4.運び手
ダリアが町を出た門に戻ってきたのは、まだ太陽がてっぺんに差し掛かる前の午前中の間であった。
先程の夕闇に暮れた村の姿が白昼夢であったのではないかと思うほどの快晴である。
「おっ、戻ってきたかボウズ。随分と早いな」
彼女が門に着くと出るときに話しかけてきた気さくな方の衛兵が話しかけてくる。
「……ああ、思ったより相手にされなくてね。さっさと撤収して来たよ」
ダリアはその言葉に少しフードを深く被って答えた。
彼女はそのまま軽く俯き衛兵に視線を向ける事なく町中に入っていく。
足早に去っていく彼女を衛兵は不思議そうな顔で見る。
「なんだ? 行くときより不機嫌そうだったなあのボウズ」
「……当たり前だろう。商人が商売をできなかったなら不機嫌にもなる」
「あー、まあそりゃそ……う……がっ、はっ、かぁっ……!?」
振り返らずに言ってそのまま去ろうとしたダリアの背後から聞こえてきていた声が、突如不自然な呻き声で中断される。
驚きとっさに背後を振り返ると、そこには胸を抑え、膝をついて苦しみ始めた気さくな衛兵の姿があった。
「お、おい!? どうした!?」
「がっ……!? こひゅっ……! かぁっ……!」
とても苦しそうに荒く息をし、大きく開けた口からだらりとよだれをこぼす衛兵。
倒れた彼はブルブルと体全体を痙攣させている。
真面目な相方が非常に狼狽した様子でどうすればいいか分からず膝をついていた。
だが、それ以上にダリアの目を引くものがあった。
それは門のすぐ近くの路にあるまだ乾いていない大きな水溜りだった。
二人の衛兵を映し出すその水溜りに、そこにはいないもう一人の黒ドレスに白髪の女が二人を見下ろすように立っているのが映し出されていたのだ。
「……っ!?」
ダリアはすぐに顔の向きを前に戻して速歩きでその場から去る。
何事かと集まってきた人々の喧騒は、彼女の耳に届く事はなかった。
「あれ、は……」
門から一直線に街で取っていた安宿の部屋に戻った彼女は、困惑した顔でベッドに腰を落とし言った。
縦長に狭いその部屋にあるのはベッドと申し訳程度に部屋の隅に置かれた小さなテーブルと古い椅子だけである。
「言ったでしょう? 手伝って貰う、って」
彼女の目の前から急に声がする。
視線を下げていたダリアが顔を上げると、そこには椅子をこちらに向けて座り笑顔を向けてくる黒いドレスに白髪の女――サヤがいた。
「あ、ああ……だ、だけど、オレはまだ何も……」
「いいえ、しっかりとしたじゃない。彼とお話、したでしょ?」
「……まさか、それだけで?」
驚きを隠せないダリア。
一方でサヤは依然ニコニコとしている。
「そうよ? 今のあなたは私の呪いの“運び手”。あなたが接触した人間は“私”が伝わって、そしてその人間が誰かと接触することでまた“私”が広がる。そう、まさしく流行り病のようにね」
笑顔で言うサヤだったが、その瞳の紅には底がなくダリアの心を凍えさせる。
「まだまだ人づてに伝わる“私”の力は弱いし、あなたに頼らないといけないけれど……あなたが広めてくれれば、いずれもっともっと、呪いは強くなる。そしていずれは至るでしょう、私を陥れた、彼ら彼女らの元へと」
あくまで微笑みを湛え語るサヤ。
しかし、その奥には語り口よりも遥かに黒くおぞましい憎悪がうねっているのが、ダリアには実感を持って理解できてしまった。
本来は体感することのはいはずの、他者の魂を突き刺す痛み、心を凍らせる悪意、身を焦がす報復心。それらを自分の事のように感じてしまうのは、明らかにサヤと自らが深く繋がってしまっているからだとダリアは思った。
「……あなただけじゃ、ないわよ」
「えっ?」
ダリアがそんなことを考えながら俯いていると、サヤがそう言ってきた。
顔を上げるとあるのは変わらないサヤの微笑みだったが、そこから胸に訪れた感情は先程までの憎悪とは違った。
あるのは、一種の憐憫だった。
「あなたが私の心を読み解いたように、私もあなたの過去を読み解いた。そしてそこに潜んでいる、あなたの世界、そして人間達への悪意も」
「…………それは」
彼女の言葉でダリアはつい思い出してしまう。
生まれ育った地の陰鬱な風景、不快な潮の香りと耳障りな波音。
そしてダリアと、彼女にとって最も大事だった“双子の姉”を侮蔑した目で見てくる、大人達の顔を。
「この国の西端の街であるここ『ベルウッド』と大陸中方東側にある首都『ブレアブロ』の間、北端にある漁村『オールスピリット』。そこであなた達姉妹は迫害され、蔑まされ、耐えきれなくなって逃げ出すも助かったのはあなただけ……そのすべてが、くだらない村のしきたりのせいで」
「……クソッ、見たような口で」
サヤの憐れむ声色にダリアは眉を強い口調で言うが、そこに不思議と不快感は伴っていなかった。
魂が繋がっているからこそ、そこにあるのは本格的な哀れみの感情でしかないのは理解してしまうし、またそれがサヤが味わった悲劇を元にしているというのも分かった。
そしてなにより、彼女の心が目の前の怪物と一緒くたになって溶け合っているような感覚が、ダリアが怒りを湧き出せない一番の原因に思えた。
「ええ、だって私は見たんですもの。あなたが見たもの感じたものを、そのままね」
「……そうかよ」
サヤのその言葉だけでダリアは把握する。
自分達は今、切っても切り離せない状態になっているのだと。
「つまり、オレは“憑かれてる”ってやつなんだな」
「ふふ、そうね」
柔らかな笑顔を見せるサヤ。
ダリアは彼女のそんな様子に、つい安らぎを感じてしまった。
それが果たして本当に落ち着く表情だったからなのか、それとも先程自分が言ったように取り憑かれているせいなのかは判断をする事ができなかった。
「……んで、これからどうすんだよ。呪いを運ぶって言っても、ただ漠然に街から街へ、ってわけじゃねぇんだろ?」
「もちろんよ。人々の恐れをより強くするために、そしてなにより私の復習を果たすために、色々とやりたいことは考えているのよ。そして、最初にこの街でやりたい事もね」
サヤはそう言うと、部屋の壁に掛けられている丸時計に目をやった。
丸時計はちょうどお昼を過ぎて、午後十二時半程を示していた。
「じゃあ、今から二時間後の午後二時半から街中央にある市場に向かって欲しいの。午後三時過ぎぐらいならきっと彼女あそこにいるだろうから」
「彼女?」
問い返すダリアの言葉に、サヤはニッコリと笑みを浮かべて頷いた。
お昼も後半に差し掛かってきた午後三時。
ベルウッドの街中央部にある市場は盛大に賑わっていた。
街最大の市場が開かれているそこでは日用品から食品まで様々な物が集まっており、絶え間なく声が行き交っている。
そんな中で、野菜が並ぶ屋台を前に前かがみになって並ぶ野菜を注視する一人のメイドの姿があった。
身長は普通の女性よりも少し高めで、黒髪ショートカットである。
年齢はぱっと見で二十歳は越えているがまだ後半ではないぐらいの幼さと大人らしさの間という若々しさで、しかしどこか落ち着きのない、言い換えれば快活な雰囲気も漂っていた。
顔は童顔寄りではあり、琥珀色の瞳を輝かせながらじっと野菜を吟味していた彼女は、いきなりピンと指を眼の前のトマトに向けた。
「ではおじさん、これでお願いします!」
「おっさすがシグレちゃん! 今日もいい目利きしてんねぇ!」
店主の男に褒められたシグレというメイドはその言葉にニッコリと笑みを返す。
「いえいえ! これもお嬢様に美味しい料理を食べてもらうためですから!」
そんなやり取りをしながらもシグレは先程選んだトマトの他にもいくつかの野菜を買い物カゴに入れ、料金を払いその場を離れようとする。
そんなときだった。
「きゃっ!?」
「おっと、ごめんよ」
シグレは人混みの中から流れてきた誰かとぶつかり、思わず声を上げて買い物カゴを落としてしまう。
だがその買い物カゴはぶつかってきた本人の手によって地面に落ちる事なく握られ、返される。
カゴを手渡してきたのはくたびれたローブをまとった銀髪の少女――ダリアであった。
「悪かったね。怪我とかない?」
「はい! こちらこそ不注意でとんだご迷惑を……!」
申し訳なさそうに頭を下げるシグレにダリアは笑って手を振る。
「いいっていいって。じゃ、オレはこれで」
そう笑って言ってダリアは人混みを抜け出し、市場から少し離れた場所にある街路樹の下に向かう。そしてそこから市場を未だ歩き続けるシグレの姿を人混み越しにスッと表情を消した目で追った。
「……今のでいいのか?」
「ええ、上出来よ」
ダリアが独り言のように小声で言うと、彼女の背後――当然他の誰にも見えてはいない――にサヤが現れて答えた。
「相変わらず変わらないわねシグレは。明るく元気で、そして何より主想い……でも、そんな彼女が、彼女の主を滅ぼす事になる」
目は僅かに睨むように開き、口元は優しく微笑みを作りサヤ。
ダリアはそんなサヤの顔を軽く見ただけで、背筋がゾクリをしてしまう。
しかしサヤはそんなダリアの様子にお構いなしと言った様子でさらに愉しげな声色になり言った。
「さあシグレ、頼んだわよ。あなたの主……私にとっては義理の姉であり、最後に私を見捨てた彼女、リン・エンフィールドをその侯爵家ごと滅ぼす始まりをね。ふふっ、ふふふふふ……」