母へ。ケーキは一つで足りるとのことですので、二十歳の誕生日の一つは、私のために焼きます
「お祝いは一つでいいでしょう。同じ日に生まれたんだから」
母のブリギッテがそう言ったとき、私は作業台の上で朝のパンの生地を丸めているところだった。
夜明け前の菓子店の厨房にはまだ誰の足音もない。窯の火は私が二時に起こした。壁の棚に並んだ型も、粉の袋も、今日の注文書も、すべて昨夜のうちに私が揃えている。
「今日は、グレーテの歌の会ね」
母は注文書の束を片手に、反対の手で髪を撫でつけた。
「劇場の控えの間に、三段のケーキを四時までに届けてちょうだい。市長夫人もいらっしゃるから、飾りは念入りにね。蜂蜜は入れないで。夫人は甘すぎるものが苦手なの」
「分かりました」
「それから」
母は少し言いにくそうに笑った。
「あなたの誕生日のことだけど。今年もグレーテの会と一緒にしましょう。三段のケーキをひとつ焼いてくれれば、それで二人分でしょう。お祝いは一つでいいわよね」
生地の上で、手が止まった。
今日は私とグレーテの二十歳の誕生日だった。
二階から足音がして、グレーテが寝間着のまま厨房に顔を出した。
「おはよう、お姉様。今日のドレスの裾、少し短いかも。後で見てくれる?」
「ええ」
「ありがとう! お母様、行ってきます、リハーサルよ」
彼女は母の頬に口づけして、嵐のように出ていった。悪気はどこにもなかった。祝われるのが当たり前の人は、自分が祝われていることにも気付かない。
双子の妹のグレーテは、歌が上手い。十五歳のときに教会の聖歌隊で独唱を任されてから、町の誰もが彼女を知っている。母はその年から、誕生日を「グレーテの歌の会」と呼ぶようになった。ケーキは歌の会のために焼かれ、飾り文字にはグレーテの名前が入り、蝋燭は二十本、全部グレーテの前に立てられる。
私の名前は一度も入ったことがない。
一度だけ、入りかけたことがある。十五歳の年に、母が飾り文字の下書きに「グレーテとアンネリー」と書いて、そして「長くなるから」と後半を消した。
八歳の誕生日には、グレーテに新しい人形が贈られ、私には「同じ日だから半分こね」と、人形の古い服が渡された。十二歳のときには、グレーテに綺麗な靴、私には「あなたは手がかからないから」と新しいエプロン。そのエプロンは今でも使っている。毎日、粉まみれにしながら。
「お祝いは一つでいいでしょう」
母がもう一度言った。叱るでもなく、決まりを確かめるみたいに穏やかに。
「あなたは手のかからない子だから、助かるわ」
◇
「お祝いは、一つですね」
「ええ」
「それなら、ケーキを一つ焼きます」
私は粉のついた手で、エプロンの紐を解いた。
「今日は私の二十歳の誕生日です。劇場のケーキはお引き受けできません。焼くのは、私のための一つです」
母は何を言われたのか分からない顔をした。
「何を子供みたいなことを。劇場にはもう約束してあるのよ」
「約束なさったのは、お母さんです」
「あなたが焼かなかったら、誰が焼くの」
「それはお母さんがお考えになることです」
「だったら、夜に家で小さくお祝いしましょう。それならいいでしょう?」
「それは、お祝いが二つになりますね」
「揚げ足を取らないでちょうだい」
母は唇を尖らせた。娘の誕生日を祝うことが、手間のかかる追加の仕事であるかのような顔だった。
自分の声が思ったよりも静かだった。母は口を開けたまま、注文書の束を胸の前で握りしめていた。
厨房を出て、屋根裏の自分の部屋に上がった。寝台の下から、古い缶を引き出した。
中には、三年かけて少しずつ貯めたものが入っていた。林檎を薄く切って干したもの。郊外の養蜂家から分けてもらった蜂蜜の壺。胡桃。ライ麦粉の小さな袋。そして、一冊の帳面。
帳面の表紙には何も書いていない。中には、私が店の仕事の合間に書き溜めた菓子の覚え書きがある。いつか自分のために焼きたいと思いながら、一度も焼けなかったものが、十七頁ぶん。
店の客はいつもクリームとチョコレートを求める。母は「売れるものを焼きなさい」と言い、私は売れるものを焼いた。だから帳面の菓子はずっと缶の底で眠っていた。
私は缶を抱えて階段を下り、勝手口から外に出た。
裏の石段に、蝋燭が一本置いてあった。
毎年、誕生日の前の晩にそこに置かれている。蜜蝋の、細い蝋燭だ。誰が置いていくのかは知らない。教会の誰かの気遣いだろうと思って、いつも大事にしまっていた。
今朝の蝋燭はまだ温かいように見えた。
私はそれをエプロンのポケットに入れて、町の広場へ歩き出した。
◇
町の共同窯は広場の北の外れにあった。
石を積んだ大きな窯の周りに、小さな竈がいくつも並んでいる。染物屋の鍋。膠を煮る職人の釜。蝋燭屋の蜜蝋を溶かす湯煎の鉢。朝の冷たい空気の中に、薪の煙と蜂蜜の甘い蒸気が混ざっていた。
「予約は、昼からだよ」
窯守のピア婆さんは杖に顎を乗せたまま言った。
「お代は払います。端のほうを少しだけ、貸してください」
「あんた、ブレンナーの店の子だね。母さんは知ってるのかい」
「知りません」
ピア婆さんは私の顔をしばらく眺めてから、杖で窯の左側を指した。
「奥の一段なら空いてる。薪は自分で足しな」
礼を言って、缶を開けた。
蜂蜜を木の匙で溶き、ライ麦粉に混ぜて捏ねる。干した林檎を細かく刻み、胡桃を砕いて加える。厨房ではいつも急いでいたけれど、今朝は急がなくていい。誰の注文でもない生地は手の中で、ゆっくりと形を取っていった。
窯の奥で生地を寝かせていると、ピア婆さんが杖を鳴らして近づき、戸の隙間から匂いを嗅いだ。
「悪くない匂いだね。蜂蜜は、窯の前で入れたのかい」
「はい。焼く直前に入れると、香りが逃げません」
「誰に習った」
「誰にも。自分で試しました」
「ふうん」
婆さんは鼻を鳴らして、口の端をわずかに上げた。それが褒め言葉だと分かるまでに、少し時間がかかった。
「それは、店のじゃないな」
声がして顔を上げると、湯煎の鉢の向こうに、背の高い男が立っていた。
ラルフ・オーベルト。うちの向かいの蝋燭屋の若主人だ。二十九歳。毎朝、パンを一つだけ買いに来る人で、私とは「おはよう」と「ありがとう」しか話したことがない。腕に蜜蝋の塊を抱え、袖に細かな蝋の粒が付いていた。
「今日は、劇場の仕事じゃないのか」
「今日は、違うんです」
「そうか」
彼はそれ以上訊かなかった。蝋の鉢の火を整え、それから、私の窯のほうへ歩いてきて、戸の隙間に指を当てた。
「風が入ってる。ここを詰めないと、焼きむらが出る」
濡らした布を戸の縁に押し込むと、窯の中の熱が、きゅっと落ち着いたように感じられた。
「ありがとうございます」
「三時になると、うちとあの店だけ灯りがつく」
ラルフは蝋の鉢に目を戻したまま言った。
「俺が蝋を煮る時間と、あんたが生地を捏ねる時間が同じなんだ。向かいの窓から、五年、見ている。あの店のケーキの味が変わったのは、あんたが生地を触るようになってからだ」
喉が詰まった。
「母の店です」
「店の看板は、母上の名前だ。味は、あんたの手だ」
生地を窯に入れた。重い鉄の戸を閉め、薪を足す。焼き上がるまで、一刻ほどかかる。
待つ間、ラルフは蝋の鉢の向こうから、ときどきこちらを見ていた。声はかけてこない。ただ私の窯の薪が減ると、黙って自分の薪を一本、足してくれた。
ラルフがふと私の手元を見て訊いた。
「誰のケーキだ」
「私の。……今日は、私の誕生日なんです」
彼は一度だけ瞬きをした。
「そうか。おめでとう」
それだけだった。
けれど、その二つの言葉は私の中にまっすぐ届いた。今朝、この町で最初に誰かの口から出た、私に向けたお祝いだった。
私は急いで窯のほうを向いた。目の端が熱くなったのを、薪の煙のせいにした。
「そのケーキの名前は」
背後から、ラルフの声がした。
「まだないんです。帳面の十七頁の中で、いちばん最初に書いた菓子で」
「十七頁分、焼きたいものがあるのか」
「いつか、全部」
「そうか。じゃあ、今日は一頁目だな」
彼はそれだけ言って、蝋の鉢に戻っていった。
◇
焼き上がりの香りが広場に流れ出した頃、石畳を駆けてくる足音が聞こえた。
「アンネリー!」
母だった。後ろからグレーテが歌の会のために仕立てた薄青のドレスの裾を持ち上げて走ってくる。母の髪は乱れ、頬は紅潮していた。
「こんなところで何をしているの。四時までにケーキを届けなければ、市長夫人に何と言い訳するの。劇場の使いはもう三度も店に来たのよ」
「お母さん。私は朝、お断りしました」
「断ってどうするの。お客様との約束なのよ」
広場の端から、劇場の制服を着た少年が走ってきて、母の袖を引いた。
「奥様、市長夫人がお着きです! ケーキは、まだですか!」
窯の周りには、いつの間にか町の人たちが集まりかけていた。パン屋の主人。洗濯女たち。窯の順番を待つ子供たち。母は人目に気付いて、声を落とした。
「店の信用がかかっているのよ。分かっているでしょう」
母は私の後ろの窯に目を留めた。ちょうど私が戸を開け、焼き上がった菓子を石の台に取り出したところだった。
金褐色の、小さな丸いケーキ。ライ麦と蜂蜜と林檎と胡桃。表面に十字の切れ目を入れて、そこから蜜が滲んでいる。
「あら」
母の目が一瞬だけ柔らかくなった。
「これでいいじゃない。飾りを足せば、劇場に出せるわ」
母の手がケーキに伸びた。
「やめて」
その手首を、横から掴んだ手があった。
グレーテだった。
「お母様。それはお姉様のケーキよ」
「グレーテ、離しなさい」
「離さない。お姉様が、二十歳の誕生日のために焼いたの。そうでしょう、お姉様?」
グレーテは母の手首を放さないまま、私を見た。薄青のドレスの肩が小さく震えていた。
「今朝、気付いたの。去年までのケーキのお皿を、全部見直したのよ。飾り文字は、全部、私の名前だった。蝋燭も、全部、私の前だった」
「グレーテ、何の話を」
「私はずっと、自分の誕生日だと思ってたの」
グレーテの声が掠れた。
「お姉様と同じ日だって、頭では知ってたのに。ケーキを焼いてくれるのは、お姉様だったのに。私、一度も、お姉様にお祝いを言ったことがなかった」
広場の石畳に、朝の光が白く伸びていた。窯守のピア婆さんも、ラルフも、黙って成り行きを見ていた。
グレーテの声を聞いているうちに、胸にあった怒りの行き先が、ふっと分からなくなった。この子に怒っていたのではなかった。気付かれなかったことが悲しかっただけなのだと、そのとき初めて分かった。
母がうろたえた声で言った。
「だって、アンネリーは何も言わなかったじゃないの。言ってくれれば、母さんだって」
「言わなかったのは、私です」
私は母の目を見た。
「でも、聞かなかったのは、お母さんです」
母の唇がわなないた。
言い返す言葉を探している顔だった。けれど出てきたのは、小さな呟きだけだった。
「……一つで足りると、思っていたのよ」
グレーテが母の手首をそっと放し、一歩前に出た。
「お母様。劇場のケーキは、なくていいわ」
「何を言うの。市長夫人が」
「私の会は、歌を聴いてもらう会よ。ケーキを食べてもらう会じゃない。市長夫人には私が謝る。お母様も一緒に謝って」
グレーテはそう言って、深く息を吸った。細い肩が見違えるようにまっすぐになった。
◇
その日の歌の会はケーキなしで開かれた。
私は客席の一番後ろで聴いた。グレーテの声は三年前の独唱の日よりもずっと遠くまで届いていた。
最後の曲の前に、彼女は舞台の真ん中で、客席を見渡した。
「最後の曲は、今日、私と同じ日に生まれた姉に捧げます」
ざわめきが広がった。最前列の母が、息を呑むのが見えた。
「毎年、姉が私のために焼いてくれたケーキで、私は祝われてきました。今日は、姉の二十歳の誕生日です。……お姉様、おめでとう」
客席の視線が一斉に後ろを向いた。私は顔を上げられなかった。
終演後、舞台裏の廊下でグレーテが走ってきて、私の手を両手で握った。
「怒ってる?」
「少しだけ」
「少しだけ?」
「少しだけ。でも、最後の歌は嬉しかった」
グレーテは泣き笑いの顔になった。
夜、店の厨房で、私は小さなケーキを四つに切った。
母は食卓の端に座ったまま、何も言わなかった。市長夫人に頭を下げて帰ってきた母の顔は、いつもより小さく見えた。グレーテは私の隣に座って、一切れを口に運んだ。
「おいしい」
彼女は目を丸くした。
「こんな味、初めて。林檎の酸っぱさと蜂蜜が、後から追いかけてくる。私がいつも食べていたケーキとは、全然違う」
「そうね。あれは、お客様の好みで焼いたものだから」
「じゃあ、これが本当のお姉様の味なのね」
グレーテは二切れ目に手を伸ばして、手を止めた。
「来年は、二つ焼いてくれる? 私も手伝うから」
「一人一つ?」
「うん。一人一つ」
食卓の端に置いたままの缶から、母が帳面を取り上げた。
「これは、あなたが書いたの?」
「はい。店の仕事の合間に」
母は頁を一枚めくり、もう一枚めくった。指先が頁の端で止まった。
「こんなにたくさん。……売れるものを焼きなさいと言ったのは、私ね」
「はい」
「あなたは、これを焼きたかったのね」
「ずっと」
母が椅子の上で、小さく身じろぎした。そして、ほとんど聞き取れない声で言った。
「アンネリー」
「はい」
「……二十歳、おめでとう」
遅すぎる、と思った。けれど、ありがとう、と言うと、母は俯いたままうなずいた。
それから母は黙って食器棚から皿を出した。同じ大きさの皿を二枚。ひとつを私の前に、ひとつをグレーテの前に置いた。皿の縁はどちらも少し欠けていた。同じ日に買った皿だった。
◇
真夜中を過ぎて、私は勝手口から外に出た。
四分の一だけ取っておいたケーキの欠片を皿に載せて、石段に座る。夜の空気は冷たく、向かいの蝋燭屋の窓にだけ、淡い灯りが残っていた。
「まだ起きてたのか」
足音もなく、ラルフが通りの向こうから渡ってきた。上着の肩に、細かな蝋の粒がまだ付いている。
「眠れなくて」
「だろうな」
彼は石段の脇に立ち、私のエプロンのポケットを指した。
「その蝋燭、今朝の分だろう」
私は驚いて、ポケットから蝋燭を取り出した。
「これを置いていたのは」
「俺だ」
ラルフは頬を掻いた。
「九年前、親父の店を手伝い始めた年からだ。毎年、劇場に納める二十本の箱から、一本だけ抜いておいた。二十本全部があっちの前に立つのを、通りから見ていたから」
「どうして」
「一本くらい、あっちの数に入れなくていい蝋燭があってもいいと思った。名前も付けずに置いたのは、受け取る側が、重く感じるといけないと思ったからだ」
蝋燭は細く、蜜蝋の甘い匂いがした。毎年、大事にしまっていた。引き出しの奥に九本、並んでいる。
「どうして、名前も付けずに」
「名前を書いたら、あんたは返さなきゃいけないと思うだろう。返事の要らない贈り物が、ひとつくらいあってもいい」
私は笑ってしまった。笑いながら、頬が濡れていた。
ラルフが上着の内側から小さな蝋燭立てを取り出した。
「今年は、直接渡そうと思った」
彼は私の皿の上のケーキに、立てを置き、蝋燭を一本差した。擦った火種が小さな炎になった。
「お祝いは一つでいいと言われたんだろう」
「聞いていたんですか」
「窯の前で、母上がそう言っていた。……一つでいい。今夜のこの一本は、あんたひとりの分だ」
炎が揺れた。蝋燭立ての底には、小さく「A」の字が彫ってあった。蜜蝋の甘い匂いが、ケーキの蜂蜜の匂いと混ざって、夜気の中に立ちのぼる。
引き出しの九本と今朝の一本は、全部、同じ人の手によるものだったのだ。毎年、誰にも知られないまま、私の名前を知っている人が、通りの向こうにいた。
「来年は」
ラルフは言いかけて、言葉を選び直した。
「来年はグレーテさんの分は、グレーテさんが自分で立てるだろう。あんたの分は、俺が二本作る。一本は店のケーキ用に。もう一本は、今日みたいに、あんたひとりの分に」
「二本も」
「一本だと、なくなったときに、また次の年を待つことになる」
可笑しくて、泣きそうになった。
私は目を閉じ、息を吹きかけた。
炎が消える直前、私は願い事を思いついた。
来年はその人と二つ分を焼けますように。
一本の蝋燭の灯りは二十年目にして初めて、私ひとりのものだった。
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