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続き

第四十二話 背中を預けた者


 降伏の朝の空は、きっぱりと晴れていた。五稜郭の外郭に沿って薄い雲が一筋、淡く裂け、そこから冷たい光が落ちてくる。風はまだ冬の残り香を含んでいて、頬に触れると骨の奥まで澄んだ痛みが走る。それでも、堀の水際には春の影が芽吹いていた。葦の間から顔を出した水鳥が、こちらの列を一度だけ見て、何事もない顔で翼を整える。世界は続いている、と鳥の態度が示していた。彼らには旗も官軍も旧幕も関わりがない。名を刻まず生き、名を刻まず渡っていく。


 捕虜の列は静かだった。銃剣は被せ布で包まれ、鉄の光は抑えられている。甲冑の鳴りもほとんど聴こえない。気配だけが寄り合い、手の甲の乾きや足裏の冷えが、群れの呼吸という形で連なっていた。榎本武揚が前に立ち、大鳥圭介がその隣で目を細め、荒井郁之助は口を引き結ぶ。彼らの背中に、栄達の夢はない。あるのはただ、責のかたちだ。その重さは、肩に見えず腹に沈む。沈んで、なお歩く。


 蓮は列の中ほどで、静の肩幅と同じ高さに視線を置いた。視界の左端に静の横顔の輪郭がかすかにかかる。頬の線は細い。白装束の噂はここにも届いていたが、いま、静の衣は白でも黒でもない。薄鼠の木綿に、旅の埃が薄くついて、指を走らせればざらりとするだろう。蓮は呼吸を整え、喉の奥で言葉になり損ねた声をひとつ、丸めて飲み込んだ。


「静」


「はい、矢野さん」


「ここまで、だな」


「はい。……いったんは、ここまでです」


 返ってくる響きは変わらない。砕けた敬語が、内臓の奥に温かく沈む。口調は冷ややかなのに、温かいのはなぜだろうと蓮は思う。たぶん、そこに嘘がないからだ。美辞も恥じらいもない、薄い布一枚のやり取り。寒いからこそ身に合う。


 門が開いた。黒田清隆の陣の前に白い幕が垂れ、印判の押された木札が整然と並ぶ。列は一人ずつ名を問われ、名のない者は出身と年恰好を記される。榎本、大鳥、荒井、永井——名が声に出されるごとに、周囲の空気がわずかに硬くなる。名は人を縛る。名がない者は、その代わりに声と目つきを記録に留められる。蓮はそれでも名を告げなかった。出自と年恰好、隊の呼称だけを答え、静かに次へ進む。静も同じだった。


 官軍の若い記録係が、筆を走らせながらふっと顔を上げた。


「お前たち、新選組にいたのか」


「……いたよ」


 蓮が短く答えると、記録係は一瞬だけ目を細めた。そこに敵意はない。興味と、わずかな畏れと、さらにわずかな憧れが混ざっている。若い者にとって戦はまだ遠い場所の物語だ。現に触れるとき、触れた指は震える。記録係の指先がほんのわずか震えて、紙に小さな点を作った。その点は、誰にも読まれないだろう。だが点は点だ。紙の白の上に、黒は残る。


 武器はすでに渡した。腰は軽い。軽さのせいで背中が寒い。蓮は歩きながら、肩甲骨の内側に芯のような冷えを感じた。そこに、背を預けてきた年月の重さが、抜けた空洞として残っている。空洞は風を入れ、身体の中を清める。清められた分だけ、寒い。


 城外の広場に案内され、俘虜の整理が始まった。寸法を測るような視線が往来し、江戸へ送る者、箱館に留め置く者、病者の収容順が決められる。蓮と静は「江戸送」の一群に入れられた。紙札が紐で手首に通され、薄い文字で番号が記される。番号は名の代わりだ。番号には母も父も、故郷の潮の匂いも宿らない。だが番号は、番号の務めを果たす。呼ばれれば立ち、引かれれば歩く。その単純さが、いまはありがたい。


 日が高くなると、空は青を増した。海からの風が潮の金気を運び、遠くで鐘が一度鳴る。どこの寺だろう、と蓮は思う。箱館に来てから幾度も夜明けと夜更けの鐘を聞いたが、鐘の音だけは土地で分けられない。京でも江戸でも会津でも、鐘は同じやさしさで空を震わせる。鐘が鳴ると、人が息をつく。息をついて、前を向く。


 昼過ぎ、榎本らが正式に官軍の陣へ赴き、降伏文書に調印した。戻った榎本の顔には、奇妙な静けさが宿っていた。負けた者の顔でも、勝った者の顔でもない。選んだ者の顔だ。選ぶという行為は、その場では評価されない。後に様々な名前で呼ばれる。裏切り、英断、臆病、賢慮——呼び名は気候のように移り変わる。そのどれにも榎本は目を向けなかった。彼の目は紙の線の先、まだ形を持たない未来のほうを見ていた。理科の教師が黒板の数式の先を眺めるような、乾いた情熱だ。


 夕刻、俘虜の列は港へ向かった。小さな桟橋に官船が横付けされ、甲板には藁が敷かれている。江戸へ——新政府はそう言った。江戸のどこへ、いつか、と問う権利はここにはない。蓮は船板の軋む音を聞きながら、潮の沈んだ匂いを吸い込んだ。肺の奥で昔の匂いが目を覚ます。浅草の川端、関東の湿り、父と母の影。名を呼ぶ声はもうどこにもないのに、肺だけが覚えている。身体は記録帳より正確に過去を持っている。


 乗船の前、蓮は静と短く目を合わせた。


「静、ここからは長い旅になるかもしれない」


「はい、矢野さん。……長い旅に、向いている足を持ててよかったです」


「お前の足音は昔から薄い。船でも薄いのか」


「試します。甲板が嫌がるかどうか」


 冗談の片端で、静は笑った。蓮の胸がほどける。笑う余裕が少しでも残っているなら、大丈夫だ——そう自分に言い聞かせる。笑いは刃の鞘だ。鞘がある限り、刃は光りすぎずに済む。


 船が岸を離れると、五稜郭の星形が低く遠くに見えた。角が減り、線が曲がり、やがてただの濃淡になって、さらにやがて一点の影になった。蓮は縁に手をかけ、目を細めた。眼の奥が熱を持ち、視界の輪郭がわずかに滲む。泣くのは武器を渡したあと、と静は言った。今は渡したあとだ。泣いていい。だが、涙は出なかった。涙は、ときに遅れて来る。遅れて来るもののほうが、深く沁みる。


 海は凪いでいた。新政府軍の護送船は無駄のない速度で北の岬を回り、津軽海峡へ出る。甲板の上で俘虜たちが膝を抱え、誰かが小さな声で故郷の節を口ずさむ。会津の節か、江戸の端唄か、箱館で覚えた新しい歌か。音程を外すたびに風が拾い、音の欠片を海へ落とす。海は何も答えない。答えないが、受け取る。


 日が傾き、空が茜を帯びると、静がそっと蓮の袖を引いた。


「矢野さん」


「なんだ」


「海の匂い、江戸に似ています」


「ああ。……帰る匂いかもしれない」


「帰る場所はないですが、匂いは帰ってきます」


「匂いは名がいらないからな」


「はい」


 二人は黙り、海の水平を見た。線はただの線だ。だが、この線のこちら側とあちら側を何度も往復してきた人間にとって、線はさかいであり、命の草履の鼻緒のようなものでもある。鼻緒が切れれば歩けない。海は何度も鼻緒を切り、また結ばせた。


 江差を過ぎ、松前の影が遠くになり、月が薄く出た。甲板の端で、ひとりの男が立ち上がった。背が高く、痩せている。頬は削げ、目がぎらぎらと光っている。男は突然、船縁に足をかけた。周囲が息を呑む。男は海に向かって叫んだ。


「俺はまだ、刀を渡していない!」


 叫びは風に裂かれ、海面に叩きつけられた。男の足が外へ滑る。蓮の身体は先に動いた。足を踏み込み、男の帯を掴む。帯がきしみ、手のひらが焼ける。静が横から肩を支え、二人で引き戻した。甲板に転がり落ちた男の目から、涙が一筋こぼれた。


「……すまねえ」


 男の声は乾いていた。蓮は息をつき、男の肩を叩いた。叩く手の平が震えている。救った。救った、と思うと、遅れて恐怖が来る。指の腹の感覚が戻ると同時に、内側で何かが崩れる音がした。静が何も言わず、蓮の手首を一度だけ握った。痛いくらい強く、そしてすぐ離した。その一瞬の強さが、蓮の中の崩落を止める。


 夜、船は青森の沖に停泊し、翌朝、津軽の港に人足が現れた。沿岸の人々は遠巻きに俘虜の列を見た。女が子の手を引き、男が肩に籠を担ぎ、誰もが静かだった。嘲りも歓声もない。戦の遠い土地では、敗者はただの旅人のように見える。旅人は、いつの時代も冷たい目にも温い目にも出会う。蓮はその中間の温度に安堵した。


 短い陸路で休息小屋に収容され、粥が配られた。米粒は少なく、湯は薄い。薄いが温かい。温かいというただそれだけの事実が、身体のほうで先に喜ぶ。蓮は器を両手で包み、湯気で鼻腔を湿らせた。隣で静が小さく咳をひとつした。蓮は器を置き、静の肩を見た。


「静」


「はい、矢野さん」


「……大丈夫か」


「はい。海の風で喉が冷えただけです」


 静は笑った。薄い笑いだ。総司の咳を初めて聞いた夜のことが、蓮の中で一瞬にして鮮やかに蘇った。稽古場に落ちた赤い点、袖口の布、総司の軽い冗談、静の硬い声。死はすでに通り過ぎたが、その通り道は身体の中に残っている。通り道は、ときに冷気を呼び込む。蓮は静の背に手を置き、掌で背骨の数を数えた。数えることで、ここに身体があると確かめる。


 数日ごとに列は移され、南へと下った。八戸、盛岡、仙台——各地で短い収容と移送が繰り返される。道中、蓮は耳にした。「会津の若松城は落ちた」「庄内は恭順した」「江戸城は無血で明け渡された」——知っていることも、知らなかったことも、言葉になると胸の骨を叩く。骨は打たれた場所を覚える。覚えたものは、簡単に忘れられない。忘れられないものの上に、明日が積まれる。


 小名浜を過ぎたあたりで、官軍の付き添いがひとり、蓮たちの列に歩み寄った。若い薩摩の士だ。頬が焼け、目が据わっている。彼は不器用に口を開いた。


「江戸に着いたら、……生きろ」


 それだけ言って、すぐ背を向けた。蓮は少しの間、言葉の意味を探し、やがてゆっくりと頷いた。敵からの言葉は、いつも刺のように聞こえる。だが、刺には二種類ある。刺して毒を入れる刺と、刺して血を出させる刺。いまの一言は、後者だった。刺は傷を作ったが、傷は膿む前に血を出す。血が出れば、痛みの始末ができる。


 江戸が近づくにつれ、空気の匂いが変わった。湿りがやわらぎ、風が丸くなる。川が多い土地の匂いだ。俘虜の列は品川の手前で一度止まり、人数の確認が行われる。そこから、築地の収容所へ——かつての武家屋敷が仮の牢として使われていた。白い土塀、枯れた庭、風で鳴る竹の音。庭の隅に、一本の柿の木が芽吹いている。季節に逆らわず芽は出る。柿は実を覚えている。去年の実の甘さも渋さも、どちらも覚えている。それを誰が食べたかは覚えていないが。


 収容所で、役人が名簿を照合した。榎本、大鳥、荒井、永井——名が呼ばれるたびに、小屋の外の空気がわずかに動く。見に来る者がいる。ひとの名は、見物を連れてくる。静と蓮は、番号で呼ばれた。番号は風を連れてこない。だが、その分、静かに過ぎる。静かに過ぎる場所では、隣の気配が濃くなる。


 夜、蓮と静は並んで藁の上に横になった。藁は湿っている。湿りに背が奪われる。天井板の隙間から、夜風が細い帯で降りてくる。遠くで犬が鳴いた。江戸の夜の音だ。京とは違う、海の湿りを含んだ鳴き方。蓮は目を閉じ、静の呼吸を数えた。吸って、吐いて、吸って——それは昔の稽古場で数えた拍と同じだ。数えられるものがある限り、人は眠れる。眠れば、明日が来る。


 翌日、取調が始まった。役人は眉を上げ、筆を持ち、事務的な口調で問う。「どこに属し、何をし、誰を斬り、何を見たか」——蓮は問われたことだけを答えた。問いの間に沈黙が流れる。沈黙は拷問ではないが、拷問の用意を持っている。沈黙に耐えるために、蓮は心の中で一文字ずつ母の名を書いた。書けば、耐えられる。書けば、呼吸の拍が戻る。


 静の番が来ると、役人は少し顔を上げた。静の目が、役人の目と静かにぶつかる。役人はやがて視線を落とし、同じ調子で問う。静は同じ調子で答える。刃を抜かない会話。刃を抜かないのは、刀を持たないからではない。抜く必要がないからだ。


 取調の合間、蓮は庭の隅へ出て、柿の木の影に腰をおろした。静が隣に座る。柿の芽は日に日に大きくなる。昨日より今日、今日より明日。名を持たぬものほど、しっかりと季節に根ざす。


「静」


「はい、矢野さん」


「俺はさ、ここで終わるのかもしれないと思う」


「はい」


「怖い」


「はい」


「でも、お前が隣にいるから、怖さが足元に落ちる」


「落ちた怖さは、踏めます」


「……踏んでくれ」


「一緒に踏みます」


 静の声は変わらない。しかし、その変わらなさが、蓮にとっては変化だった。最初に出会った夜、静の声はもっと遠かった。闇の中からこちらをきっぱりと断つ刃先の音がした。いまは違う。刃は鞘に収まり、手の中の骨が、骨として重みを持っている。人の骨の重さは変わらない。刃の長さが変わっても、骨は変わらない。


 幾日かの後、噂が小屋を渡った。「榎本らは赦されるらしい」「いや、長く拘留ののちだ」「大鳥は教授になるそうだ」——誰も確かなことを知らない。世の噂はいつでも、正しさより早さを好む。早い言葉は人を支えることもあれば、浅い傷をつけることもある。蓮は噂を半分だけ耳に入れ、半分を捨てた。捨てる作法を覚えるのも、生き延びる術だ。


 ある昼下がり、静が珍しく声を落として言った。


「矢野さん。……総司のこと、思い出してもいいでしょうか」


「ああ」


「江戸に入ってから、ずっと、どこかで笑っている顔が見える気がします」


「うん」


「彼は、名を残しました。でも、最後は名より呼吸を大事にしていた気がします」


「そうだな」


「だから、私たちも呼吸を大事にします」


「呼吸は、影の名だ」


「はい」


 二人はしばらく黙って呼吸を重ねた。数える必要はなかった。ただ、吸って、吐く。呼吸の音は、誰にも記録されない。だが、生の証であることに違いはない。


 やがて、役人が小屋に現れた。手には新しい紙の束。番号が読み上げられ、列が整えられる。移送か、釈放か、別の収容か——誰も知らない。紙の白さは淡い残酷を含む。白は何色にも染まる。どの色になるかは、紙の側では決められない。決めるのは、手の側だ。


 蓮の番号が呼ばれた。静の番号も続く。二人は立ち、列に入る。門の外には、昼の光が満ちている。江戸の音がする。駕籠の軋み、売声、遠い川の流れの音。世界は続いている。世界は名を刻み、名を消し、名のない影に風をあてる。


 歩きながら、蓮は静に言った。


「静。俺は、お前の影でよかったのか」


 静は即答しなかった。足音を二歩重ねてから、柔らかく言った。


「はい、矢野さん。……背を預けられた。それで、十分すぎます」


「お前は俺の背中に何を見てた」


「生きたい、という背中です」


「恥ずかしい背だな」


「いちばん強い背中です」


 胸の奥が熱くなる。涙はやはり出ない。それでも、身体の内側が濡れていく感覚があった。濡れた内側は、刃を弾く。刃は乾いたものを好むのだ。湿りは刃を鈍らせる。鈍れば、生き延びる確率が僅かに上がる。


 門を出ると、空に薄い雲がかかった。光は和らぎ、人の顔の皺がやわらかく見える。どこからともなく、笛の音が聴こえた。子どもが竹の笛を吹いているのだろう。調子は外れている。外れた音が風に溶け、白い空へ上っていく。音には名がいらない。名がいらないものだけが、まっすぐ上へ行ける。


 蓮は歩を緩め、静の肩に自分の肩を寄せた。寄せすぎず、離れすぎず。背を預け、同じ方向に倒れ、同じ方向に起きる距離。二人で長く習ってきた距離だ。これからも、その距離のまま歩いていけるかどうかは、誰にもわからない。わからないが、いまは歩ける。歩けるなら、歩く。


 どこかで犬が一声、短く吠えた。午後の陽の匂いが風に混じる。前を行く男の背に、江戸の埃が薄く積もっている。埃は名を選ばない。誰の背にも降り、同じ重さで乗る。名が残る者にも、名が消える者にも、平等だ。平等なものにだけ、世界はときどき優しい。


 蓮は心の中で短く告げた。——俺は影でいる。名は要らない。ただ、呼吸を刻む。静が隣で息をするかぎり、その拍に合わせて。


 静が、ほとんど聞こえない声で応えた。


「はい、矢野さん。……行きましょう」


 二人の足音が、江戸の路地へ溶けた。薄い影が二つ、午後の光に伸び、やがて人混みに紛れていく。誰も気づかない。誰も覚えない。だが、影は歩いた。背中を預け合い、呼吸を合わせ、名より確かなものを抱えたまま。世界は行き場のない名をいくつもこぼし、そのたびに風がそっと拾ってどこかへ運ぶ。その風の道筋に、二人の影は確かに刻まれていた。

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第八章 名もなき剣


第四十三話 五稜郭陥落


 白旗は、風の強さに合わせて形を変えた。はためくたび、ひるよりも白く見え、また影を深くした。堀の水が小さな波を重ね、木橋の下で泡がほどける音が耳の奥に残る。榎本武揚と大鳥圭介が公式の段取りに入ると、五稜郭の中は急速に「戦でない時間」に置き換わりはじめた。砲の口は麻布で塞がれ、火薬庫の錠前は改められ、兵は列を整えるよう命じられる。叫び声は消え、低い呼吸ばかりがある。


 蓮は堀端の石に足をかけ、空を仰いだ。冬の残り火を含むような冷たい青。その下で、白旗がひと筋、遠雷のように布鳴りをさせるたび、胸の奥がかすかに震えた。終わった。言葉にすれば短いが、ここに至るまでに積み上げた夜の数を思えば、短すぎる。火を迎え撃った夜、雪上に血が咲いた朝、一本木で土方の背を追って泥に膝を沈めた昼。名もない時間は、名のある終わりに一瞬で飲み込まれる。


 静は隣で、刀を右の手に下げていた。白旗の下でも、刃は刃だ。刃の在り方は、旗の色で変わらない。蓮が横目で見ると、静は微かに首を傾けた。その眼は、今ある秩序と次の秩序の継ぎ目を見ている。戦の終い(しまい)というものが、どれほどの隙と穴を含むか、静は誰より知っている。


「静」


「はい、矢野さん」


「降るのか」


「降伏は光の役目です。影は降りません」


 言葉は冷たいが、突き放す響きはなかった。降るという動詞が、旗と列と調印を意味するなら、確かに静は降らない。だが、静が降りないのは、戦いつづけるという意味とは違う。影の降伏は別の形を取る。刃を抜かずに、必要な仕事をして消える。静はそれを「消え際の片付け」と呼ぶ。


「片付けがあるんだな」


「はい。まず、これを燃やします」


 静が内懐から取り出したのは、小さな巻紙の束だった。墨色の細い線が蜘蛛の巣のように縦横に走り、要所には小さな印が打ってある。誘い道の図だ。稜堡と稜堡の間、物陰から物陰へ、昼の光に溶ける影の幅と夜の足音の響きやすさ。新政府側に渡れば、今度は逆向きに自分たちを絡め取る網になる。


 蓮は腰の火打袋を探り、石を打った。火花が乾いた藁に落ち、音もなく橙が広がる。紙は軽い音で反り、細線が一瞬だけ、呼吸のように明滅した。誘い道が光にさらされ、光の中で形を失う。静は燃える紙を見て、小さく息を吐いた。


「次に、名です」


「名?」


「密偵筋の帳面。町で世話になった者の名、米を融通してくれた者の名。……全部、消します」


 五稜郭北棲の一棟に、その帳面はあった。箱に収められ、蓋には簡単な札が立つ。日用の帳に紛れて、表向きは米麦の出入りだが、内側の束には薄い紙が挟まれ、名前の横に印と小さな記号が記されている。蓮は箱を肩に担ぎ、静は見張りの目配せの順を読み、途切れのない陰を選んで歩いた。白旗が掲がっても、すべての目が白旗だけを見ているわけではない。終いのまなざしもあれば、始まりのまなざしもある。どちらの目にも映らない道が、ほんの細い幅で残る。


 土塁の陰で箱を開ける。蓮が一冊、静が一冊。紙は薄いから、火勢は要らない。風下に身を寄せ、火打を打つ。紙はすぐに軽くなり、灰の端が指に触れて溶けた。名が消える。救いのために、名を消す。残酷だが、必要だった。名は刃だ。名が残れば、誰かを切る。名が消えれば、誰かが生きる。


 燃やし終えて立ち上がると、雪解けの泥に、短靴の新しい跡が見えた。官軍の若い兵のものか。足幅が広く、歩幅が均等だ。訓練の匂いがする。静は跡を一瞥し、わずかに背を縮めた。目につかない高さで動く。影の背丈は、相手の目線で決まる。


 二人が火薬庫のほうへ回り込むと、入口にひとり、少年兵が座っていた。膝を抱え、顔は煤で黒く、目だけが大きい。蓮が近づくと、少年はぎくりと顔を上げた。


「俺は……もう撃てない」


「撃たなくていい」と蓮は言った。「お前の名は何だ」


 少年は唇を噛み、首を振った。「名は……いい。帰る家に言えない」


「帰る家があるなら、帰れ」


 少年は視線を落とし、小さく頷いた。その頷きに、蓮は震えを見た。生きると決める震えだ。静が火薬庫の内を確かめ、導火線の束をまとめて別所に移した。火はもう要らない。火は終わった。残すべきは、火の名残ではなく、火の後の静けさだ。


 堀を回る途中、弁天台場の方向から短い破裂音が二つ続いた。遅れて枯れた風が頬を撫でる。最後まで抵抗していた砲座が、一つずつ黙る。守り切ることが名になる、と土方が言った夜を思い出す。守り切れなかった。だが、守ろうとした時間は確かに延びた。延びた一刻に、誰かの生がひとつ収まっている。


 士官詰め所の裏手では、榎本の側近が文書の封緘をしていた。フランス帰りの技術者、荒井郁之助の姿も見える。彼は沈黙の顔つきで印を押し、手早く綴じ紐を締めた。榎本は海を見ていた。彼が見つめる先に、かつてともに戦ったフランス人教官ブリュネやカズヌーヴの背の影が、薄く揺れた気がした。彼らはすでに横浜へ去り、自分の国へ戻るだろう。海は出会いを作り、別れも作る。


 午後、五稜郭の南口に新政府軍の先遣が入った。先頭の旗の後ろ、指揮の声が淡く響く。薩摩、長州、土佐、肥前——音の端にそれぞれの土地の息づかいが混じる。彼らもまた、名の下で動いている。名の下に集まり、名の下に誰かを裁き、名の下に次の秩序を作る。名は人を縛り、同時に人を集める。名のない者は、縛られないが、集まらない。でなければ影の仕事はできない。孤であることは、頼りのなさと引き換えだ。


 官軍の一隊が糧秣庫のほうへ向かうのを見て、静は蓮の袖を引いた。「矢野さん、行きます」


「どこへ」


「北角の馬小屋です。……人が隠れている」


 馬小屋の藁の間に、女が三人と子が二人、息を潜めていた。腰巻の裾には泥、指先には紡ぎ仕事の繊維が絡んでいる。五稜郭の周辺に住み、食や洗濯を手伝っていた者たちだ。戦が終われば、彼らは「旧幕に肩入れした民」と見なされ、詰問を受ける。名がある人々にとって、名は負債にもなる。


 静は木戸の隙間から外を見、藁の束を引きちぎり、足跡を上書きした。蓮は子を抱き、女の背を押す。「声を出すな。外は風だと思え。風は音を運ぶけど、お前の音じゃない」女の眼が蓮の眼に合わせ、わずかに頷く。その頷きは、命綱の締め直しだ。


 北角から堀沿いの土手に沿って、最短で民家の裏へ出る細道がある——誘い道の一本。敵を導くために敷いた道が、いまは味方を逃がす帯に変わる。道というものは、敷いた意図より、そこに通る足の意志をよく受け入れる。四人と二人と二人で、糸のように細く伸び、風の音に紛れて動く。新政府軍の若い兵がこちらに視線を向けたが、彼の目は女の手元の籠のほうで止まった。籠の中には、乾いた芋が四つ。兵士の目に揺れたのは戦利ではなく、故郷の台所の光景だった。彼は目を戻し、何も言わず通り過ぎた。


 民家の裏庭で女たちを手放すと、一人が膝を折り、土へ額をつけた。「名は、聞かないでくれ」声は震えたが、確かな強さを含んでいた。蓮は頷き、静も「承知しました」と答えた。名は、ここで消える。それでいい。


 夕方、五稜郭の中庭に捕虜の列が形を持ちはじめた。官軍の記録係が板机を据え、筆を濡らす。列は長い。列は長くても、声は少ない。蓮と静が並ぶと、前にいた男が振り返った。歳は蓮と同じくらい、額に浅い傷。彼は口を開いた。


「……新選組、か」


「いた」と蓮。


 男は短く笑った。「俺は榎本の水夫上がりだ。船が好きだ。陸の戦は、性に合わねえ」


「海はいい」と蓮は言った。「江戸の匂いがする」


「江戸は、どうなってる」


「生きてる。……多分」


 男はそれで満足したように頷き、前を向いた。名を交換しなかったのに、奇妙な連帯が生まれた。名を持たない者同士の、薄くて強い糸。


 記録の机に近づくと、若い書記が筆を持って待っていた。彼は一瞬、静の横顔に目を留め、すっと紙に目を戻した。「出身、年恰好、所属」


 蓮は淡々と答え、静も同じように答えた。名は問われなかった。問われないことが、この場では救いだった。紙に記されるのは、風で読める情報だけ。風は誰のものでもない。


 列を離れると、堀の向こうの空が薄暗くなっていた。五稜郭の星形の角が夜に溶ける。角はもともと夜の形に似ている。角は、光の届かない鉤のように、闇を捕える。闇はすぐほどける。ほどければ、角もまたただの土の塊だ。


 静がふいに立ち止まり、蓮を振り返った。


「矢野さん」


「ん」


「ひとつだけ、降伏の前に、まだあります」


「何が」


「白装束の噂、終わらせます」


「どうやって」


「噂は、最後の目撃で決まります」


 静は北稜の外へ回り、雪解けで湿った土手に立った。白は着ていない。薄鼠の衣のまま、裾をゆっくりとたくし上げ、膝まで泥に浸す。薄闇の中で、その姿は白とも黒ともつかない色に滲んだ。静は刀を鞘に納め、両手を広げて、しばらく動かずにいた。風が衣を撫で、髪を揺らす。遠くから誰かの声が聴こえ、足音が近づき、そして止まる。足音の主は、静の姿を「白装束」ではなく「人」として見た。白い剣士は、泥の色を纏った影として記憶される。噂は最終のかたちを選び直し、静かに自分を畳んだ。


「終わりました」と静。


「終わったのか」


「はい。……白は、雪に返しました」


 蓮は笑った。笑いながら、目の奥が熱くなった。白は雪に、火は灰に、名は沈黙に。どれも自然な帰り先だ。戦だけが、不自然なところへ物を運ぶ。だから片付ける。


 夜が落ちた。五稜郭の中の小屋の灯がひとつ、またひとつ消える。官軍の見張りの呼吸が一定になり、遠くの台地に犬の声が短く響く。蓮と静は荷物もなく、ただ身体だけで小屋にもぐり込んだ。藁は朝に比べて乾いていた。乾いた藁の匂いは、どこでも同じだ。子どもの頃に嗅いだ匂い、江戸の裏長屋で嗅いだ匂い、会津の柵で嗅いだ匂い。匂いは名を持たず、しかし記憶を縛る。


 隣の藁に背を預けると、静の呼吸がほど近い位置で揺れた。蓮は目を閉じ、声の出ない声で言った。


「静」


「はい、矢野さん」


「俺は、お前の影でよかったのか」


「はい」


「ほんとに?」


「背を預けられました。……それが全部です」


 短い沈黙。外の風が竹に触れ、庭の小石がわずかに擦れる。蓮はその擦れる音を、背骨で聞いた。背骨は長い。長い背骨を一緒に立てて歩いてきたのだと思うと、身体が少し暖かくなった。名が残らないことは、もう構わなかった。名を捨てて、背骨を持つ。人の形は、名より先に骨でできている。


 眠りは浅く、しかしやわらかかった。夜の間、何度か目を開け、そのたびに静の気配がそこにあることを確かめ、また目を閉じた。確かめるという行為は、祈りに似ている。祈りは名を要らない。祈りが要るのは、息だ。息が合えば、祈りは届く。どこへ届くのかは、いつも分からないのに。


 明け方、東の空が薄く白み始めたころ、外から「起こせ」という短い声がした。官軍の合図だ。列を整える。移送の準備。紙札の番号の順に並ぶ。朝の冷気が頬を刺し、指が少しかじかむ。蓮は袖口に息を吹き込みながら、小さく笑った。息は白い。白は雪の色であり、旗の色でもある。白は、どちらにも属さない。属さない白が、いまはありがたい。


 外へ出る時、静が振り向いた。


「矢野さん」


「なんだ」


「背中、預けます」


「受け取る」


 言葉は短い。短くて、十分だ。二人の足音が土に落ち、土がその音を吸う。吸われた音は、土の中で長く残る。あとで誰かが畑を耕すとき、その音がふっと浮かぶかもしれない。そんな想像を、蓮はしてみた。畑を耕す背の骨は、戦の背の骨と同じ構えを持っている。耕す刃も、斬る刃も、握る指は同じ筋で動く。


 列は門へ向かい、門の外に朝の街が広がる。箱館はもう新政府の旗の下にある。旗は風で形を変え、影は地面の角度で長さを変える。どちらも、光次第だ。光は残酷で、光はやさしい。光があるから影ができ、影があるから光の形が見える。


 五稜郭は背後で小さくなった。星の城は、星の光に戻る。星の光は、名前を持たない。人が勝手に名をつけるだけだ。名をつけるのは人の楽しみであり、苦しみでもある。蓮は星の名を忘れて、ただ冷たい朝の空を見た。冷たい空気は、胸の痛みをかすかに和らげる。痛みが和らぐと、歩幅が広がる。広がった歩幅に、これからの一日が納まる。


 蓮は心の中で言った。——名は残らない。それでいい。背を預け、呼吸を合わせ、骨で歩く。静の声が、すぐそばで重ねられた。


「はい、矢野さん。……行きましょう」


 行く先は知らない。知らないが、歩く。歩くという行為だけが、いまの自分たちの名であり、刃であり、旗だった。風がそれを読んで、どこかへ運んだ。運ばれた先で、誰かがふと顔を上げ、胸の奥の重さが少し軽くなるなら——影の仕事はまだ続いている。そう信じられるうちは、まだ歩ける。白は白のまま、土は土のまま、影は影のまま、朝の匂いの中で。

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第四十四話 静の影


 縄は冷たく、指の節に食い込み、じわりと痺れを残した。捕虜の列は、箱館の町の目抜き通りを南から北へと移されていく。道端には女や子が立ち、男たちは腕を組んで睨み、老人は障子の影から息を潜めて覗いた。石が投げられ、泥が飛ぶ。蓮は唇を噛み切り、血の味を口に広げた。笑い声が遠くで上がり、すぐ風に千切れて消える。


 列の歩調は遅い。前の男が躓き、そのまま膝をついた。官軍の若い兵が罵声とともに銃床で背を突く。男は呻き、また立った。蓮は顔を上げ、先の先まで目を凝らした。桟橋の方角、寺の甍、遠くに海。そのどこにも、静はいない。降伏の朝、彼は列に加わらなかった。白布をたすきにして、堀の影を滑るように消えた。目撃は誰もいないはずなのに、蓮の眼にはあの後ろ姿が焼き付いている。


 詰所は町はずれの蔵を改造したものだった。夜、蓮は押し込められた藁床の端に身を置き、壁の隙間から外を見た。風が通り、白い何かが、ふっと揺れた。布だ。柱の釘にひっかけられ、夜気に震える白。布の縁に、わずかな刺繍がある。蓮は息を止め、目を凝らす。刺繍は小さな十字。静が手ずから、布の端に目印として縫う癖を知っている。崩れた十字は、夜の中で星のように見えた。


「静……生きてるのか」


 誰にも聞こえない声で呟いた。返事はない。だが、風は確かに白いものの匂いを運ぶ。白は雪の匂いに似て、同時に灰の匂いも含む。蓮の胸は熱くなる。影は記録に残らない。名を呼ばれることもない。だが、影は確かにそこにいる。何度も消えるように見せて、なお地を這い、隙間に入り込み、必要なところで必要な動きを残す。


 翌朝、列は寺へ移された。大きな本堂の畳は剥がされ、板の間に縄が張られて区切りが作られている。柱に番号札。官軍の「読み手」が前に座り、次々に取り調べを進めている。名前、出身、役目。名は紙に吸い込まれ、墨の輪郭で固定される。蓮の番が来た。


「出身は」


「上総」


「名は」


 筆がわずかに止む。蓮は短く答えようとし、舌が喉に貼りついた。名は、こういう時、刃だ。紙に残った名は、新しい秩序の刃の刃先にかかる。蓮は喉の奥で息を押し返し、口を開きかけた、そのとき、外の鐘が鳴った。どこかの寺の朝の鐘。読み手の筆がそちらへわずかに逸れ、机上の紙の端に引っかかった。わずかな隙。蓮はその隙に、淡々と「矢野蓮」とだけ告げた。肩書きも、所属も、言わない。読み手は顔を上げず、次の問いへ移る。


「役目は」


「巡察」


「以上」


 筆の腹が紙を撫でる音。名前は紙に乗った。だが、薄い。蓮はその薄さに救われた気もした。薄い名は、風でめくれる。重い名は、釘で打たれる。


 寺の裏庭に出ると、洗い場に水桶が並び、女の声がさざめく。町の者が捕虜への粥を運び、器を濯いでいる。ひとり、袖口に青い刺繍を見た。小さな十字。夜の白布と同じ印。顔を上げた女は、驚くほど若い。蓮は目で合図を送り、女の目の奥の揺れが一瞬だけ固まるのを見た。


 昼の配膳が終わる頃、女は器を下げるふりをしながら、桶の底に紙片を滑らせた。蓮は洗い場当番を買って出て、桶を手に取る。紙は水を吸わないよう蝋で縁取りがしてある。開けば、十字が一つ。下に、墨の点が三つ。三つの点は、裏山の墓地の並び。十字の位置は、北側の小祠の裏。あの手口、あの簡潔。静だ。


 夕暮れ、詰所の見張りの交代に合わせて、蓮は便所の列に入り、壁伝いに北へ回った。墓地は風が強い。小祠の裏に回ると、白い布が一枚、丁寧に折られて置いてある。布の重なりがほんの少しずれて、薄い包みが見えた。蓮は布を開き、包みを取る。中には短い文と、小さな木札が二枚。


〈矢野さん。夜三更、弁天通りの裏。小舟が三。女と子と、三十ばかりの男が四。出す〉


 文はそれだけだ。木札は、弁天通りのとある醤油問屋の刻印。問屋は旧幕に飯を出し、洗い物を引き受けた。いま晒されれば、家は潰れる。名は刃だ。静は刃を折るために、影の刃を使う。


 夜、寺の裏木戸がわずかに開いた。蓮は縄の縛めを水に濡らして緩め、すり抜ける。月は出ていない。星が少し。弁天通りは昼の喧騒を嘘のように黙らせ、木戸の影から影へと人の息が渡っていく。問屋の裏口から、女が二人、子が三人、男がひとり、またひとりと現れた。皆、口を結び、足音を地面に吸い込ませるように歩く。静は角の先にいる。姿は見えない。だが、足の運びの間合いが、そこに彼を描く。


 港の見回りの灯が離れ、海がひと呼吸だけ暗くなった。桟橋の下、浅瀬に小舟が三艘。漁師の古い舟だ。蓮は先に子を載せ、女の手を取り、男の肩に触れ、最後に自分が舷に手をかける。櫂は布で巻かれ、音を殺してある。岸の影で、白い布がひとひら揺れた。静だ。蓮は頷き、舟が滑り出す。波が舷を叩く音は、夜の中で丸くなった。海は味方にも、敵にもならない。ただ、重さのあるものを静かに運ぶ。


 三艘は港口の暗がりで別れ、ひとつは湾の北へ、ひとつは南へ、ひとつは沖へ出た。いずれも、戸切地の向こうへ回り、浜に上がる算段だ。蓮は桟橋に戻り、影に身を寄せた。そこで初めて、静が近づいてきた。白ではない。鼠の古着を着て、手には何も持っていない。手ぶらの静は、どこか不器用に見える。


「静」


「はい、矢野さん」


「生きてたか」


「生きてます。……矢野さんも」


「縄を緩めるのは得意じゃない」


「堀の泥よりは楽です」


 短い息の交わし。それで十分だった。蓮は堪えていたものが喉にせり上がるのを感じ、首を振って飲み込んだ。泣くな、まだ。泣くのは、誰にも見えないところでいい。


「静。お前は、どうする」


「影には影の終いがあります」


「終い、ね」


「名を消す道具を壊して回ります。帳面、札、印。……それから」


「それから?」


「総司の話を、ひとつ」


 静の声がわずかに揺れた。蝦夷に来る前、江戸の千駄ヶ谷で、静は総司の枕辺に座った。総司は痩せ、笑い、咳をし、また笑った。彼は「俺は光だなんて言われるほどの人間じゃない」と、冗談めかして言った。静は「光は、認める側が決めます」と答えた。総司は「じゃあ、お前が決めたんだな」と笑い、痩せた指で布団を叩いた。叩いた音は軽く、しかし確かだった。あの音が、静の背骨にいまも残っている。


「総司の名は、もう紙の上にはほとんど残りません。でも、音が残ってます」


「音?」


「はい。……呼ばれたときの音、笑ったときの音、斬ったときの音。全部、残ります」


 静が初めて、名の代わりに音という言葉を使った。蓮は胸が詰まり、うなずいた。土方の名は銃声の向こう側で止まり、総司の名は咳の奥で霞んだ。だが、音は残る。音は、紙に釘打ちされない。風に乗る。風は、誰のものでもない。


「静」


「はい、矢野さん」


「終いを手伝う」


「ありがとうございます」


「俺は捕虜だ。朝には戻る」


「間に合います。……今夜が、山です」


 蝋燭の炎が一度、揺れて消えた。雲がかかり、星が薄くなる。夜の中に、足音が増える。官軍の巡邏が密になる印だ。静は蓮の袖を軽く引き、ふたりは別方向へ散った。蓮は寺へ戻る。静は町の裏へ消える。


 深夜、寺の内は寝息と薄い咳の音に満ちていた。蓮は藁の上で目を閉じ、手首の縄を再び締め直す。ほどいた形跡は、朝の冷たい目にすぐ見つかる。指で縄の繊維を撫で、元通りの形を作る。ほどいたことを、ほどいた本人が消す。こんな仕事がうまくなるとは思わなかった。


 外で犬が吠え、短い怒声が走り、すぐ消えた。静だ。帳面が一冊、また一冊、火に落ちる音を、蓮は想像した。紙は燃えるとき、軽い悲鳴を上げる。名の悲鳴だ。名は生きたがる。だが、名が生き残ると、誰かが死ぬ。その逆もある。等式はいつも残酷だ。


 夜明け前、寺の鐘が暗闇に柔らかく響いた。蓮は目を開け、息を整えた。終いの夜が終わる。外の空気が少し甘くなる。甘さは、朝の匂いだ。朝はいつも、無邪気にやってくる。それが腹立たしく、救いでもあった。


 朝の点呼。読み手が再び筆をとり、番号札に目を落とす。蓮の前の男は、紙に大きな字で名を書かれた。一息遅れて、官軍の上役が入り、帳面を捲った。


「昨夜の書付はどこだ」


「ここに……」


 紙の束は薄く、めくる音は軽い。上役の眉間に皺が寄る。「町人連名の訴状が消えたぞ」


 読み手は顔色を変え、机の下を探り、隣の机を覗き込み、肩をすくめた。蓮は視線を落とした。静だ。町人の名が、消えた。名が消えれば、詮議も薄くなる。名を救うのではなく、名から救う。影の終いは、名を紙から解き放つことだ。


 昼前、蓮は水汲みの手伝いに出された。井戸の縁は滑りやすく、桶の取手は冷たい。ふいに、誰かが蓮の背にうっすらと触れた。振り向けば、あの袖口の十字の女。彼女は目を伏せ、小さな包みを差し出した。蓮が受け取ると、女はもう後ろを向いて歩き去っていた。包みの中には、紙片がひとつ。


〈終い、済。南の坂の茶屋の裏、松の根元。白、返す〉


 蓮は午後の休憩に、用足しを装って南の坂へ向かった。茶屋の裏手、松の根元に、白い布が結わえられている。あの十字の縫い目。布は風に揺れ、陽の光を跳ね返す。蓮はそれをほどき、胸に抱いた。布は軽い。だが、重かった。総司の咳、土方の血、弁天台場の白い砕け、五稜郭の白旗——白は、すべてを飲み込んで、なお白だ。


 夕方、捕虜たちは列を作り、港へ向かった。移送だ。江差か、青森か、あるいは仙台へ。隊列の中で、蓮は白い布を内側に着込んだ。肌に布が触れるたび、静の気配がそこに立つ。見張りの兵が前を向き、足音が揃う。どこかで、子の泣き声が上がった。泣き声はすぐ止む。誰かが抱いたのだろう。抱く腕の骨は、きっと強い。


 港の空は鉛色、海は低い唸りを返す。艀が並び、縄が濡れ、板が軋む。蓮は舷に足をかける直前、ふと振り返った。堀の向こう、五稜郭の角に、鼠色の小さな影が立っている。遠い。顔は見えない。手が、わずかに上がった。蓮は胸の内で、同じ高さに手を上げた。


「静」


 声は海風にすぐ揉まれて消えた。だが、影は頷いた気がした。頷きは、言葉の代わりだ。言葉は紙に残るが、頷きは骨に残る。


 艀が岸を離れる。揺れが足元に伝わり、身体が自然にバランスを取る。蓮は白い布を握り、目を閉じ、ひとつ息を長く吐いた。影は消える。だが、消える時に残るものがある。背中の温度、呼吸の高さ、骨の並び。名も、旗も、戦も、風に千切れていく。残るのは、預け合った背の感覚だ。


 船は港を出、箱館の町が小さくなる。五稜郭の星は見えない。星は、見えないから星だ。見えてしまえば、石だ。蓮は目を閉じ、静の姿を星座のように胸の裏に描いた。十字の小さな縫い目を中心に、線を引く。線はどこへもつながらない。つながらない線が、奇妙に安堵をくれた。


 夕闇が落ち、船板が冷え、吐く息が白い。蓮は白い布を頬に寄せ、低く囁いた。


「静。お前は、どこへ行く」


 答えはない。ないことが、答えだった。影は誰の地図にも載らない。どの潮にも従わず、どの風にも縛られない。だが、ひとつだけ確かなものがある。背中を預けた者が、生きているあいだ、影は消えない。蓮は目を閉じ、眠りと目覚めの間にしばらく漂った。夢の底で、白い布が、雪の上にふわりと舞い降りるのを見た。布は雪に馴染み、溶け、湿り、土に沈む。土はその白を抱いて、春を待つ。


 春は、来る。名も、来る。名が来るなら、名を受ける手もまた、準備しなければならない。影にできるのは、名の端をちょっと支えることだけだ。支えたことも、支えた者も、紙には残らない。だが、支えられた名は、少しだけ歪みが少ない。少しだけ、やさしい。蓮はそう信じ、目を開けた。夜は深く、海は長かった。音が消え、音が戻り、身体がゆっくりと小刻みに揺れる。遠く、凪の気配。


 ——静。生きろ。どの名にも属さず、どの影にも縛られず、それでも、誰かの背に手を添えて。


 風が頬を撫で、白い布が静かに鳴った。音は、小さく、確かだった。

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第四十五話 最後の突撃


 噂は湿った風のように村の背骨を抜けていった。「白装束の剣士が夜ごと現れて、哨兵の喉を吸うように斬って消える」。新政府軍の兵たちは焚き火の輪を狭め、銃を膝に抱きしめ、暗がりに何度も目を投げた。指が引き金の冷たさに慣れぬうちは、幽霊はたやすく増える。見張り番の囁きは、やがて「亡霊」という名前を得た。名を与えられた怪異は、現実よりも堅く人の背を冷やす。


 蓮はその噂を、捕虜の詰め所で耳にした。縄は手首に食い込み、藁は湿って冬の名残の匂いを保っている。誰かが「また出たらしい」と言った。別の誰かが「白い袖が風もなく揺れた」と付け足した。蓮の胸は、冷えたまま灼けた。静だ。生きている。降伏の列から抜けたその夜から、消息の途絶えた影は、影のやり方でなお戦っている。


 夜半、蓮は壁際に移り、眠りの浅い兵の視線が他へ逸れた刹那、縄の結び目に舌先で湿りを与え、指の節で少しずつ繊維を捻った。土方から習った結びの癖が役に立つ。結び目は「見かけの堅さ」と「中身のたるみ」でできている。たるみを探してやれば、堅さは形だけになる。指が血で滑り、藁屑が掌に刺さる。肘を曲げ、肩をひねり、やがて縄は一息ぶんだけ緩んだ。汚れた障子の隙間から、外の夜の形が流れ込む。


 見張りは二人。片方は若い。銃を斜めに置き、肩で眠気を押している。もう片方は老練で、眠気に仮面を被せる術を知っている。蓮は若い肩の動きで呼吸を読み、老練の目の端がわずかに灯の方へ傾く瞬間を待った。風が紙の覆いを鳴らし、灯が一つだけ揺れた。老練の目が反射で光を追う。蓮はそのわずかな隙間に身を滑らせ、暗がりの輪郭へ吸い込まれた。


 雪解けの地は夜露を含み、足音は重く沈み、すぐ吸い込まれる。月は雲に隠れ、星が薄く、森はまだ冬の骨を残している。白い息を噛み砕きながら、蓮は堀の外縁を回った。かすかに海鳴り。箱館の町は眠らず、どこかで桶の鳴る音、犬の声。風上から、血と脂の匂いが薄く混じる。


 堀の外れ、黒い水の縁に、白が一つ立っていた。白は風に翻らない。布の重さと人の芯で、夜気の中にただ在る。蓮の喉が勝手に名前を掬う。


「静……!」


 呼び声は夜の背に吸われた。静は振り返らない。前を見据え、鯉口を切り、軽く左足を送る。雪の上に手の幅ほどの照り。足の裏がそこを踏んだ。刃が、白い夜の中からすっと出てきて、再び白に戻るまでの時間は、蓮の脈より少し遅い。新政府軍の巡邏隊が十ばかり、松の間を抜けてくる。銃列は乱れ、距離はまだ詰まっていない。静は短く告げた。


「背を、預けてください。矢野さん」


「ああ」


 蓮は刀を抜き、静の背に吸い込まれるように立った。背中と背中の間に、薄い空気の板が一枚差さる。その板は、二人の呼吸で温度を持つ。静が半歩左を切り、蓮は半歩右へ寄る。互いの肩の高さと角度が、長い時間のうちに自然に合わさるところへ落ちる。


 巡邏兵の先頭が気づくのに、あと二歩か。静が先に出た。白い袖が夜の粒子を払う。刃は音を連れない。喉が、胸が、腹が、順に断たれ、人間の形は小さな崩落を起こす。蓮は右の兵に踏み込み、柄で顎を打ち上げ、喉に刃の背を当てて落とす。銃床が横から飛び、蓮は左肘で受け、肩を斜めに滑らせた。雪が跳ね、血が花のように散る。静の刃は二度目の呼吸で二人を落とし、三度目の呼吸で一人分の隙を作る。


「静、右——!」


「承知」


 声は短い。言葉は骨の周りに巻く布のように最低限でいい。十が七になり、七が四になり、四が二になる。二が一に変わるとき、残る一の目の色が変わる。恐怖から、生き残りへの飢えへ。刃はここで鈍る。生きたいという心は、刃を重くする。静の手はそこで少しだけ、角度を変える。生きたい心に刃を落とす角度は、他よりも少し優しくなくてはいけない。優しさの欠片を捨てる力が、いちばん重い。


 終いの呼吸で、夜が押し返してきた。松の枝が微かに鳴り、遅れて駆け足の音が重なる。静は刃を払って雪の上に置くように振り、小さく首を振った。


「ここは、長く持ちません。矢野さん、下がります」


「どこへ」


「“誘い道”の残りが、まだ生きています」


 白装束の噂は、噂だけにしておくのがいちばんいい。だが、噂に骨を与える必要が時折ある。静は五稜郭の北側から村へ伸びる細い道を選び、「楽に歩けそうな夜の道」を残していた。踏む石は平らに、曲がりは穏やかに、両脇に枯れ枝を意図的に散らし、足音が鳴りやすいようにする。音が鳴れば、後ろの追手は「まだ追える」と思う。追えると思わせる時間が、命の長さを延ばす。


 二人は森を抜け、低い沢を跨ぎ、古い塩蔵の陰に身を入れた。夜風が塩の匂いを運び、舌に少し甘さを残す。静は袖の中から薄い紙を取り出し、蓮に渡す。墨が滲まぬよう蝋を落としてある。開けば簡単な線と印。三つの木、ひとつの水、二重の丸。二重丸は“戻れない口”。静はそこへ追手が集まるよう、前の夜から小さな罠を手の中に仕込んでいた。罠は地面ではなく、人の判断の中に置く。


「矢野さん。ここから——」


「言うな。見れば分かる」


 静は一瞬だけ笑った。滅多に見せない、冬の朝に差す日差しの一片ほどの笑い。蓮は胸の奥でその笑いを拾い、布に包んで仕舞った。


 追手の足音が一斉に増える。銃の金具が鈍く鳴り、号令が木の間を跳ねる。静は蓮の肩に触れた。触れるだけで、方向と速度と次の角の高さが伝わる。二人は斜面を斜めに下り、古い水車小屋の脇を抜け、沢の浅瀬に入る。水は冷たく、足を細い針で刺す。だが、足跡が消える。上流に五歩、下流に三歩。川から上がる場所に落ち枝を集め、わざと音を鳴らす。音は石に伝わり、石は人の耳の中で距離を誤らせる。


 ひと呼吸、ふた呼吸。追手の音が、沢の上で迷う。こなたで銃声。空気が震え、雪煙が舞う。遠くの犬が吠え、近くの鳥が一斉に飛び立つ。静は低く言った。


「ここです。矢野さん」


 塩蔵から裏へ回る狭い隙間。人ひとりが横を向いて通れるかどうか。静が先に入り、蓮が続く。肩が壁に擦れ、背の刀が土に当たって音を立てる。音は短い。短い音は、すぐに夜に吸われる。隙間を抜けた先は、昔の畑の跡。雪が薄く、地面が柔らかい。ここで足を止める。止める場所を止められるように選ぶ。それが静の癖だ。


 追手が隙間に群がり、焦れた足音が折り重なり、足の位置が競り合う。人は狭いところで後ろから押されると、前へ進もうとする。進めないと、怒る。怒ると、雑になる。雑は、刃の友だ。


 最初の兵が隙間から肩を出す。静の刃がそこへすっと降り、蓮は逆側の肩へ柄で打つ。二人の打点は異なるが、落ちる場所は同じ床板の目。床は湿って、わずかに沈む。沈むと、次の足が空を踏む。空を踏んだ足は、地に戻るまでの間、身体のどこにも重心を置けない。その隙に、刃はするする滑っていく。


 何人かが倒れ、何人かが立ち上がれず、隙間は血と息で濡れた。銃口が闇のこちらへ向き、引き金の指が震える。発火石が打たれ、火花が散り、火縄が湿りに負ける。筒先から出た煙が逆流し、兵の目に涙を呼ぶ。静は低く、短く。


「退きます」


「まだ斬れる」


「でも、斬らないほうが勝ちます」


 蓮は唇を噛み、頷いた。退くという技は、斬るより難しい。斬ると勝った気になる。退くと、負けた気がする。だが今夜は勝ち負けの話ではない。延ばすことだ。名も、息も、明日という白い紙も。


 二人は畑の縁を滑り、小屋と小屋の間を縫う。裏戸が一つ開き、老人が目だけで見送る。誰にも声をかけない。声は名を形にする。名は、死の形にもなる。


 やがて、村外れの松並木。並木は風を防ぎ、足音を吸い、夜の匂いを濃くする。松の根の間に、白いものが小さく畳まれて置かれていた。十字の刺繍。静がそれを拾う。布は乾いている。乾いているのに、冷たい。静はそれを肩にかけ、蓮に向かって軽く頭を下げた。


「矢野さん。ここからは——」


「分かってる。俺は戻る」


「ありがとうございます」


「ありがとうは、こっちの台詞だ」


 蓮は笑うつもりで口角を上げ、うまく上がらないのに気づいた。頬の筋肉が強ばり、目の縁が熱い。静はそれを見て、ほんの少し目を細めた。


「矢野さん。生きてください。生きて、忘れてください」


「忘れない」


「では、忘れたふりをしてください。ふりは、名の代わりになります」


「器用じゃない」


「不器用で、いいです」


 遠くで笛の音。官軍の合図だ。たぶん、村の南側で包囲を縮める合図。時間が、もう一度小さく削られた。静は白を肩から滑らせ、腕に巻きつけ、袖の内へ隠した。白は夜にあって目立つ。目立つものは、斬られる。白は隠すべきものになった。


「静」


「はい、矢野さん」


「お前が亡霊だって噂、あれ、少しは信じていいか」


「亡霊は、名を必要としません。楽で、いいですね」


「そうじゃない。……戻ってこいよ。どんな名でもいいから、いつか、戻ってこい」


「承知しました」


 承知、と言いながら、静は約束をしない。約束は名に似る。紙に釘で打つと、風が吹かなくなる。風がないと、影は乾きすぎて割れる。静は風の中に立つために、約束を嫌う。


 蓮は深呼吸をひとつし、足を森の暗さへと向けた。捕虜の列へ戻る道は、身体が覚えている。戻れば縄だ。縄は冷たい。だが、背中から温度が消えるよりは、縄の冷たさのほうがまだましだ。


 背に、刃の気配が薄れていく。静が別の夜へ入り、別の闇の厚さを量り始めた。蓮は振り返らない。振り返ると、夜は姿を変える。前にあるべきものが、後ろの形に引きずられる。


 やがて詰所の塀が見え、見張りの影が長く伸び、犬が鼻を鳴らした。蓮は縄を手首に巻きつけ直し、指の節に汚れを塗り込め、藁の上に身体を沈めた。息が胸に戻ってきて、鼓動が遅くなった。目を閉じると、雪の白さが瞼の裏に広がる。白は静の色であり、総司の息であり、土方の最期に降った粉雪の記憶でもある。白に赤が差す。差した赤は、やがて薄くなり、淡い桃色に変わり、また白に戻る。


 夜が明けきらないうちに、笛が鳴り、号令が飛び、詰所がむくりと起き上がる。取り調べの声、紙の擦れる音、桶の水の匂い。蓮は列に加わりながら、耳のどこかで刃の音を探した。刃は、音を連れない。それでも、たしかにある。


 昼過ぎ、官軍は村と五稜郭の間の道を締め、亡霊狩りのような包囲を敷いた。噂は、戦の手を増やす。静はたぶん、その手の数を数えている。数えながら、手の隙間の幅を測っている。幅は人よりも先に老いる。老いた幅を選べば、抜けられる。


 夕方、空が鉛のように重くなり、雪とも霙ともつかない粒が落ち始めた。粒は土の黒を薄く覆い、血の跡を灰色に変える。蓮は壁の隙間から外を見た。松並木の影が一度、揺れ、次に小さく跳ね、最後に沈んだ。遠くで短い怒声、すぐに銃声。それから、静まり。


 夜、風がいくぶん柔らぎ、雲が切れて星が出た。星の光は冷たく、しかし、目に痛いほど澄んでいる。蓮は藁の上で拳を握り、爪が掌に食い込む感覚を確かめた。痛みは、生きていることの最小の記録だ。紙に残らなくても、骨が覚える。


 その夜の遅い刻限、詰所の裏で、白いものがふっと揺れた。あの十字。蓮は目を閉じて頷いた。戻ってこい、という言葉の代わりに、頷きをひとつ白に送る。白は風に頷き返し、闇に溶けた。


 翌日、官軍の立て札が村の入口に立った。〈白装束の賊、見つけ次第討て〉。黒い墨。太い字。名のない者に向けられた命令。しかし、名のない者に向けられた命令は、風を受けてすぐ角が丸くなる。賊、という名は、あらゆる敗者に降り注いできた雨のような言葉だ。雨は一面に降るが、人はそれぞれに濡れる。


 噂は少しずつ形を変えた。「剣士」から「亡霊」へ、「亡霊」から「雪女」の相棒へ。女などいない。いるのは、白い布と、夜の呼吸と、刃の角度だけ。だが、人は自分が見たいものを見たがる。見せたいものを語りたがる。蓮は唇の内側を噛み、血の味を確かめて、目を閉じた。噂とふみの間で、静はいつも、紙の端を切っていた。名の端を、そっと、切っていた。


 その夜——最後の突撃は、誰の命令でもなく、誰の記録にも残らず、しかし、確かに起きた。松の根に積もる薄雪の上で、白と黒が交わり、音の少ない刃が幾つかの息を断ち、幾つかの命を延ばした。静は前を、蓮は背を。蓮は前を、静は背を。交互に、風のように場所を交換しながら、二人は夜を渡った。


 名は刻まれない。紙は真っ白だ。だが、その白紙の上で、二つの影が背を合わせた痕は、きっと、誰かの胸の裏にだけは薄く残る。雪が夜明けに少し青く見える色で。風が一瞬だけ温かくなる温度で。


 最後の突撃は、二人だけのものではなかった。そこには、土方の叫びが薄く重なり、総司の笑いが遠くから響き、弁天台場の砲声が反響していた。すべての音が夜に吸われ、やがて静かになった。静けさの中で、静の息だけが、蓮の背に規則正しく触れていた。


 蓮は、その呼吸を記録した。紙ではなく、骨に。骨に刻まれた記憶は、長く持つ。名が忘れられ、噂が別の形に変わっても、骨の記録は、残る。彼が生きている限り。彼が、誰かの背に、手を添える限り。

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第四十六話 影の消失―前編


 雪代の匂いを孕んだ風が、谷を渡って頬の火照りを冷やした。耳の奥で脈が跳ね、足裏はなお地を蹴る感覚を記録し続けている。蓮は斜面を折れ、闇の底へ潜り、また浮き上がった。呼吸は粗く、しかし意識は異様に冴えていた。背中にあったはずの温度は、もうない。だが完全に失われたとも言い切れない。皮膚の下、骨の側に、微かな残光のように滲んでいる。


 小さな沢へ降りると、湧水が石の間を流れていた。雪解けの水は冷たく、掌を浸せば痛みとして神経に刻まれる。蓮は両手ですくって口を濡らし、咽喉の砂利を洗い流した。舌先に鉄の味。血か、水に溶けた土の鉄分か。どちらでもよかった。ただ、生きているという最小の証が欲しかった。


「……静」


 呼び名は水面に落ち、輪を広げただけで消えた。返事を期待していたわけではない。声に出すことで、己の内側の空洞の形を確かめたかった。空洞は、思っていたよりも大きく、思っていたよりも静かだった。そこに風が一筋巡り、心のどこかで、かすかな音楽の残響のようなものが鳴った。総司がよく口ずさんだ、調子はずれの小唄。土方が鞭声の合間に無意識に打つ、刀の鞘の律動。戦いの季節を、音は過ぎた。だが音の抜け殻だけが、骨の隙間に残っている。


 斜面に沿って北へ回り、弁天台場の裏へ出る細道に入る。ここは静と一度下見していた。風が巻く角、見張りが怠ける時刻、犬の習性。影の手帖には、誰の名も書かれないかわりに、風と犬と錆のことばかりが並ぶ。蓮は、静の歩幅を思い出す。静はいつも、同じところで半歩だけ詰め、同じところで半歩だけ緩めた。半歩の加減がそのまま刃の角度に繋がる。先を読むための体の記号。人は言葉より先に、自分の体に地図を描くのだ。


 台場の背後に回ると、凍土の上に兵の足跡が幾筋も刻まれていた。重い靴の踵が雪を砕き、銃の銃床を地に下ろした跡が丸い窪みとして残っている。蓮はその中に、ひとつだけ軽い歩幅の跡を見つけた。重さはあるが沈みが浅く、雪の端が少しだけ跳ねている。静の足跡に似ていた。似ているだけかもしれない。ただ、似ているという事実が、蓮の足の骨を前へ押した。


 台場の木戸は半ば壊れ、板が剥がれて中の闇がのぞいている。中から低い声、桶を引く音、火薬の匂い。蓮は木戸の外側に身を沿わせ、隙間から覗く。砲手が三人、疲れた背中で火を囲み、弾の残りを数えている。誰かが「亡霊」の話をして笑いを取ろうとしたが、笑いはうまく生まれずに、灰になって足元に落ちただけだった。亡霊という名は、彼らが自分の恐怖を外へ捨てるための器にすぎない。恐怖の形が器に合うかどうかは、器を投げる者の腕次第だ。


 蓮は木戸から離れ、塀伝いに低く進んだ。台場の裏は崖で、その下は浅い入江だ。潮が引いて岩が露出し、牡蛎の殻が黒く光っている。波がゆっくりと岩の腹を撫で、引き返すときに細かい泡を置いていく。空は薄雲が走り、星のいくつかが、雲の隙間から覗いた。海風が頬の汗を拾い、塩の匂いで傷の痛みを知らせる。


 その時、崖下の陰から、白いものがふっと揺れた。白はすぐ闇に溶けた。目の錯覚かもしれない。蓮は崖の縁に膝をつき、身を乗り出す。下から、誰かが長い息を吐く音がした。息には熱がある。熱は、生だ。蓮は唇に指を当て、鳥の短い鳴き真似をひとつだけ送った。返る鳴き声は、なかった。代わりに、石と石がこすれる軽い音。足を滑らせないように置く、慎重な足の音。


「……静?」


 ささやきは海に砕け、泡になって消える。応えはない。だが、応えのなさもまた、静の答え方だった。あるいは――静はもう応えられぬ場所へ行ったのか。蓮は混乱する思考を無理に畳み、崖下へ降りる回り道を探した。足場は濡れて滑り、苔の上に砂が載って、靴の縁を奪う。指で岩の割れ目を掴み、肩で重みを受け、膝で身体を支え、ひとつ、またひとつと段差を降りた。


 入江は思ったよりも浅く、静かな水面が黒い布のように張り詰めている。牡蛎の殻が月の明かりで鈍く光り、岸の石に白い塩の花が付いている。蓮は足音を殺し、崖の陰の影へと近づいた。そこに、人体の輪郭があった。白は、岩に背を預けている。白の中から、かすかな吐息。蓮は膝をつき、白の顔を覗いた。


「……矢野さん」


 低く乾いた声。蓮は胸の内の何かが、突然元の場所へ戻る感覚を覚えた。静の目は開いている。その黒は夜の黒で、だが夜よりも深かった。頬に細い傷、袖口に乾いた血。腹のあたり、白布の下が濡れて、少しずつ温度を失っている。銃弾か、あるいは刃か。蓮が袖をめくろうとすると、静は微かに首を振った。


「見なくて、いいです。矢野さん」


「黙れ。見る。塞ぐ」


「塞げません。ここは……あの時の、山南さんと、似ています」


 蓮は息を呑んだ。茶屋の、薄暗い畳の上。静は道を塞ぎ、山南は自らの名を刃で閉じた。あの夜の沈黙と、今夜の海鳴りは、なぜか同じ高さで胸に響いた。蓮は唇を強く噛み、血の味で意識を繋ぎ止める。


「俺は、お前を……置いていかない」


「置いていく、ではありません。矢野さんが、背を預けてくれたから、わたしはここまで来ました。預かった背を、ここで返します」


「返されてたまるか」


「すみません」


 静の口元が、ほとんど分からないほど僅かに動いた。笑いではない。謝意の形に近い。蓮は白布の端を裂き、腹の濡れた場所に当て、手で圧した。静は痛みを表に出さない。眉も動かさない。ただ、長く深い呼吸をひとつして、目を閉じた。潮騒がその呼気と同じ間で寄せては返す。世界は時々、こうして息を合わせる。


「矢野さん」


「……何だ」


「わたしは、怖いです」


 その言葉は、刃よりも鋭く蓮の胸に入った。静が初めて口にした、正面からの恐怖。これまで「怖さは血と一緒に流す」と彼は言い続けた。流せない怖さが、今ここに溜まっている。溜まり場は、身体の中でいちばん熱い場所だ。


「怖いなら……俺が、いる」


「はい。矢野さんは、います。……でも、たぶん、矢野さんのことも、いなくなります」


「馬鹿言うな」


「すみません」


 静の指が、蓮の手の甲に触れた。指は冷えているのに、触れた場所だけが熱い。矛盾がひとつの皮膚の上で成り立っている。蓮は静の手を包み、強く握った。握ることに、意味を与えたかった。握ることは、名のない者の、唯一の署名だ。


「総司のことを、思い出しました」


 静が言った。海は静かだった。星は少なかった。


「総司は、光でした。わたしはずっと、影でした。影は、光がいないと、形がありません。でも、光が消えても、影は地べたに残りました。あの時から、わたしは、地べたの温度でしか、世界を測れなくなりました」


「……静」


「土方さんの最期は、地べたが血で温かかった。わたしたちの最後の戦は、雪が冷たかった。温度で、季節で、終わりが分かるのは、きっと、影だけです。光は、いつも、空にありますから」


 蓮は言葉を探し、見つからず、ただ頷いた。静は続ける。


「池田屋の夜に、矢野さんが初めて『静』と呼んだ時、わたしは嬉しかったです。嬉しいという言葉を、わたしは持ちませんでした。でも、あれは、きっと嬉しいでした。背中の力が抜けて、呼吸が一つ増えました」


「俺も……あの時から生き始めた。お前の背に自分の居場所を見つけた」


「では、ここで、終わるのに、意味ができます」


「終わらせない」


「矢野さん」


 静は目を開け、星の欠片を瞳の奥に宿し、まっすぐ蓮を見た。風が二人の間を通り、海の匂いを置いていく。


「背を預けるのは、二人だけだ、と言いました。光と、矢野さん。光はもう、向こうに行きました。矢野さんは、ここにいる。だから、わたしは、まだ大丈夫です」


「どこが大丈夫だ。血が出てるじゃないか」


「血は、影の墨です。たくさん使って、今日の紙を黒く塗りました。……明日の紙は、矢野さんに渡します」


 蓮は、白布をさらに押し付けた。手のひらの下で、血の温度が遅れて下がる。遅れ方が、命の残り時間と同じ曲線を描いている気がした。頭の中で、無意味な算術が始まる。押さえている圧、布の厚さ、血の粘性、外気温。何も救わない算術。それでも、数えることが、祈りの代わりになる。


「矢野さん。お願いがあります」


「何でも言え」


「わたしの名前を、もう一度だけ、呼んでください」


 蓮は喉を鳴らし、一度息を吸って、口を開いた。


「静」


 その二字は、冬の星の間を渡って、海の上で少し明るくなり、再び暗くなって、静の胸に落ちた。静の口元が、今度ははっきりと動いた。笑った。笑いは、痛みを伴っているはずなのに、痛みの形を持たなかった。笑いは、影の中で初めての形だった。


「ありがとうございます」


 静の指の力が、ほんのわずかに緩み、また戻った。遠くで笛の音。官軍の合図か、夜の番の交換か。世界は相変わらず動いている。ここだけが、時間の縁に吊り下がっている。


 蓮は静の肩を引き寄せ、自分の膝に乗せた。子にするように、頭を胸に当てる。静の髪が頬に触れ、海の塩と血の匂いが混じる。静の体は軽い。軽いのに、重い。ここにあるすべての季節が、重さに変わって乗っている。


「なあ、静」


「はい、矢野さん」


「お前は、俺に『忘れろ』って言ったな。無理だ。俺は忘れない。忘れないまま生きる。お前が嫌がっても、生きて、背中にお前の呼吸を飼っていく」


「……強情、ですね」


「お前に習った」


「すみません」


 謝るな、と言いかけて、蓮はやめた。静の「すみません」は、彼の世界を保つための添え木だ。添え木を折れば、形を保てなくなる。


 波が少し高くなり、岩の間に白い泡を残す。泡は割れ、また生まれる。静の呼吸が、その泡のように短くなり、間が空き、また戻る。蓮は両手で静の顔を支え、額を合わせた。額は冷たい。だが、その下にあるものは、まだ熱い。


「矢野さん」


「ここにいる」


「ありがとう」


 音は小さかった。小さかったのに、世界のどこよりも大きかった。蓮は目を閉じ、目の奥で白い光を見た。五稜郭の白、池田屋の灯、禁門の炎、鳥羽伏見の雨。すべての白が混ざって、やさしい灰色になり、静の息と同じ速度で揺れた。


 それから、呼吸は一度、深く落ちた。落ちて、戻らなかった。海は相変わらず寄せては返した。星は相変わらず瞬いた。蓮は額を離さず、しばらくの間、世界と呼吸の差を測り続けた。差は、広がらない。広がらないという事実が、全身の皮膚を刺した。


「静」


 名を呼ぶ声は、今度は水面に落ちず、胸の内で輪を描いた。蓮は静の目を指で閉じ、白布の端で血を拭き、乱れた襟を正した。正すという行為は、死に向けての礼であると同時に、残る者の背筋を伸ばす儀式でもある。蓮は静の両手を自分の手で包み、長い時間、そうしていた。指の間に残った温もりが、少しずつ石の温度と混ざっていく。


 やがて蓮は立ち上がり、崖をよじ登った。上から見下ろすと、白い形が岩の陰にすっぽりと収まり、夜の一部になっている。誰かがここを通っても、ただの影として見過ごすだろう。影は、最後まで、影のやり方で在る。


 台場の方から、笛と太鼓。捕虜の列は明朝、箱館へ移されると聞いた。蓮は詰所へ戻るために、来た道を辿った。足が泥を撫で、枝が袖を撫で、夜が髪を撫でる。撫でられることが、こんなにも耐え難いのは、撫でる者の手の記憶が、もうこの世にないからだ。


 詰所の塀を越え、藁の臭いに身体を沈める。目を閉じると、闇はすぐに瞼の裏に定着し、音が遠のいた。眠りは来ない。来ない眠りの代わりに、時間がゆっくりと流れ、夜の縁に触れる。触れるたび、静の息の影が、背骨に薄く触れた。


 朝。空は鉛色で、雪とも霙ともつかないものが斜めに落ちている。捕虜の列は縄で繋がれ、銃剣で囲まれ、泥の道を箱館の町へ向けて歩き出した。蓮は列の中ほどにいて、前と後ろの足の動きを合わせる。歩調が乱れると、銃床が背に叩きつけられる。叩かれるたびに、背中の下、骨の際で、誰かの呼吸が微かに合図した。


 道端に人が並び、石を投げる者、口汚く罵る者、ただ黙って見ている者。子どもが母の肩に隠れ、母は「見てはいけない」と言いながら、目を離さない。蓮は視線を地に落とし、足元の泥に自分の足跡が重なっていくのを見た。泥はすぐに踏みつぶされ、形を失う。形を失った足跡は、別の足跡の下で、重さだけを残す。


 列が町へ入る手前、蓮は一度だけ顔を上げた。五稜郭の方向は、薄い霧の向こうで輪郭を失っている。堀の外、崖の陰。白は、もう見えない。見えないのに、そこにある。見えないから、ある。影は、見えないことで在る。


 列の先頭が曲がり、町の通りへ入った。通りの先に、海が薄く光っている。箱館の海は、江戸のそれよりも鉄の匂いが強い。鉄は血の匂いに似ている。似ているからこそ、海はいつも戦場のように見える。蓮は唇の内側を噛み、血の味で、海の味を追い出した。


 役所の前で、列は止められた。名簿を作るという。名を問われる。蓮は口を開き、旧姓を吐き出す。役人の筆が紙の上を滑り、墨の線が乾いていく。線は、名を形にし、名は、身体の外へ出される。名を与えるという行為は、拘束であり、救済でもある。影にとっては、拘束に偏る。蓮は自分の名が紙に乗るのを見て、少しだけ、静に背を向けた気がした。背を向けることは、裏切りではない。影のやり方で、生きる者のやり方だ。


 書付を終え、列がまた動き出す。箱館の空は低く、風が角を持って頬を撫でた。蓮は歩きながら、心の中でゆっくりと名前を呼んだ。静、静、静。呼ぶたびに、胸の中の白が少しずつ灰色に落ち着き、灰色の中に小さな灯がともる。灯は弱い。弱いが、消えない。消えないからこそ、前へ出る足に、重さが戻る。


 この日の終わりに、蓮は収容の小屋で天井の板の目を数えた。節目の黒い輪がいくつもあり、どれも同じ形で、どれも違う。数えることに意味はない。意味のないことを、意味のない時間にするのが、敗者の贅沢だ。数えているうちに、瞼が重くなり、眠りがようやく来た。眠りの入口で、海の匂いと白い布の感触と、背中の呼吸が一つになった。


 夢は、池田屋の廊下だった。畳の目が水平に続き、灯の油が薄く匂い、遠くで笑い声が途切れ、刀が鞘走りする音が冷たく響いた。静が前にいて、振り返らない。振り返らない背中に、蓮は手を伸ばし、触れず、ただ、歩幅を合わせる。合わせ続ける夢。目が覚めても、歩幅の記憶だけは、消えない。


 翌日から、取り調べと労役が始まった。蓮は黙り、問われたことにだけ短く答えた。静のことは、誰も聞かなかった。誰も知らない。知られないために、静は消えた。消えることが、彼の最後の剣だった。蓮はその剣の重さを、背中で運び続ける。


 ある朝、薄い雲の隙間から日が差し、雪解けの水溜まりが小さく光った。蓮は縁に映る空を見ながら、心の中で一行を書いた。


 ——名は残らない。だが、背は残る。背中の高さ、呼吸の速度、半歩の加減。それが、わたしの書き付けだ。


 そして、もう一行。


 ——影の消えた場所で、影を続ける。


 紙はない。墨もない。だが、骨がある。骨は、折れなければ書ける。折れても、なお書けることがある。静が教えたのは、たぶん、その書き方だ。冬の海の底で、白い布の繊維がほどけ、塩と混ざり、見えなくなる時でさえ、繊維は世界のどこかで別の形をとる。呼吸は止まり、名は消えても、半歩の癖は、残る。残った癖を背に乗せて、蓮はまた、歩き出した。

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第四十六話 影の消失―後編


 朝は、音のない刃のように来た。薄い霧が斜面の草いきれを包み、足首のあたりで濡れた冷たさがまとわりつく。箱館の町からは鐘の音が一つだけ遅れて届き、捕虜小屋の屋根をかすめて消えた。蓮はその音で目を開けた。眠りは浅く、夢は短く、しかし指先には確かな感触が残っていた。白い布の端、からみついた塩、微かな血のぬめり。目を閉じれば、額に触れた冷たさがすぐ戻る。目を開けば、天井板の節の輪が重なり、時間の目盛りがずれてゆく。


 連行の号令がかかる。列は再び縄で結ばれ、銃剣で柵になぞらわれ、泥と砂利の道へ押し出された。蓮は目線を地へ落とす。自分の足の影が、朝の斜めの光で細長く伸び、列の隙間で折れる。折れるたびに、背中のどこかが疼いた。昨夜の崖で、石に当たった骨の位置だ。あの痛みは消えない、と分かった。消すべきでもない、とも分かった。


 町のはずれで老女が立ち止まり、何かを、祈りとも呪いともつかぬ声で唱えた。新政府の兵が「進め」と短く怒鳴る。声は冷えていて、湿っていた。蓮は横目で老女の肩越しに、遠くの海を見た。水面の色は、鉄に近い。鉄は血に似る。似ているから、見ているだけで胸が重くなる。蓮は唇の内側に歯を立て、味覚にわずかな痛みを戻した。


 役所へ運び込まれ、聞き取りが始まる。名前、出身地、所属、戦場の地名。紙の上に墨が線として増え、その線は乾いて、波打ち、折れ目になる。名は紙に渡るたびに、身体から少しずつ離れていく。蓮はそれを見届けながら、胸の奥でもう一つ別の名を呼んだ。静。呼び名は紙に書かれない。紙になじまない。紙が湿気でふやけ、乾いて縮むのを見ながら、蓮は心の内で繰り返した――静。


 労役の割り振りが下り、蓮は道路の補修に回された。崩れた石垣を積み直し、溝の詰まりを掻き出し、砕石を撒いて踏み固める。斧と鎚と鍬。刃の形は変わっても、手の皮は同じ場所で破れ、同じ場所で固まる。昼休み、支給の粥をすすりながら、蓮は指先の古い豆に触れた。池田屋の頃の、禁門の炎の頃の、江戸防衛の頃の、会津の雪の頃の、鳥羽伏見の雨の頃の、甲州の風の頃の、上野の煙の頃の、蝦夷の霜の頃の。指の腹は、年輪みたいに記憶を重ねている。そこに新しい輪が刻まれるたび、誰かの呼吸が、肩越しに戻ってきた。


 数日のうちに、噂が小屋の中を流れた。五稜郭の外れ、崖の下で、白い布の切れ端が見つかったと。潮にほつれ、砂に汚れ、むすび目のところだけが固くなっていたと。誰も、その布が何であったかを知らない。誰も、言わない。蓮はその夜、目を閉じたまま、その布の手触りを心でなぞった。むすび目の固さは、あのとき自身の指が作ったものと同じ固さだ。固さの中に、かすかに残っていた温度まで思い出せる。人は、触れたものの温度で自分を保つ。名ではなく、温度で。


 役人の書状が来て、榎本の処置、旧幕の役職者の投獄と赦免の順序が囁かれるようになった。誰かの名は牢の中へ運ばれ、誰かの名は赦しの印で新しい紙に書き直される。紙は、いつでも名を移し替える。影の名だけは、移せない。蓮は、紙を持たない者の覚悟を、背中の骨にさらに刻んだ。


 ある日、作業の帰路で、港近くの市場を通りがかった。魚の匂いと藁の蒸れた匂いと、海藻を干す塩の匂いが、風に混じって漂う。背の曲がったアイヌの老人が、編みかけの網をひざに乗せ、目の細い針でゆっくりと目を作っていた。老人は蓮の手を一度見て、網目から顔を上げた。


「おめえの手は、戦の手だな」


 蓮は立ち止まった。言葉の抑揚は柔らかかったが、目は海の石のように硬い。


「今は、石運びの手だ」


「石も戦だ。石は忘れねえ。蹴った足の重さを覚える」


 老人は網針を置き、腰袋から小さな白い貝殻を取り出した。螺旋の真ん中に、細い穴があいている。


「風の笛だ。吹いても音は出ねえ。耳に当てると、海が鳴る」


 貝殻を掌にのせると、温度はすぐに肌になじんだ。耳に当てる。穴から入った風が、貝の腹で回って、遠い波の音をつくる。遠いのに、近い。誰かの呼吸の残り香みたいに。


「名前は?」


「……矢野だ」


「ここでは名は外に置け。風は名を持たねえ。名のないものの方が、長く残る」


 老人はまた網に目を落とし、針の音を続けた。蓮は貝殻を懐にしまい、礼を言った。言葉は短かったが、胸の内で長く転がった。名のないものの方が、長く残る。静は、そのために消えたのか。消えた先で、風になり、海になり、石になり、網目になり、だれかの手の感触になって、残るのか。


 早春が過ぎ、草の茎が硬くなり、箱館山の斜面で新芽が増えてくる頃、小屋の中に別の噂が入ってきた。碧血碑――戦死者を弔う碑を建てる話だという。戊辰で血を流した旧幕の兵のための碑。石は青みがかって見えるので、碧血の名がついたと、誰かが得意げに言った。碑を建てたい者は多かったが、金はない。許しもない。だが、誰かが、石を運び、誰かが、刻む。名を刻むのではない。血の色の言葉を刻む。名は刻まない。命を刻む。


 手伝いの名目で外へ出る許しが下りた。蓮は数人とともに山へ入った。榎並えなみ村の石場から、青味がかった石を切り出し、橇に乗せて引いた。石は重く、雪の名残の上を滑り、時々、泥に沈む。誰かが掛け声をかけ、誰かが滑りを修正し、誰かが後ろで押す。息が合う時、石は軽くなる。息が合わない時、石は人を潰す。石は正直だ。だから、石に嘘はつけない。


 石を据える場所は、谷風が通る斜面の中腹だった。ここなら、風が碑の上を通り、文字に苔がつきにくいと、石工が言った。文字は、「碧血碑」の三字と、幾行かの由来の文。刻む者の手元で、石の粉が白い煙になって舞い、刻まれた線は影になって白む。蓮は刻みには手を出さず、周りを整え、石を手渡し、若い枝を切って足場をこしらえた。仕事の最中、胸の内でひとつの思いが強くなった。――静の白布の糸を、どこかに混ぜたい。碑のどこかに、名のない白を入れたい。


 夜、蓮は一人で崖へ降りた。潮が引いて、岩が露わになり、塩の花が角で光る。崖の陰は、あの夜と変わらない形でそこにあった。風の匂いだけが季節に合わせて少し変わっている。白いものは見えない。見えないのに、蓮は手を伸ばして、岩の割れ目を探った。指先に、ほんの短い布の繊維が触れた。潮にほどけ、砂に揉まれ、それでも繊維は繊維の形でそこにいた。蓮はそれを摘み、掌で守り、胸に入れた。心臓が布を叩いて、布は心臓を覚えた。


 翌日、石の据え付けが終わり、石工が最後の仕上げをしている間、蓮は碑の台座の土に、昨夜拾った白い繊維を混ぜた。掬った土に、糸を一本ずつ、見えないように差しては、薄くならして踏んだ。誰も気づかない。気づかれなくていい。碑は風に撫でられ、雨に叩かれ、雪に埋もれ、やがて苔に覆われるだろう。その時、土の中で白い糸は、別のものに変わっている。根になるか、水の道になるか、誰かの指の記憶になるか。どれでもいい。残ることが、今はただ、それだけでよかった。


 碑が立った日の夕方、斜面の上で榎本の赦免が噂になった。幽囚から政治家へ。敗者の頭は、勝者の側へ置かれる。歴史は、紙の上で折りたたまれ、別の題目で開かれる。蓮はその話を聞きながら、碑の上の三字を見上げた。碧血碑。静の名はそこにない。土の中にある。土の中の白は、名前のない字だ。名の代わりに、土が持つ字。


 夏が来ると、箱館の町は霧の日が増えた。霧は音を吸い、匂いをぼかし、輪郭を丸くする。労役の足は軽くなり、役人の顔は少し柔らかくなった。赦免の話が下にまで降り、年季の軽い者から順に解かれていく。蓮の名も紙の上で線を引かれ、別の紙へ写された。紙の上で動く名を見て、蓮は胸の中で静の名を動かした。動かない。紙の上では動かない。だから、心の中でだけ、位置を少しずつずらす。背中の右側だった呼吸を、左側へ少し寄せる。寄せるたび、涙腺のどこかが痒くなる。


 赦されて、町の外へ出る許しが出た日、蓮は碧血碑へ登った。道は細く、草は濡れ、靴は泥を抱いて重くなる。碑の前に立つと、風が背中を押した。碑の影は朝の光で短く、地面の斜めに、白い小さな花が咲いていた。名前を知らない花だ。白は、どこまでも静の色だ。蓮は碑に頭を下げ、額が冷たい石に触れた。


「静」


 声は小さかった。だが山に跳ね、風に混じり、海へ降りる。呼ばれた名は、紙に書かれない名だ。紙に書かれないから、風にも海にも混じれる。蓮は胸の内の白い繊維が、今度は自分の体の中で根を伸ばしてゆくのを感じた。根は血の中を進み、骨の中を潜り、背骨の横で静かに止まる。根の先に、小さな芽が出る。芽は、痛みに似ている。痛みは、生きている者の証だ。蓮は目を閉じ、痛みを抱えたまま、長い呼吸をした。


 夕刻、山を下りる途中で、蓮はふいに足を止めた。斜面の途中、笹の影が揺れ、白いものが一瞬のぞいた。白はすぐに消えた。誰かがそこにいる。そう思った瞬間、胸の内で、懐かしい声がした。


「矢野さん」


 振り向いた。誰もいない。いるはずがない。だが声は、風の高さで、はっきりと聞こえた。蓮は笑った。涙が、頬の真ん中を温かく伝って落ちた。涙は、純粋に重い。こんなにも単純に重いものが、自分の中にまだ残っていたことが、嬉しかった。


 秋が来て、箱館の空は高くなり、海は群青の深みを増した。港の荷揚げ場は新政府の役人で賑わい、町は新しい名で呼ばれる準備を始める。人々は勝者の言葉で話し、新聞は新しい文字で世界を測り直す。蓮はその中を、名を持たない足取りで歩いた。働き口を見つけ、石を積み、材木を運び、時々、碑へ登った。碑は風の中で立ち、土の中で白を抱えて立ち続けた。


 冬の初め、雪の前触れが風に混ざる季節、蓮は港の外れで、あのアイヌの老人に再び出会った。老人は網を仕上げ、丸く束ね、肩にかけていた。


「生きてるな」


「生きてる」


「名は?」


「……名は、置いてきた」


「それでいい」


 老人は腰袋から、もう一つ小さな貝殻を取り出し、蓮に渡した。今度の貝は、少し欠けている。欠けの縁が鋭く、指に当たるとひっかかる。


「これは、音が出る。出るが、誰にも聞こえねえ。自分にだけ聞こえる」


 耳に当てる。風が貝の欠け目で割れて、細い、細い音になった。音は、ほんの少しだけ、あの夜の呼吸に似ていた。蓮は貝を懐にしまい、深く頭を下げた。老人はそれ以上何も言わず、海の方へ歩いてゆく。網の目は均一で、強く、やさしい。人が使うために、編まれている。人のために、名のない力で。


 雪の降る夜、蓮は最後にもう一度、崖へ降りた。風は強く、雪は斜めに降り、岩は薄い氷で滑りやすくなっている。足場を探り、手で掴み、膝で滑り、ようやく、あの陰に届いた。白はない。最初からないように、ない。蓮は岩に背を預け、少しの間、目を閉じた。海は黒く、波は白く、風は冷たい。冷たいのに、胸の内側は、静かに暖かい。


「静。俺は、生きる」


 言葉はゆっくり、海へ落ちた。落ちた先で、波と混じり、砂と混じり、塩と混じり、いつか風に戻る。戻った風は、どこかの背を撫でるだろう。背は、背中の高さでしか分からない。背を預ける者がいれば、生きられる。背を預けた者がいなくなっても、その高さは、骨の中に残る。


 その夜、蓮は泣いた。静かに、深く、長く。泣くことは、敗者の贅沢だ。泣き疲れて、額を岩に預けて眠った。夢の中で、池田屋の廊下の端へ、あの白い裾が曲がって消えていった。呼んでも振り返らない。振り返らない背に、歩幅だけを合わせる。目が覚めたとき、雪は少し積もっていた。足跡は半分残り、半分消えかけている。残った半分で、十分だった。そこから先は、自分の足で刻めばいい。


 春になる頃、蓮は箱館を離れた。北国の春は遅く、木々はまだ芽を固く握っている。山の麓で振り返ると、碧血碑のある斜面が細い線になって見えた。碑は風の中で小さく、しかし確かに立っている。蓮は胸に手を当て、白い貝殻の欠け目を指先でなぞった。音は出ない。自分にだけ聞こえる音が、骨の内で鳴った。


 道の先で、子どもが転んで泣いていた。膝に小さな血。母親が慌てて駆け寄り、袖で拭い、抱き上げる。子どもはすぐに泣き止み、母の肩で眠った。血は土に染み、すぐ乾いて、色を失う。あたりまえの、ひとつ。生きている者のあたりまえの、ひとつ。蓮はその光景に足を止め、胸の内で誰かに報せた。静、こういうことが、ここにはある。


 それからの年月、蓮は各地を移り、名を変えたり戻したりしながら、石を積み、橋を架け、土手を築いた。どこでも、同じ半歩の加減で働いた。どこでも、同じ高さで背を伸ばし、同じ速度で呼吸を合わせた。誰も、彼の名を知らない。誰も、彼の昔を知らない。だが、彼自身が知っている。背中の高さと、半歩の癖と、呼吸の速度。静が預け、静から預かった、名のない地図。


 ある年の秋、旅の途中で立ち寄った町の祭りで、若い浪人崩れが居合を披露していた。白い装束の下に薄い鎖帷子を覗かせ、袖口は新しい。人々が「白い剣士」と囃し立て、酒の勢いで騒ぐ。若者は得意になって刃を振り、灯の光で刃の線を見せる。蓮は遠くからそれを見て、何も言わなかった。白は、灯の色を借りて白くなる。あの夜の白は、灯のない白だった。灯のない白の強さは、誰にも分からない。分からせる必要もない。蓮は屋台の端で酒をひと口だけ喉に落とし、夜風に当たり、祭りの音を背にして歩き出した。


 冬、雪原を渡る風が強い夜、蓮は焚き火の前で、ふと声を出した。耳の奥に、あの低い声が、多層に重なって響いたからだ。


「矢野さん」


「ここにいる」


 対話は、返事のない往復で続いた。返事のないことを、返事の形とする。静が生きていた頃と、何も変わらない。変わらないから、変わった。蓮は火に手をかざし、掌の皺に熱を覚えた。皺は増え、線は深くなり、だが半歩の癖は薄れない。癖こそが、名の代わりに残るものだ。


 春の終わり、蓮は再び箱館に戻った。港は新しい建物で賑わい、通りの看板は横文字を含み、兵の制服は色が変わっている。碧血碑の斜面は草が青く、風が白い花を揺らす。碑の前で、長い旅の土を落とし、蓮は深く頭を下げた。土の中の白い繊維は、もう土そのものになっているかもしれない。土は、花を咲かせ、木を育て、風の道を作る。名のない仕事は、名のないものを育てる。


「静」


 ひとつだけ、名を呼ぶ。風が返す。風に混じって、潮の遠い音。耳に当てた貝殻の、欠け目で割れた、細い音。蓮は笑った。涙は出なかった。涙は、もう別のところで使い切った。代わりに、胸の奥で、何かが静かに満ちた。満ちたものは、言葉にならない。言葉にならないから、こぼれない。こぼれないものは、長く残る。


 碑を離れ、斜面を下る途中、蓮は一度だけ振り返った。風が碑の上を渡り、影を短くし、また長くした。影は、光に従う。だが影は、光がなくても、地べたの温度で形を持つ。静が教えたのは、それだった。地べたの温度で測る世界。背中の高さで覚える人。半歩の加減でつなぐ命。


 港へ戻ると、少年が一人、縄跳びをしていた。飛び方はぎこちなく、縄は時々靴に引っかかる。少年はむっとして、もう一度、またもう一度。やがて、跳び方を覚え、呼吸のリズムで縄が回る。背中が自然に伸び、半歩の踏み替えが美しくなる。蓮はそれをしばらく眺め、胸の中で「上手い」と一言だけ言った。少年はそれを聞いたのか聞かないのか、調子を変えずに跳び続けた。


 夕暮れ、港の端で風を受けながら、蓮は懐の貝殻を取り出した。欠け目に指を触れ、耳に当てる。遠い波が鳴り、近い呼吸が重なり、どこか見知らぬ町の祭囃子が、ほんのわずかに混じる。世界は広い。広いのに、背中の高さは、どこへ行っても同じだ。蓮は貝殻をしまい、歩き出した。歩幅は、いつもの半歩。呼吸は、いつもの速さ。背中には、いつもの重み。


 名は残らない。だが、名より深いものが残る。背。呼吸。半歩。白い布の繊維。土の湿り。海の塩。石の重み。冬の星。夏の霧。箱館の風。池田屋の灯。禁門の炎。鳥羽伏見の雨。甲州の土埃。上野の煙。会津の雪。五稜郭の堀。弁天の潮騒。一本木の風。碧血碑の影。すべてが、同じ高さで胸の内に並ぶ。


「静。行くぞ」


 声は小さく、しかし揺るがない。答えは、ない。ないことが、返事だ。蓮は頷き、前を見た。夕闇が降り、港の灯が点り始める。灯は多く、白は少ない。白は、灯がなくても白い。灯があっても白い。白は、影の色だ。影は消えない。消える時でさえ、消えない。


 足が地を打ち、指が風を裂き、目が前を掴む。背中の高さは、もう恐怖ではなく、ただの事実になった。事実は、強い。強いから、優しい。優しいから、長い。長いから、遠くまで届く。蓮はその長さで、世界を撫でた。撫でられた世界が、ほんの少しだけ、柔らかくなることを願いながら。

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第四十七話 蓮の手記


 捕縛は避けられなかった。弁天台場の裏手、泥と雪解け水が筋を描く低い窪地で、矢野蓮は包囲線に突き当たり、刃こぼれした刀を捨て、両手を上げた。縄が手首に食い込み、冬の汗が塩の味を残す。銃剣の先が肩口を押し、転ばぬように転ばせる不思議な力で前へ前へと歩かされる。連行された詰所は狭く、湿っていて、窓の一部は氷で曇っている。粗い板の隙間から差し込む光が、埃を金色に浮かばせているのが妙にきれいだった。人の悲鳴も罵声も減り、かわりに法の文言と名前の呼び上げが夜通し続く。歴史が帳簿へ移るのだ、と蓮は思った。血と灰で書かれていたものが、墨と筆の領分へ。名のあるものだけが、紙を渡る。


 取調べは淡々としていた。名、出自、隊での役目、函館での働き。蓮は必要以上のことを語らない。語れば、影に日が当たる。問いの間に長い沈黙が挟まると、書記が苛立った調子で咳払いをした。誰も“白装束の剣士”の行方を知らないかと問うた。蓮は肩を竦め、曖昧に笑った。噂話を尋ねるのは、勝者の余興にすぎない。影の話は、勝者にとっても影のままの方が都合がいい。


 数日が過ぎ、判決が降りる。重い者は遠島、軽い者は赦免、わけの分からない者はしばらく据え置かれる。蓮は“据え置かれる側”に入った。名が薄く、罪状が薄く、記録に乗せても意味を持たない人間。彼はその分類の居心地の悪さに苦笑し、夜ごと短い文を板壁の裏に刻みはじめた。爪の先で木肌を掻き、木屑が白い粉になって落ちる。


 ――影の証言。

 ――俺はいた。背を預けられた。背を預けた。

 ――ここに書く名前は、書けば消える。


 文字は小さく、節の溝に沿って曲がり、釘の赤錆でところどころ滲んだ。ある晩、番人が巡回ついでに覗き込み、「落書きはやめろ」と手の甲で叩いた。蓮は従順に頷き、今度は掌に覚え書きを書くことにした。爪で皮膚をなぞり、翌朝にはほとんど読めなくなる痕跡。消えることが前提の手記だ。


 詰所の隅に煤けた小さな竈があり、朝な朝な番の者が薄い粥を温める。蓮はその煤で指先を黒くし、枕元の柱の見えぬ側面にさらに細い字を描いた。煤はすぐに剥げる。剥げるから、書き続けられる。


 ――池田屋。畳の匂い。汗と蝋燭と血。

 ――禁門。炎。風。走ると煙が肺の形になる。

――鳥羽伏見。泥の上の鉄。耳鳴り。

――甲州。向こう見ず。退くときほど背は近い。

――上野。砲声一日。城の木が焦げる匂い。

――会津。雪に血は咲く。

――箱館。潮の鉄。

――一本木。風。馬の瞳。

――五稜。星の角。

――白。白は灯のない白。


 夜が深いほど、目に浮かぶのは声だった。静の声は、低いのに、いつも耳の高さで鳴る。どの戦でも同じ高さだった。耳の高さで言った。


 ――矢野さん。


 その呼び方は、蓮にとって名より深く刻まれた合図だった。名は紙の上で移ろうが、呼び方は骨の上で残る。思い出すたび、肩口の筋肉が自然に緩む。あの半歩の距離へ、全身の器官が戻ろうとする。


 昼の労役が割り振られた。蓮は道路の補修に回され、崩れた石垣を積み直し、溝の詰まりを掻き出し、砕石を撒いて踏み固める。斧と鎚と鍬。刃の形は変わっても、手の皮は同じ場所で破れ、同じ場所で固まる。昼休み、支給の粥をすすりながら、蓮は指先の古い豆に触れた。池田屋の頃の、禁門の炎の頃の、江戸防衛の頃の、甲州の風の頃の、上野の煙の頃の、会津の雪の頃の、蝦夷の霜の頃の。指の腹は、年輪みたいに記憶を重ねている。そこに新しい輪が刻まれるたび、誰かの呼吸が、肩越しに戻ってきた。


 詰所の同室に、会津から敗走してきた壮年の男がいた。名は言わない。言わないことが礼儀であり、同盟だった。男は夜ごと短い唄を鼻で転がした。会津の田植え唄だという。「稲は黙って根を下ろす」と唄は言う。蓮は目を閉じ、根の形を想像した。白い糸のような根。あの夜拾った、潮にほどけた白布の繊維と同じ形をしている。根は名を持たない。持たないから、長い。


 春の終わり、赦免に近い条件で放たれた。蝦夷の海霧が薄くなり、山肌に小さな花が咲く季節。港に沿って、捕虜だった者たちがばらばらに歩き出す。誰もが背中に空の匂いを負い、行き先は口にしない。蓮は背嚢に何も入っていないのを確かめ、歩きはじめた。行き先は陸奥でも、江戸でも、名のないどこかでもない。ただ、地図に載らない距離を歩くつもりだった。


 箱館の市中で、小さな古道具屋に入る。中は潮で膨らんだ木箱が積まれ、書き損じの帳面や、解かれた帯や、壊れた櫛が雑多に置かれている。店主は蓮を泥の塊のような目で見て、何も言わない。蓮は帳面の束を指で撫で、最も薄く、最も安い一冊を選んだ。代金を置き、外へ出て、最初の頁を破る。破った紙を四つに折り、そこに短く記す。


 ――影の夜、背の呼吸。

――雪に消えた白。


 それを港の杭の割れ目に押し込み、二枚目の頁を破る。今度は海風で飛びそうな葦の束の中へねじ込む。三枚目は、五稜郭へ続く道の脇の石の下へ。四枚目は、弁天台場の塀の亀裂へ。紙は湿って皺になり、すぐに読めなくなる。だが、それでいい。読めない文字の方が、長く残る。読む者の内側へ潜り、誰かの記憶の形に合わせて変化する。


 街道へ出る前、蓮は一度だけ五稜郭の方へ振り向いた。星形の稜線は春の霞の中で輪郭を失い、遠い腹の底で海が息をしている。あの城のどこかの壁の裏に、彼の爪の跡が残っている。名前ではない線が。名を残す代わりに残すものは、世界の傷のようなものだ。誰もそれを指さして「矢野蓮」とは言わない。けれど、そこに誰かが触れたとき、冷たさの正体として小さな物語が立ち上がるだろう。そうなれば十分だ。


 歩き出す。北へも南へも定めず、ただ歩幅をそろえて歩く。背のどこかに、いつでも手を伸ばせる相手の気配を想像しながら。歩くたび足の裏に溜まる痛みが、名の代わりに日付を刻んでいく。ある村の子どもが道端で石蹴りをしていて、蓮の靴先に石が転がってきた。拾って、子どもに渡す。子どもは礼も言わず、走っていった。よくある風景だ。蓮は笑った。影の善意は、記録されないからこそ軽い。


 夜、野宿の火のそばで、帳面の残りの頁を閉じた。書けば消える。書かねば消える。ならば、書いて消えよう。彼は目を閉じ、背に無人の重みを確かめてから、眠った。夢の中で、白い裾が風に揺れ、雪は音を立てずに積もり、海は遠くで青く笑った。


 翌日からの頁には、少しずつ違う文体が並びはじめた。蓮は、自分の言葉だけでなく、聞いたことのある口調をまぜることにした。静の声の高さで、書く。


 ――矢野さん。ここは通さない。

 ――迷いは斬られる。

 ――背を預けるのは、二人。


 文字はどれも短い。長い物語は紙に残るが、影は紙に残らない。短いほうが、息と一緒に持ち運べる。


 五稜郭の陥落から間もない箱館の町では、新政府の役人に混じって、江戸から来た古書肆が露店を出しはじめていた。古い兵法書、蘭学の残り紙、江戸の瓦版。蓮は立ち止まり、瓦版の墨の匂いを嗅いだ。騒がしい文字は、戦の後には妙に軽い。紙の上の勝敗は決してべたつかない。乾いて、並び替えられ、束ねられ、人の手から手へ渡される。影の敗北は、乾かない。だから、誰にも渡らない。


 弁天町の端で、アイヌの古老が網を編んでいた。以前、貝殻をくれた老人だ。老人は蓮の手の甲を一度見、何も言わずに網針を動かし続けた。規則正しい手の動きには、名はない。名のない規則だけが、網を堅くする。


「生きてるな」


「生きてる」


「名は?」


「……置いてきた」


 それでいい、と老人は言わずにうなずいた。蓮もまた何も言わずにうなずいた。言葉を省くことで、やり取りは濃くなる。影は無口であるほど、よく伝わる。


 蓮の頁は町のあちこちへ散っていく。港の杭、路地の石畳の継ぎ目、寺の裏の土、崖の割れ目、古い井戸の外輪。彼はわざわざ読ませようとはしない。紙を置くときの指先の温度だけが、小さな祈りだ。


 ある日、取調べで顔を見た書記が、市場の雑踏で蓮を呼び止めた。浅葱色の裃は脱いでいて、町着に着替えている。買ったばかりの干物の匂いが袖に残っていた。


「おまえ、名のない書付をあちこちに挟んでるな」


 蓮は笑った。「読めないだろ」


「読めない。だが、触れば冷たい。妙に冷たい。あれは何だ」


「背の高さの手紙だ」


 書記は理解したのかしないのか、鼻で笑い、去っていった。理解されないほうがいい。理解は、紙へ連れて行かれる。


 日が伸び、箱館山の上に朝の薄い霧が溜まる季節、蓮は崖へ降りた。あの夜、白い糸を拾った場所。潮が引いて、岩が露わになり、塩の花が角で光る。白いものは、もうない。見える限り、何もない。蓮はそれでも、岩の割れ目にそっと指を入れた。何も触れず、ただ冷たさだけが指にまとわりつく。その冷たさは、誰の名も持たない。名がない分だけ、深く残る。


 崖の上へ戻りながら、蓮は頁に短く書いた。


 ――触れて冷たいものにしか、言えないことがある。


 頁は海風で揺れ、立ち木の陰に鳴った。蓮はちいさく笑い、頁を自分の胸の内側に押し当てた。紙は心臓の拍動に合わせて温かくなり、すぐまた冷えた。温かさと冷たさの交代が、手記の正しい読み方だと思えた。


 その晩、夢に火が出た。池田屋の灯。禁門の炎。江戸の提灯。上野の火点し。会津の囲炉裏。箱館の焚き火。どれも同じ高さに揺れる。灯りの外に白があり、白の外に風がある。風の外に海がある。海の外に、名前のない暗がりがある。その暗がりへ、静の裾が消える。消えたとき、蓮の手の平が空をつかむ。空の重さが、手の平の骨の中へ残る。


 翌朝、碧血碑の噂を耳にした。戊辰で血を流した旧幕の兵のために碑を建てるという。石は青みがかって見えるので、碧血の名がついたと、誰かが得意げに言った。碑を建てたい者は多かったが、金はない。許しもない。だが、誰かが、石を運び、誰かが、刻む。名を刻むのではない。血の色の言葉を刻む。名は刻まない。命を刻む。


 手伝いの名目で外へ出る許しが下り、蓮は数人とともに山へ入った。榎並村の石場から、青味がかった石を切り出し、橇に乗せて引いた。石は重く、雪の名残の上を滑り、時々、泥に沈む。誰かが掛け声をかけ、誰かが滑りを修正し、誰かが後ろで押す。息が合う時、石は軽くなる。息が合わない時、石は人を潰す。石は正直だ。だから、石に嘘はつけない。


 石を据える場所は、谷風が通る斜面の中腹だった。ここなら、風が碑の上を通り、文字に苔がつきにくいと、石工が言った。文字は、「碧血碑」の三字と、幾行かの由来の文。刻む者の手元で、石の粉が白い煙になって舞い、刻まれた線は影になって白む。蓮は刻みには手を出さず、周りを整え、石を手渡し、若い枝を切って足場をこしらえた。仕事の最中、胸の内でひとつの思いが強くなった。――静の白布の糸を、どこかに混ぜたい。碑のどこかに、名のない白を入れたい。


 夜、蓮はひとり崖へ降りた。潮が引き、岩が呼吸している。波が来るたび、岩の肌が一瞬濡れ、すぐ乾く。岩の割れ目に指を差し入れると、砂が指先に集まってきた。砂の中に、微細な白が混じる。繊維か、殻の粉か、塩の結晶か分からない白。蓮はそれを掌に集め、布に包んで持ち帰った。翌日、碑の台座の土に、その白を混ぜた。掬った土に、白を散らし、見えないように薄くならして踏む。誰も気づかない。気づかれなくていい。碑は風に撫でられ、雨に叩かれ、雪に埋もれ、やがて苔に覆われるだろう。その時、土の中の白は、別のものに変わっている。根になるか、水の道になるか、誰かの指の記憶になるか。どれでもいい。残ることが、今はただ、それだけでよかった。


 碑が立った日の夕方、斜面の上で榎本の赦免が噂になった。幽囚から政治家へ。敗者の頭は、勝者の側へ置かれる。歴史は、紙の上で折りたたまれ、別の題目で開かれる。蓮はその話を聞きながら、碑の上の三字を見上げた。碧血碑。静の名はそこにない。土の中にある。土の中の白は、名前のない字だ。名の代わりに、土が持つ字。


 港では新政府の兵が一隊、行進していた。隊列はまっすぐで、歩幅は揃い、靴の音は石畳に一定の刻みをつける。蓮はその刻みに自分の半歩を合わせ、すぐ外れ、また合わせ、また外れた。合わせたり外れたりすることが、生き延びる術だと、身体が覚えている。その身体の覚えを、紙にも残したくなった。蓮は薄い頁に書いた。


 ――合わせる。外れる。

 ――外れた分だけ、背が見える。

 ――見えない背に、手が届く。


 頁はまた、どこかへ挟まれ、湿り、皺になり、読めない文字に変わってゆく。


 夏が来ると、箱館の町は霧の日が増えた。霧は音を吸い、匂いをぼかし、輪郭を丸くする。労役の足は軽くなり、役人の顔は少し柔らかくなった。赦免の話が下にまで降り、年季の軽い者から順に解かれていく。蓮の名も紙の上で線を引かれ、別の紙へ写された。紙の上で動く名を見て、蓮は胸の中で静の名を動かした。動かない。紙の上では動かない。だから、心の中でだけ、位置を少しずつずらす。背中の右側だった呼吸を、左側へ少し寄せる。寄せるたび、涙腺のどこかが痒くなる。


 赦されて、町の外へ出る許しが出た日、蓮はもう一度、碧血碑へ登った。道は細く、草は濡れ、靴は泥を抱いて重くなる。碑の前に立つと、風が背中を押した。碑の影は朝の光で短く、地面の斜めに、白い小さな花が咲いていた。名前を知らない花だ。白は、どこまでも静の色だ。蓮は碑に頭を下げ、額が冷たい石に触れた。


「静」


 声は小さかった。だが山に跳ね、風に混じり、海へ降りる。呼ばれた名は、紙に書かれない名だ。紙に書かれないから、風にも海にも混じれる。蓮は胸の内の白い繊維が、今度は自分の体の中で根を伸ばしてゆくのを感じた。根は血の中を進み、骨の中を潜り、背骨の横で静かに止まる。根の先に、小さな芽が出る。芽は、痛みに似ている。痛みは、生きている者の証だ。蓮は目を閉じ、痛みを抱えたまま、長い呼吸をした。


 山を下りる途中、笹の影が揺れ、白いものが一瞬のぞいた。白はすぐに消えた。誰かがそこにいる。そう思った瞬間、胸の内で、懐かしい声がした。


「矢野さん」


「……静」


 振り向けば、誰もいない。いるはずがない。だが声は、風の高さで、はっきりと聞こえた。蓮は笑った。涙が、頬の真ん中を温かく伝って落ちた。涙は、純粋に重い。こんなにも単純に重いものが、自分の中にまだ残っていたことが、嬉しかった。


 秋、旅の身のまま陸奥へ下る。道中で出会った小さな町の祭りで、若い浪人崩れが居合を披露していた。白い装束の下に薄い鎖帷子を覗かせ、袖口は新しい。人々が「白い剣士」と囃し立て、酒の勢いで騒ぐ。若者は得意になって刃を振り、灯の光で刃の線を見せる。蓮は遠くからそれを見て、何も言わなかった。白は、灯の色を借りて白くなる。あの夜の白は、灯のない白だった。灯のない白の強さは、誰にも分からない。分からせる必要もない。蓮は屋台の端で酒をひと口だけ喉に落とし、夜風に当たり、祭りの音を背にして歩き出した。


 冬、雪原を渡る風が強い夜、蓮は焚き火の前で、ふと声を出した。


「静。俺は、ここにいる」


 答えは、ない。ないことが、返事だ。返事は、風の向きで分かる。風は北から吹き、火は南へ揺れる。火の揺れの高さは、耳の高さより少し下。そこが、静の声の位置だ。


 春の終わり、蓮は再び箱館に戻った。港は新しい建物で賑わい、通りの看板は横文字を含み、兵の制服は色が変わっている。碧血碑の斜面は草が青く、風が白い花を揺らす。碑の前で、長い旅の土を落とし、蓮は深く頭を下げた。土の中の白い繊維は、もう土そのものになっているかもしれない。土は、花を咲かせ、木を育て、風の道を作る。名のない仕事は、名のないものを育てる。


 港の端で縄跳びをする少年がいた。飛び方はぎこちなく、縄は時々靴に引っかかる。少年はむっとして、もう一度、またもう一度。やがて、跳び方を覚え、呼吸のリズムで縄が回る。背中が自然に伸び、半歩の踏み替えが美しくなる。蓮はそれをしばらく眺め、胸の中で「上手い」と一言だけ言った。少年はそれを聞いたのか聞かないのか、調子を変えずに跳び続けた。


 夕暮れ、港の灯がひとつ、ふたつ、またひとつと点り、海が黒く沈んでいく。蓮は懐の貝殻を取り出し、欠け目に指を触れ、耳に当てた。遠い波が鳴り、近い呼吸が重なり、どこか見知らぬ町の祭囃子が、ほんのわずかに混じる。世界は広い。広いのに、背中の高さは、どこへ行っても同じだ。蓮は貝殻をしまい、歩き出した。歩幅は、いつもの半歩。呼吸は、いつもの速さ。背中には、いつもの重み。


 名は残らない。だが、名より深いものが残る。背。呼吸。半歩。白い布の繊維。土の湿り。海の塩。石の重み。冬の星。夏の霧。箱館の風。池田屋の灯。禁門の炎。鳥羽伏見の雨。甲州の土埃。上野の煙。会津の雪。五稜郭の堀。弁天の潮騒。一本木の風。碧血碑の影。すべてが、同じ高さで胸の内に並ぶ。


 蓮の手記は頁を持たない。木の裏、土の中、石の下、海の割れ目、風の高さ。そこに書かれた文字は、読めば消え、消えれば残る。読む者は、たぶん世界だけだ。世界は、読むことをやめない。


 夜が深く、星が風に滲む。蓮は最後に一度だけ、声を出した。


「静。行くぞ」


 答えは、ない。ないことが、返事だった。蓮は頷き、前を見た。灯は多く、白は少ない。白は、灯がなくても白い。灯があっても白い。白は、影の色だ。影は消えない。消える時でさえ、消えない。彼はその確かさだけを連れて、名のない道を歩き続けた。背の高さを測り、半歩の加減を守り、呼吸を分け合う誰かの記憶を胸に、黙って。

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