9.自由な悪意
アイゼンハワー領ウィソング。別名“音楽の園”。
大昔の市長が大の音楽好きで街に音楽を学ぶ学校を建て、そこに集まってくる音楽家と音楽家志望達という流れの中で、いつしか街全体が音楽好きの住人だらけになったと言われている街だ。
もちろん住人みんなが音楽を嗜んでいるというわけでもないが、それでも他の街と比べると圧倒的に楽器を扱えるもの、上手に歌うノウハウを持っている者が多い。
故に今も大通りで楽器ケースを手にしている者が多く、サヤはそんななかなか見られないような人混みをダリアのすぐ背後から眺めていた。
もちろん、彼女の姿は道行く人々には見えない。
《まったく相変わらず騒々しい街だな……まあ仕事をするには悪くない場所ではあったけれどさ》
そして、ダリアが口に出さずに思った事を聞けているのは、サヤだけであった。
「さすが旅商人さんって感じの感想ね。勉強になるわ」
《興味ない癖に。にしてもやっぱ不思議な感覚だな。オレがこうしてお前と話したいって念じた事は声にしなくても伝わるなんて。いやまあ、取り憑かれてるって状況考えれば普通なんだろうけどさ……》
いつの間にかできるようになった念話に難しい顔をしているダリアを見て、サヤは「くすくす」と笑った。
口元に手を当てて笑う彼女の姿は、素直に可愛げだ。
「あら、別に声を出して私と会話していいのよ? そうしたらきっとこの街の衛兵さんのお世話になって、最後には病院送りかもしれないけれど」
《分かってるよ、ただ不思議だなってなっただけだから。……で、ここでの相手、もう決めてるんだろう?》
周囲からはただ一人歩いているようにしか見えないダリアは、チラリと背後に顔を向けて行った。その姿もなんとなく後ろを見た程度にしか見えないだろう。
だけれど、彼女の視線を受けたサヤは、コクリと微笑みながら頷いた。
「ええ、決めてあるわ。狙うのはこの街で最も人気がある歌手、ナサリィよ」
サヤがそう言ってチラリと目を向けたのは道に並ぶ店の壁に貼られた大きな張り紙で、そこには壇上で歌うきらびやかな女性歌手の姿が描かれていた。その絵と共に『歌姫ナサリィ、奇跡の歌声!』という謳い文句が添えられ、日時と場所も共に描かれている。
そして同じ張り紙が街のいろんなところに貼られていたのだ。
「面識があったわけじゃないけれど、私も名前は知っているぐらいの歌手だわ。彼女は間違いなくこの街で一番の歌姫であって、そしてそれはこの国一番の歌姫でもあるということ。つまり、これほど都合のいい相手はいないのよ」
《なるほどね……確かに、たった一人呪えばほぼ街全部を呪ったと同然だなこりゃ。んじゃ、さっそく会いに行きますか……どうすれば会えるか分からないけれど》
「普段の彼女はこの街にある音楽学校にいるはず。だから、学校に忍び込んでまだぶつかりでもすればいいんじゃない?」
《やるのはオレなのにテキトーな……はぁ、やれるだけやるよ》
ダリアはニコニコと嗤いながら言うサヤに渋い顔をしながらも、軽くため息一回で済ませると足を音楽大学へと進める。
音楽大学は街のランドマークでもあったため、そこへ行くための道のりは懇切丁寧にいたるところで看板や標識で案内されていた。
通り過ぎる道すがら聞こえてくる、たくさんの音楽。
みな楽しげに音を奏で歌い、それらで笑顔になっている。
「しかし、改めて思うが本当にいつ来てもお祭りみたいなテンションのやつばっかだな……腹が立つ」
素直に笑顔にあふれる人々を眺め、ダリアが小声で言った。
思わず本音が漏れた、というような言い方であった。
「なるほど。大嫌いなのね、この街が」
それを、隣に並ぶサヤが受け止める。
ダリアはコクリと頷く。
《……ああ。この街の連中は言ってしまえば生まれから恵まれた奴ばっかだ。食うに困るどころかお高い楽器を手にするぐらいには生活に余裕があって、真面目に働くか趣味を仕事にするか、それともいっそ外の街に出ていくなんて贅沢な選択肢が用意されている》
念話でサヤに返してくるダリアの横を通り過ぎる、風船を持って走る笑顔の子供達。
ダリアがそんな小さな子達にすら憎しみの視線を向けたのを、サヤは見逃さなかった。
《自分達以下の生活なんておとぎ話の世界だと思っているだろうし、なんなら意識すらしたことがないだろう。オレのような選択肢を得るチャンスすら存在しなかった命とは“品質”に圧倒的な差がある。それを思うと……全部ぶっ壊してやりたいって何度思ったことか》
「でも、しなかった。そこがあなたの賢いところよ」
《タダの臆病者だよ。いっそすべてを捨てられればよかったのに、いつまで経っても過去に縛られて保身に走る、どうしようもない賤民さ》
ぎゅっと、ダリアは自分の右手を握った。
眉間の皺を濃くし口元を歪めた彼女の脳裏に、声が反響する。
『――逃げて――生き延びて――』
遠く過ぎ去った後悔の残響。
唇を噛み締めるダリアの中に鳴り響く言葉を、取り憑いているサヤもまた感じていた。
「過去は決して揺るがない。あなたの姉の死も、私の死も。そして、そのすべてを引き起こした人々の愚かしく短絡的な行いも」
サヤが言葉とは裏腹に落ち着いた声色で言った言葉に、ダリアが目線を上げる。
そこには、先程のダリアのように街で笑い合って楽しげな音楽に身を任せる住民達の姿を流し見るサヤがいた。
「……私も、昔は彼らの奏でる音色が好きだった」
彼女の表情は街の住人達とは違い、含みが感じられる寂しげな微笑である。
「侯爵令嬢としてより遠出をして奇跡の力で人々を助けられるようになってからこの街にも来て、そこでみんな私を美しい音楽で迎えてくれた。でも、罪人として晒し者となって帰ってきたときには、誰もが耳障りな怒声を浴びせてきた」
楽しげな人々に向けられるサヤの視線はひどく冷たく鋭利だ。
口元も言葉に対応して開くだけで感情の乗った動きはなく、その表情はいい加減慣れてきたと思っていたダリアの息を詰まらせる程である。
「病で喉が潰れてしまった歌手も、怪我で楽器を演奏できなくなった演奏家も、老いで耳が遠くなった作曲家も、他にもたくさんの人々の苦しみを癒やしてきた結果返ってきたのがあの悪意に満ちた罵倒の合唱。同じ人が生み出していたとは思えないほどの不愉快なノイズ」
《…………》
「結局は過去に何があろうとその多くは無視され、歪められ、大衆の幸福という名の下に淘汰されていく。だけれどもそこで起きた悲しみは確かに当人達の間に残って、結果は確かに存在し続ける。……私が、こうして人から逸脱したようにね」
《…………サヤ、お前は……》
「でもいいの!」
と、サヤはさすがに心配そうな顔を向けてきたダリアに対して途端にニッコリとした明るい顔を見せた。
先程までの憎悪は微塵も感じられない、不気味なほどに朗らかな笑顔だった。
「今はそんなことより、人を殺せるのが楽しいから! 生きてるだけで偉いと思い込んでる奴らが必死にもう取り返せないのに生に縋ろうとして果てていくのが、私には何よりも嬉しいの! いろいろあったけれど今、私は凄く幸せ!」
《…………》
訝しむようなダリアの視線に、サヤは眩しく笑いかける。
まるで意味の分からない変わり身であるが、ダリアが自分の言いたいことが分かっているのを、サヤは理解していた。それは取り憑かれていて感情が伝わりやすいというのもそうであったが、ダリアがそういう事であまり自分には隠し事めいた表情や言葉を選ばないのも知っていたからであった。
《なるほど……つまり今を楽しめ、って事でいいか?》
その証拠に、ダリアは端的にサヤの言葉をまとめて言った。
彼女のそんなところを、サヤは気に入っていた。
「ふふっ、いささか簡単にまとめすぎだけれど、まあそういうことね」
《素直に認めりゃいいものを、迂遠に言いやがって……》
「大丈夫、嘘はないから」
《そこは分かってるよ》
誰にも聞こえない会話を楽しげに続ける二人。
そうしていく中で、ダリアの足はついに目的の音楽学校へとたどり着く。
音楽学校は街のその区画どころか街全体で見ても非常に大きく、かつ広い敷地を持った建物だった。
まるでどこかの領主の邸宅が如く煉瓦の壁に囲まれており、道は石畳で舗装されている。
綺麗に整えられた学校前の道は老若男女数多くの人々が行き交い、その半分が音楽学校の門を出入りしていた。
門の先の敷地からはずっと何らかの楽器の音が外にまで響いている。
言うなれば音楽でできた宮殿であった。
そんな賑やか過ぎる音楽学校の校門の少し横で校舎を見上げながら「さて、どうしたもんかな……」とダリアが軽く顎をさすりながら思案していた、そんなときだった。
「おわっ!?」
急にダリアは背中からぶつかられ、前のめりに転んでしまったのだ。
幸いとっさに手を出せたので怪我とまでは行かなかったが、当然驚いたし学校前の石畳の道についた手のひらは背中に背負ったリュックの重みも相まって痛みを感じた。
「あっ、わりわりっ!」
一方で彼女を突き飛ばしたと思しき金髪の青年は一瞬だけ振り返って笑いながらそう言いそのまま走り去っていってしまった。
軽い言葉よりもずっと気にしていないのが伝わってくる程度についでという謝罪だった。
「ったく、ちゃんと前見ろよな……」
「ダリア」
と、サヤは悪態をつくダリアの名を呼ぶ。
鋭く強い言葉にダリアは少し驚いて振り向いた。
怪訝な顔をする彼女に、サヤは端的に言い放つ。
「計画変更。アレを呪うわ」
「……はあっ!?」
ダリアが大声を出し、すぐさま周囲の視線を気にして口を閉じる。
そしてそそくさとその場を離れ、歩きながらサヤに念話で話しかけてきた。
《いやいや待て待て、あんなの多分ただの一学生だぞ? なんでだ?》
「なんで? そんなの今のに腹が立ったからに決まってるじゃないの」
《あんな程度で……? あんなのよくいるようなバカだろ……》
呆れたように言うダリアだったが、サヤはそんなダリアにも大きく見開いた視線を向けた。
怒りが顔に満ちていた。
「そうね。よくいるような他人を平気で粗雑に扱って、気にもせずに罰も受けない人達。日常のちょっとした不幸で済まされるような出来事。でもそれはあくまで生者の理でしかない。なんでわざわざ死者の私がそれに従う必要があるのかしら?」
ダリアの張り詰めた表情から、サヤは自らの表情に遊びが感じられないものになっているのが分かった。
だけれども、取り繕う気もなかった。
ダリアはまだ分かっていないのだから、ここで改めて理解してもらうに越したことはないと思ったのだ。
「いいダリア、私は死者であり、弱々しい生者がお互いを尊重し命を守ろうとするくだらない気遣いに付き合う必要なんてカケラもないの。むしろ人々は知るべきなのよ、人の世など所詮、私達のような存在の気まぐれで成り立つ事ができているんだって」
そこでサヤはまた、自らの口角が上がっているのを自覚する。
――だってしょうがないじゃない、勘違いした人間達が思い知るのを想像するだけで楽しいんだもの。
《……つまり、いろいろ言ってるけど結局はムカついたからさっきのをオモチャにする? って事か?》
「そうね、そうとも言うわ」
少し呆れが入ったダリアにサヤは軽く微笑んでやる。
こういうところがダリアの良いところだと、サヤは再度思っていた。
《なるほどね……ってか、もしかしてオレのために怒ってくれた?》
「…………」
さらなる言葉に、サヤは一瞬驚いてしまう。
けれども、すぐさま「ふふふっ」と口元に指を当てながら笑い、そのまま楽しげな笑みでダリアを見た。
「ええ、きっとそうなのでしょうね。あなたと私の間には隠し事は通用しないし、言語化してしまえばそうなるのでしょう。だってあなたの心は私の心でもある。つまり、あなたが感じた怒りは私にも伝わる。だからこそ、私は彼を殺してやりたいって思えたんでしょうね」
やはり素直なのは良い、とサヤはなれた。
彼女に取り憑けたのは思いの外ラッキーだったのだろう、お互いの心が混ざりあった上で言葉で直接言いたい事を言えるのはとても素晴らしい事だと、そうサヤは実感していた。
少なくとも、言葉と心が裏腹なのよりはずっと心地が良い事であると。
「じゃあ、意図せずに目的は達成したのだからあとは好きにしていいわよ。これからは私の役目だから」
《りょーかい。じゃあ私は旅商人らしく商売でもしますかね。稼いどくに越したことはないからな》
サヤの言葉にダリアは軽く笑って背負っていたリュックを背負い直した。
彼女の手のひらは未ださっきの衝撃で赤くなっていたままで、それを目にしたサヤは穏やかにあげていた口端を僅かに歪めたのだった。