曜日の寒い夜だった。

 その日は朝から部活も何もなく、学校の授業の復習もそこそこに宮原から借りた小説を読んでいた。最近読みなれてきて読む速度が早くなってきたオレは、それを昼過ぎに読み終わってしまい、両親のいない日曜日の昼飯を確保するためにオレは厚着をして外に出た。

 近くの繁華街を適当に歩き、適当に腹ごしらえをして帰ろうとしていたオレは、思いつきで本屋に入った。今までは宮原から借りた本を読んでいただけだったので、たまには自分で本を買い、面白かったらそれを貸そうと思ったのだ。

 その本屋はCDショップも入っているそれなりに大きい規模の書店で、いつもは漫画や雑誌くらいしか買いに来たことはなかった。

 もしかしたら生まれて初めて、まともに本を探しに書店に入ったように思う。よく見てみれば図書室とは違ってたくさんの、いろいろな種類の本があった。このときに初めて文庫や新書、ノベルス、教養書という言葉に出会った。

 それでも新書と文庫の区別がつかないままうろうろしているときに、彼女はいた。

 宮原はもこもことしたダウンを着たまま本を読んでいた。彼女の立つコーナーを見るとそこはノベルス・文庫と書かれた場所で、いつもオレに貸してくれるようなサイズの本がたくさんあるところだった。

(そういえば、家ってこの近くなんだっけか)

 ほんとうに本が好きなんだなと思いながら、彼女に声をかけようと近づいたオレの足が止まったのは、彼女に親しげに話しかける、同じ学校の見知った三年生がいたからだ。

止まった足はそのまま歩みを左に向けて、思わず身体は洋書のコーナーに向かっていた。

(なんで?)

 彼女が本屋にいるのは別に不自然なことじゃない。むしろ最近まで本なんかろくに読んだことがなかったオレが今ここにいることが不自然だろう。

(なんで?)

 どうしてオレは今、ここにいるのだろう。ああ、確か宮原に勧めるための本を選びに来て一度読んでから感想と読みどころを考えた後に彼女にそれを手渡して彼女のことだから三日くらいで返すだろうからそのときに面白かったところを言い合って――

(なんで)

 彼女はあんなに、三年生と親しげに笑っているのだろう。

(どうして)

 どうしてオレは、そんなふうに思っていたのだろうか。

『こうやって話すのは村山君だけがいいな』

 ああ、つまり親しげに笑いあいながら楽しく話すことは誰かとできるわけで、オレだけと思っていた特別は確かに特別なのかもしれないけれど、

 俺が初めて見る彼女の親しげな笑顔がそれ以上特別なもので、それがオレ以外の大切な誰かに向けられていることに関しては、何も感じるべきではないわけで。

(そういう、ことか)

 オレは何も買うこともなく、生まれて初めて興味を持ったはずのたくさんの本を手にとることなく、その場を後にした。何も買う気もなく、彼女と話すこともないオレはどちらにとっても邪魔者なのだろう。

家に帰る途中も考えていることは本屋にいるときと同じ事で、それは彼女が買った二十冊目のノートを開いても同じだった。

 そしてオレは、言葉に表すことができない感情が自分の中に存在することを知った。


 ***


 その次の月曜日から、オレは図書館に行かなくなった。一応ノートには書いたけれど、建前としてはグラウンドに霜が降りたときにそれを取り除くために整備をしなければいけない、というものだった。だから昼休みになると毎日グラウンド整備をしていた。別にこれは当番制で、オレの班は火曜日と金曜日だったけれど、月曜日の昼休みになると決まってグラウンド整備をするようになっていた。

宮原に図書室の仕事をすべて任せるのは申し訳ないと思ったけれど、彼女に会って、隣に座ってどんなことを書けばいいのかわからなかった。

 彼女の『声』を聞かなくなってだいぶ経った。

 図書室に行くことはなくなり、彼女のノートにはまだ何も書いていない。

 俺は彼女から受け取ったノートに、何も書けなくなっていた。

 今まではどんなことを書いていたのか、その自然に書く感覚を思い出せなくなってしまった。

 だからといって今までのノートを見返すこともしなかった。

 もしかしたら、彼女にとっても、あの上級生にとっても、オレはひどく余計なことをしていたのではないだろうかという疑問が、いつも頭をついて離れなかった。

そのまま一週間が過ぎて、とうとうオレは月曜日の昼休みに図書室へ向かった。

 ドアを開ければいつもの席で彼女が座って本を読んでいた。オレを見ると少し驚いた表情をしたて、何かを言いたそうだったけれど、

「ごめん、これ」

 一方的にオレはそう言って中身は受け取ったときのままのノートを彼女に渡した。

「ほんとにごめん、何も書けなかった」

 このとき、図書室のなかに彼女以外がいたかは覚えていない。

「もう、渡してくれなくてもいいから」

 彼女の返事を待つことなく、オレは図書室から出て行った。

 昼休みも放課後も、図書室に行くことはなくなり、いつしか自分が図書委員であることを忘れる日もあった。

 そんなオレの意識の変化があったからか、彼女の『声』を聞かなくなってから二週間ほどしたところで、オレは放課後、図書委員会の顧問の先生に呼び出された。

「村山君、最近図書室行ってる?」

「……いいえ」

 顧問の先生は委員会の時にしかあったことが無く、面識もないのだけれど、何故か彼女はオレに親しげに話しかけていた。しかしオレとしてはほぼ初対面に近いので当たり障りのない態度で先生の質問に答える。

先生はデスクチェアに座りながらマグカップを持っていた。

「野球部だもんね、忙しいでしょ」

「まあ、はい」

「でもね、一応図書委員なんだから、先生としては活動してほしいわけね」

「はい」

「一学期も二学期も昼休みは毎週来てくれてたじゃない」

 図書室に一回も来た事がない先生がどうして知っているのだろうかと思いつつも、顧問だからそれくらいは把握しているのかもしれないなんてどうでもいいことを考えていた。

「あの、図書委員から外してもらってもいいです」

「いや、べつにそういうわけではないのだけれど」

 図書委員としての仕事をしてないから呼び出されたわけではないらしい。

「村山君は、図書委員を辞めたいの?」

「そういうわけではないんですけど……」

「今は忙しいだけなんでしょ? そういう時期もあるから、まあ無理してやらなくてもいいけど、ときどきは昼休みに行ってあげてね」

 そう言って先生はマグカップに口をつけた。

「宮原さん、一人じゃ大変だと思うから」

 職員室を出て廊下を歩いている間、先生の言葉を何度も頭の中で繰り返していた。その行為自体に意味はないけれど、そうでもしないと考えたくないことを考えてしまいそうでそうせずにはいられなかった。

「図書委員の村山君かい?」

 そうやってオレに声をかけてきたのは、いつか本屋で見かけた三年生だった。


 ***


 三年生に連れてこられたのは生徒会室だった。初めて入ったその教室は、ようは教室なわけで、雰囲気としては他の教室と変わらなかった。ただ会議室にあるような長い机がコの字で置かれていて、それを囲むように椅子が置かれていた。

「好きなところに座っていいよ」

 三年生はそう言うと、自分にふさわしい位置に座った。長机の中央にある椅子に腰掛けた彼は、とてもじゃないけど同じ中学生には見えなかった。

「生徒会長がオレに何のようですか?」

 もしかしてこの人もオレの図書委員としての怠惰な姿勢に文句を言いに呼んだのだろうかと思ったけれど、よくよく考えてみれば一図書委員でさらに一年生であるオレにわざわざ生徒会長がじきじきにそんなことをするとは思えなかった。

「まあ、生徒会長だけど、そういう呼び方はあまりしてほしくないのだけど」

 そう言って彼は微笑んだ。

「一応、柳総一郎っていう名前があるんだけど」

「失礼しました、柳先輩」

 軽く頭を下げて、オレは柳先輩を見た。

「あまりこういうことはやったことがないからね、単刀直入に聞くけど」

 机の上で腕を組む先輩は、やっぱり同じ中学生には思えなくて、とても大人びて見えた。

 宮原はこういう人が好きなのだろうか。

「最近、図書室に来ないのは何故だい?」

「部活動が忙しいからです」

 意外だけど、予測できた質問だった。

「野球部だっけ?」

「はい」

「昼休みは毎日グラウンド整備をしているらしいけど」

「霜が残っていると危ないんで」

「でもそれって、当番制じゃないの?」

 どうしてそんなことを知っているのかと思ったら、引退した先代部長と仲がよく、本人から直接事情を聞いたらしい。

「それがどうかしたんですか?」

「いや、村山君が整備を担当している曜日と図書室の担当をしている曜日が被っているわけではないはずなんだけど、どうして図書室に行かないんだい?」

 どうしてどいつもこいつも、オレを図書室に行かせたがるんだろうか。

 しかも、きっかけとなった張本人から言われている。

 あそこにはもう、オレの居場所はないのに。

「マウンドの整備は自分でやりたいんです」

「なるほど。でもマウンドの整備をするのは月曜と火曜と金曜の三日だけだし、それに三週間前は月曜日もやってもらってたよね?」

「……」

「ごめんね、回りくどいのは嫌いなんだ」

 そういって柳先輩は、聞かれるはずのない、けれど今オレが一番聞かれたくないことを言った。

「何故、由紀を避ける?」

 他人の口から初めて聞く彼女のファーストネームは、先輩が口にすると妙にさまになっていて、まるで彼以外が口にしてはいけないような言葉に感じた。

「よかったら、理由を聞かせてもらえないかな?」

 そう言って柳先輩は首を傾げた。

 この人はいったい何がしたいのだろうか。

 なんでそんなことをオレに聞くのだろうか。

 理由は明白なのに、どうしてそれをオレの口から聞きたがるのか。

 優しい貴方が彼女の隣にいて、

 貴方の隣にいた彼女の笑顔がまぶしかったからですよ。

 そう、オレに言わせたいのだろうか。

「この前、一緒にいるところをみたんですよ」

「誰が?」

「先輩と、宮原が」

 言っていて、いかに自分が今まで二人にとって余計なことをしていたのかを痛感した。

 この今感じている気持ちが、その証拠だ。

「えーと、どこでだい?」

「砂河書店です」

「ああ、駅前の」

「えっと、いつのことかな」

「三週間前の、日曜日」

「先週一緒に行ったのは覚えているけど、三週間前っていうのは、ちょっと覚えてないな」

 そう言って柳先輩は考え込むような仕草をした。覚えているのにとぼけているのではないかと思いたくなるけれど、何故かそんな嫌味をするような人には思えなかった。

 つまり、今オレが感じている罪悪感とそれ以外の何かというのは、彼女たちからの罰なのだろう。

 宮原と柳先輩には何の関係のない話。

 ただオレが、調子に乗って舞い上がっていただけで、その罰なのだ。

「でも別に僕と由紀が一緒にいるのは、そこまで不自然なことじゃないだろう?」

 二人からすればそれはとても余計で邪魔なことだったに違いない。

「そう、なんですか」

「まあ、学校では別々だけど」

「……」

 限界だと思って、弱い俺が前から考えていたことを口にする。

「オレ、もう図書室には行きません」

 そのオレの言葉を聞いて、本当に、柳先輩は悲しそうな顔をした。

 ほら、彼は宮原のことを第一に考えていて、

 そのためなら柳先輩にとって明らかに邪魔であるオレの存在も認めてくれる。

「何故だい?」

「もう、宮原に余計なことしたくないし、二人の邪魔もしたくない」

 だからといって、

「二人の邪魔? どういうことだい?」

「だって、柳先輩と宮原は付き合ってるんじゃないんですか」

 それに甘えて宮原の隣に座るなんて、

「……ああ、由紀は言ってなかったのか」

 きっと、弱いオレには耐えられないのだろう。

「由紀は僕の妹だよ」

 だけど、現実は唐突で、

「は?」

 柳先輩はやっぱり優しくて、

「いや、だから彼女は僕の妹だよ」

 弱いオレを助けてくれて、

「え?」

 震える背中を、押してくれた。

「ああ、名字のことかい? うちの両親は事実婚でね。柳は父親の姓、宮原は母親の姓だよ」

 笑いながら、何も聞かずに柳先輩は話してくれた。

 本当に、良い人だと思った。

「まあ、近年稀に見るくらい奥手の妹のために、兄として一肌脱がないわけにはいかないだろう?」

 どこで間違えたのだろう。

「だからこうやって、わざわざ生徒会室の鍵を開けて、勘違いしているらしい君と一対一で話しているのだけれど」

 何を悩んでいたのだろう。

 そして、やっぱり魅力的な表情で首を傾げるその彼の仕草は、どことなく彼女に似ているような気がした。

「さて、図書室に行く理由はできたかな?」


 ***


 図書室に向かうと、すでに鍵は閉められていた。本棚などの室内の改装工事の都合でいつもより早い閉室になるという理由を、委員会に出ていないオレが知るのはもう少し後になってからだった。

 教室に戻るとオレの荷物以外は何も変わっていなくて、

 オレの荷物の上に一冊のノートが置かれていた。

 オレはそれを手にとって、ページをめくり、



 村山君へ



 そのまま、教室を飛び出した。



 私がこの町に転校してきた小学校四年生のときから続いているから、もうこのやりとりも四年になるね。

 だから、渡してから何も書かれていないノートを見るのは、

 私にとってはちょっと新鮮で、

 すごく、悲しかったです。



 階段を駆け下りて、昇降口を上履きのまま駆け抜ける。

 


 口下手で面白くもない私には、小学校に入ってから友達が一人もできませんでした。

 だから、お母さんと一緒にお父さんの町へ引っ越してきたのが四年前。

 村山君と会ったのもちょうどそのとき。



 校門を出てから、サッカー部のやつらとすれ違った。

 宮原の家の方向はわかっている。



 それから四年間、暗くて、つまらない私の話を聞いてくれてありがとう。

 いろいろなところで、私の支えになってくれてありがとう。



 交差点の先に彼女が見えた。

 


 今年の最初に、一緒に図書委員になってくれてありがとう。



 でも信号は俺の行く手を阻んでいて、

 


 もう、村山君に頼るのはおしまい。



 だけどその赤は、止まれという意味ではなく、

 


 今、村山君が忙しいのはわかってる。

 だから、図書室のことは安心して私に任せてね。



 何故かオレには、少し休めという意味に感じられた。



 今更、こんなこと言っても、

 村山君には迷惑かもしれないけど、



 信号が青になった瞬間、オレはスタートを切る。

 これが盗塁だったら、絶対に成功しているだろう。



 ずっと村山君が大好きでした。



 一度見た背中を追いかけ、



 そして、その気持ちは今も、これからも変わらない。



 何度も迷って、結局一度もノートに書けなかった、

 この気持ちを伝えるために。

 


 野球、がんばってね。



 いつもより、弱々しく、けれど強い決意で書かれた彼女の字は、

 いつもの彼女の姿からは想像できないものであって、

 そして、後ろからでもわかる彼女の姿は、


「宮原!」


 いつもよりも小さく見えて、


「宮原!」


 いつもよりも、弱々しかった。


「なんで、なんで泣いてんだよ」


 オレに手を引かれて振り返った彼女の顔は、


 今までに見たことがないくらい感情を表にしていて、


「だって、だって、村山君が……」


 いつも以上に、愛おしかった。 


「ごめん」


 何も言わずに、彼女の決意が書かれたノートを握ったまま、


「ひどいよ、私、ちゃんと書いたのに」


 宮原の小さな身体を抱きしめた。


「ごめん」


 そして彼女の決意を胸に秘め、 


「わがままに、あんなの書いて、ごめんね」


 彼女の顔を胸に抱く。

 そして、


「ううん、そんなことない」


 そう言って彼女の潤んだ瞳を見て、


「ありがとう」


 ノートに書けなかったものを伝えた。


「大好きだよ」



最後まで読んでいただきありがとうございました。

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