3.終わりの巡り合い
ベルウッドの街からブレスドウォーターがある山道へと繋がる街の門。
日が昇ったばかりの朝のベルウッドの街のまだ先日の豪雨の名残として黒く湿った街路、そしてその通りにいくつもある水溜りを背後に、灰色のローブをまとった旅人がそこに立っていた。
「なんだい、今からあの山を登る気かボウズ?」
門の横に立つ衛兵の一人がその旅人に言った。
旅人は衛兵よりも一回り背が小さく、衛兵はそんな旅人を見下ろし言った。
「……そうだよ。オレは行商人だからね。オレみたいのが物を売ってやらないと、ああいう村は困っちまうんだよ」
旅人は衛兵に目を合わす事なく、フードで顔を隠したまま声変わりしてないような高さの声で言う。旅人の背中には大きなリュックが背負われており、パンパンに膨れたそのリュックにはいろんな物が詰め込まれているのが見て取れた。
「んーでもなぁ……もう少し日をずらしてみたらどうだ?」
「は? 何でだよ」
旅人が僅かに衛兵の方を向いて聞く。
すると、衛兵はバツが悪そうに頬をかきながら反対側に立っていた一人の衛兵の顔を見る。
「……先日、あの村には流刑にあった罪人が運ばれてな。少し気が立っているかもしれんのだ」
今度はそのもう一人の衛兵が言った。
「君も聞いているのではないのかね? 聖女と偽っていた悪女が国中を引き回されていた話を」
「……ああ、それね」
旅人は少し投げやりな感じで返答する。
衛兵は旅人のその変化に気づかないまま言う。
「そんなやつが送られてきたばかりなのだ、村もまだ混乱の中だろう。だから、あまり今行くのはオススメしないという事をそいつは言いたいんだろう」
「……ま、そういうこったな」
最初に言った衛兵が同調するように言った。
だが、彼らの言葉に旅人は再び視線を正面に向け、「はぁ……」とため息をついた。
「そんなんで旅商人が予定をズラせるかよ。宿泊するのにだって金がかかるし辺境の村ってのはいつだって物を欲しがってんだ。そこを逃すような事はしねぇよ。じゃあ、忠告どうもおっさんたち。一応感謝は言っとくよ」
旅人はそう言うと歩き始め、振り向かないまま気だるげに片手をひらひらと振った。
二人の衛兵のうち片方は眉をひそめ、またもう片方は表情を崩さずにその背中を見送った。
「まったく、あんなボウズが汚い格好で旅商人やってるとか、まだまだ不景気だねぇ」
「俺達が知った事ではない。俺達はただ、この街を守る仕事をするだけだ」
「はいはい。ま、今は平和だしそうそう野盗なんていないだろうけどな」
二人の衛兵は小さくなっていく旅人を見ながら、そんな風に言葉を交わした。
◇◆◇◆◇
旅人はリュックのベルトを握りつつ坂道を登っていた。
坂道は最低限の整備しかされていなく、先日の雨もあって土がぬかるみ歩きづらい。また、鬱蒼とした木々の枝が伸びているせいで道には陽の光が届きにくくなっていた。
「はぁ……いつもの事とは言え商人組合の連中、こっちの足元見て誰もやりたがらないような場所の仕事回しやがって……どいつもこいつも気に入らねぇ……」
そのフードの下から見える整った顔から発せられるのは苛つきが滲み出ている言葉だった。
旅人は歩きながらも何度かリュックを背負い直すためにベルトを引き背中を動かしながら歩いていく。
「これで大して売れなかったらまためんどくせぇが、こんな山奥の村だしどうせよそ者には冷たいだろうな……あぁしんど……もう駄目そうだったらさっさと戻るかぁ……あの距離なら夕方前には帰れるだろ……」
気だるい口調で言いながら足を進めていく旅人。
旅人の歩く道にはまだついて日が浅いであろう轍が残っていた。
「……は?」
村についた旅人は、思わず呆けた声を出してしまった。
どんどんと暗くなっていく山道を抜けたかと思うと、そこに現れた村は夕焼けに染まっていたのだ。
血のように赤い夕日が雲一つない空と村に建つ家々を深い橙色に染めている。
その光景を、旅人は信じる事ができなかった。
「いやいや、どうなってんだ……? 朝に町から歩いてきて、せいぜい一時間半ってぐらいだぞ……? そんなあっという間に夕方になるって、オレはまだベッドの上にでもいるのか……?」
旅人はフードの端を持ち上げながら言った。
それにより手入れがあまりされていない銀髪の髪と灰色の瞳が露わになる。
顔立ちは中性的でまだあどけなさが見える綺麗さをしていた。
「…………」
旅人はゴクリと唾を飲み込みながらゆっくりと村の中を歩き始める。
引き返すという発想は、何故か浮かばなかった。
ゆっくりと、慎重に歩みを進める旅人。
周囲からは人の気配は感じない。それどころか、生き物の気配をまったく感じないのだ。
明らかな異常。察知する凶兆。
旅人はどんどんと息苦しくなっていくような感覚に襲われる。
まだ夏だというのに凍えるような寒さを旅人は感じた。まるで、近くに氷の塊でもあるかのような――
「はあぁああぁ……」
――耳元で、吐息が聞こえた。
旅人は足を止める。
誰も居なかったはずの村の中で、耳をくすぐるような位置から、聞こえてきた。
しかも、それはまるで雪でそっと撫でられたかのような冷たさを伴って。
――振り向いてはいけない。
旅人は直感的に思う。
そこにいる“ソレ”を見てはいけない。
本能がそう告げているのだ。
だが、それ以上に尋常ではない力に操られるように旅人はゆっくりと首を動かしてしまう。
動かしたくないのに、止めることがきない。そんな感覚に陥りながら。
そうして、旅人は見た。
真っ白な髪を垂らす、黒ドレスの女の髪の間から暗闇なのに輝いているような深紫色が見開かれているのを。
「うっ、ああああああああああああああああああああああっ!?!?」
旅人はとっさに走り出す。
背負っていたリュックを投げ捨てながら必死になって駆ける。
「はあっ! はあっ! はあっ……!」
全力で村の中を走り続ける旅人。だが、いくら走っても村から出ることができない。
それどころか、がむしゃらに走っていた最中で急に旅人は足を止めてしまった。
眼前に現れたものに、そうせざるをえなかったのだ。
「なっ……!?」
そこにあったのは旅人が捨てたリュックだった。
ここまでまっすぐ走ってきたのは間違いない。周囲に家が並ぶ中でとにかくまっすぐ走ったのだから、そんな大げさに回ってきたなんて事はないはずなのだ。
だが、現にそこに旅人のリュックは落ちている。
恐る恐る近づいて見下ろし確認してもパンパンに商品が詰まったリュックであり、間違いなく旅人の背負ってきたリュックであった。
「ふふふふふ……」
すると、視界から外れていた前方から笑い声がした。静かな、しかし旅人を嘲り笑うような、不快でおぞましい笑い声が。
旅人は地面にあるリュックから慎重に顔を上げる。
すると、今度はさっきよりも近く、鼻と鼻がこすれ合いそうな位置に女の顔があったのだ。
血の通わない顔で、歪に微笑む女の顔が。
「や、やあああああああああっ……!?」
旅人は悲鳴を上げながら思わず尻もちをついてしまう。
その勢いでフードが脱げる。肩をくすぐるぐらいの銀髪ショートで、フードから見えていた以上に綺麗な顔立ちの、しかしまだ幼さが残っている顔を恐怖に歪ませていた。
また、共に胸元でローブを留めていた金具も外れる。それにより、古びた薄着の下で幾分か膨らんだ胸の形も露わになった。
「ふふっ……随分と可愛らしい声を出すのね……最初は男の子かと思ってたけど、可愛い女の子じゃない……」
女は楽しげな、だが凍りつくような声で笑って言い、ゆっくりと旅人に手を伸ばしてきた。
「だ……誰も男だなんて、言ってない……!」
旅人は震えながらもなんとか言う。それは根源から感じる恐怖を前にしながらも振り絞った最後の虚勢でしかなかった。
だが、そのとき旅人に思いも寄らない事が起きた。
目の前の女が、顔に驚きの色を浮かべピタリと旅人の目の前まで伸ばしていた手を止めたのだ。
「……あなた……私の言葉が、分かるの? 村の人間共は、誰も分からなかったのに……」
「……え? あ、ああ……」
女の言葉に、旅人もまた驚いた顔を見せ、そして頷く。
彼女の言葉を聞くと、女は静かに手を引いてくる。
かと思いきや、今度はゆっくりと顔を近づけてくる。
旅人はまだ何がなんだか分からず、ただ息をつまらせ目を見開く事しかできなかった。
やがて、女がその頭をそっと旅人の頭にくっつけた。
すると――
「……あ、ああああああああああああああああああああっ!?!?」
突如、旅人の頭に感情が流れてきたのだ。
それは苦痛、恐怖、怒り、憎しみ、悲しみ……そんなあらゆる負の感情を混ぜ、とことん煮詰めたような粘つく濁流であった。
頭に流れ込む感情を旅人はうまく処理できず、その結果出たのが悲鳴であった。
すると、すっと女が頭を離し、旅人を立って見下ろす。旅人は女が頭を離した瞬間、地面を向いて嘔吐した。
「おっ、おええええええええええええええっ!?」
胃の中に残っていた物すべてを地面に戻す旅人。
一方で、女は笑っていた。とても嬉しそうな顔で、笑っていた。
「ふうん……へぇ……? ああ……なるほど、なるほどぉ……あなたも、憎いのね……? 人が……世界が、あらゆるものが、憎くて憎くて、たまらないのね……?」
「はぁ……はぁ……え……?」
女の言葉に、旅人は荒い息を整えながらも振り向き言う。
彼女から見える女の笑顔は、なぜだかこれまでのような不安や恐怖を感じなかった。
「自らに罪のない因果に絡め取られたせいで蔑まれ、虐げられ、理不尽に苦しみながら生きて……それでも、死ぬことを選べず、心から憎む人間達の中で、欺瞞に塗れるしかなかった……」
それはまさに、旅人がずっと心の中に隠してきた悲しみの細工。育ててきた生ける怒りの彫像であった。
だが、それを直接言葉にされても、なぜだか彼女は嫌な気持ちになれなかった。
「そんなどうしようもない生の中で、無限に膨らんでいくあなたの憎悪の波長が、私と重なった……ゆえに私達は、繋がれた……ふふ、ふふふふふ……!」
口元に手を当てながらとても可笑しそうに、おぞましく笑う女。
旅人は、そんな女の姿を見て、思わず口を開いた。
「……お前は、なんなんだ……? 一体、なんだって、言うんだ……?」
彼女の言葉に、女はまた微笑む。おぞましさに満ちる、そんな微笑み顔で。
「私の名は、サヤ……サヤ・パメラ・カグラバ。かつて聖女と担ぎ上げられ、そして奈落へと落とされた者……。ああ、いい、ちょうどいい……! ゆっくりとやっていくつもりだったけど、これは、ちょうどいい……!」
邪悪としか言えない笑みを浮かべながら言うサヤ。
だが、やはり彼女に旅人は先程までのように恐怖に怯えるのではなく、むしろ親しみすら感じていてしまっている状態になってしまっていた。
すると、サヤは静かに旅人に手を差し伸べる。
この手を掴めと彼女が言っているのが、よく分かった。
「さあ……教えて……あなたの名前を……人々から忌み嫌われた、否定された、その名前を……」
「……オレは、ダリア……ダリア・クルーニーだ」
自らの名をサヤに伝えたダリアは、彼女の手を掴んだ。
サヤはダリアの体を引き上げ、ダリアは立ち上がる。
二人は見つめ合う。サヤは厭らしい笑みで、ダリアは妙に落ち着き払った顔で。
「ありがとう、ダリア。……さあ、手伝って貰うわよ。私の呪いを、すべての人にあまねく広げるために」
こうして、終焉を告げる鐘が人知れず鳴り響いた。