23.血が染める秘跡の祭壇
「……ふむ。今回はこんなところかしらね」
夕焼けの鋭い光が照らす屋敷の部屋の中で、レイが軽く息を吐きながら言う。
軽い作業を終えたような言い振りと相変わらずの無表情。それだけでもミスマッチなのだが、彼女の片手にはその人形の体躯ゆえにそれだけでまるで剣のようになっている果物ナイフ、そしてそのナイフの先端からは血が滴り落ち、彼女が今腰を掛けているのが喉を滅多刺しにされた貴族の女性の死体、という状況で可愛らしい人形には不釣り合いは陰惨な現場であった。
「まったく、こういう直接的な手段は趣味じゃないのですけれど……まあ仕方ないですわね。味変えは大事ですし」
サヤはそう言いながら果物ナイフを背後にポイと投げ捨てる。
血のついた果物ナイフは空中をくるっと一回転半程度回転しながら放物線を描く。
そしてナイフがカーペットに軽い音を立てて落ちるころには、死体の上からレイの姿は消えていた。
「と、言うわけで帰ってきましたわ」
瞬間、彼女は少し広めの宿屋の寝室の机の上に腰掛けていた。
その眼前には、貨幣を並べペンを片手に収支計算をしていたダリアの姿。
「っ……。お前さぁ……ビックリするからそうやって急に現れるの止めろって言ってるだろ……ああもうほら書き損じた……」
ダリアの手元の手帳には黒い線がビュッと伸び途中で曲がった黒い線が描かれている。
呆れ表情を歪めて口だけでなく目線で抗議してくるダリアだったが、レイはフンと鼻で笑った。
「この程度の事で心をかき乱すあなたが未熟なのです。さんざんわたくし達と共にいるというのにいつまで経ってもそんなとは、やはり小娘は小娘ですわね」
「突然目の前に出てこられると反射でビクンってなるんだよ慣れとかじゃねえんだよせめてもうちょっと配慮しろ」
「ふむ、なるほど。そもそもあなたが直々に狙った相手と接触してサヤの呪いを拡げられていればわたくしがこうして行ったり来たりをする必要もないのですが……そこのところはどうお思いで?」
「うぐぐ……し、仕方ないだろこの街は商人組合の力が強いんだから……オレみたいなほぼほぼ奴隷とイコールで結べちまうようなのは街で動く自由すらねーんだよ……」
彼女らが今いるのはイスタン領にあるジェーワンネルという街である。
商業都市として盛んで広い面積を持つこの街はダリアが所属する商人組合と強い結びつきを持ち、首都にある組合本部に次いで強い力を持っている支部が設置されている場所でもあった。
つまり商人の街なのであるが、それは組合に所属している人間にとってはそのままヒエラルキーが適応される街でもあって、それゆえにダリアは少し広めの宿屋に半分押し込められている状態になってしまったのだ。
「ええ存じていますわ。そのせいでわたくしがあなたの代わりを務めるために貧民の多い区域で売られるという屈辱的な起点で始まったのですから。ええ、ええ、よく理解しておりますとも」
「……お前本当に嫌味だよな」
ダリアの表情はより鈍くなったがそんなものレイには関係なかった。
庶民に安値で売り渡されたという出来事の方がよっぽど彼女には強烈であったからだ。
「あらごめんあそばせ。わたくし、これでも最高級の人形でかつ上流階級の生活を目の当たりにしてきましたから。その中でもリーはとりわけわたくしを可愛がってくださいましたからね。下々の暮らしなど分からないのです」
「あーあーそうかよ、ったく。…………まあ、でもその、なんだ」
いよいよ呆れが限界に来た様子のダリアだったが、しばらく間をおいたかと思うと静かにペンを置いてレイの方に目線を合わせて来る。
そこでレイはダリアが少し真面目な話をするのだと察したので、静かに彼女の言葉を待った。
「……この前、オレの話を聞いてもお前がそのふてぶてしい態度を変えないのは、まあ、むしろありがたいとは思ってるよ。お前みたいな高慢ちきなやつに半端に優しくされたら余計ムカついただろうし」
「……ふん、急に何を言うかと思えば」
ダリアの突然の言葉に、今度はレイが軽い呆れを声色に混ぜて応えた。
「わたくしはあなたが憎む幸福に浸かった家庭で愛され、そしてそのすべてを奪われた事によってこうなった人形です。そんなわたくしがあなたに憐憫をかけると? そんなことを欠片も思っていたのなら本当に小娘ですわね。だって、わたくしから見たらあなたのような立場の人間こそ憎悪の対象なのですから」
レイは常に無表情だ。
しかし、だからといって感情が伝わらないわけではない。少なくとも目の前のダリアには自分が今どんな感情を込めて言っているのかは理解されているとレイは分かっていた。
「わたくしは浅ましい平民共に大切な家族を、姉を奪われました。そしてその怒りを、憎しみを、悪意をこの五十年あらゆる人間にぶつけてきました。それがたった一夜の語らいで気を許す程に絆される訳が無いではありませんか」
「……そうだな、当たり前だ」
ダリアの声が少し重く、小さくなる。
彼女なりに思うところがあるのだろうし、彼女自身もまたレイの境遇を理解しつつも憎しみは変わらないのだろうとその感情をレイは把握する。
「……ですが、同時にあなた個人にその憎悪をすべてぶつけるという事もありません」
「え?」
と、そこでダリアはレイの言葉に少し間抜けな声を出した。
レイは「なんですかその声は」とはっきり馬鹿にしつつも続ける。
「わたくしは既にあなたをあなた個人として認識しましたから。どこの馬の骨とも知らぬ賤民などどうでもいいですが、あなたの境遇を知り、憎悪を理解し、そしてなによりあのサヤがついている。ならば、そういった存在として認識するだけですわ」
いつもの無表情のままレイは髪を片手でかき上げて言った。
先程言った「そういった存在」というワードにはダリア本人は認識していない意味も含まれているのだが、今はそれを明言する必要もないし時期でもないとレイは考えていたので、それだけに済ませた。
対してダリアはレイのその言葉にポカンとした後、少し考えたかと思うと「……ハァ」と軽く、少しだけ笑ってため息をついてみせた。
「……なるほど、人形ってのは人間よりずっと理知的なんだな。悪かったよ偏見持ってて」
「分かればよろしいのですわ。それにそういった心的な区別はあなたもわたくしにしていたでしょう? 意識のあるなしはともかく、心というのはそういった都合のいいモノなのですから」
「そうだな。さすが五十年も悪霊やってる人形のご令嬢は違うわ。そういうとこは尊敬するよ」
「……ふん。小娘らしからぬ素直な言葉だこと。ま、だからと言ってわたくしがさんざん人の手を渡って間接的に呪いの拡散をした事の疲れが取れるわけではありませんが」
「まだそこぶり返すのかよだりぃなぁ! 今の流れで終わって良かったじゃねぇか!」
ダリアが大声を上げてレイに言った。
その声にはもう彼女からレイが何度受けたか分からない怒りと呆れは混ざっていたが、先程よりもマイルドになってもいた。
「――みんな」
と、そんなときだった。
それまで部屋にいなかったサヤが、急に現れた。
彼女の声色と声は、いつもより冷たく、楽しそうだった。
「ん? サヤ? 戻ってきたのか?」
「というか、今更ですけど出てましたのね」
「ああ。この街はほぼほぼ“域”を広げる事ができて支配下に置いたからざっと俯瞰して見てくるってお前が戻って来る少し前に」
「そうね、レイが頑張ってくれたから結構時間はかかったけれどこの街に“域”は広がった。なんならじっくり拡げてくれたおかげで、この街は他の街よりも早く“逢魔ヶ域”に堕ちるかもしれないわね」
「“逢魔ヶ域”……?」
初めて聞く単語にダリアが不思議な顔をしている。
それを見て、レイはサヤにじっと視線を向けた。
「サヤ……あなたそんな事も小娘に説明してなかったの?」
「あー、そういえばそうだったわね。ごめんねてへ」
誤魔化すようにペロっと舌先を出して笑うサヤ。
そんな彼女にレイはとても呆れていたのだが、彼女は常に無表情ゆえその感情がはっきりと表に出る事はなかった。
「小娘、あなたはサヤがあなたと共に呪いを拡めていたけれど、それはただ人々に呪いを伝染させていたわけじゃないの。わたくし達が人々を呪い、殺め、畏れをバラまくことで人の生活圏はわたくし達のような“同類”のための世界となる。そうすることでさっきわたくしが飛んできたみたいにより自由な行動が取るようになるのよ」
「あ、うん……それはまあなんとなく理解してる。前にサヤもそんな事言ってた気がするし」
「ええ、そこは分かってるでしょうね。でも、そこで止まるわけじゃないのよ。より死と恐怖が蔓延れば、そこは生者の世界でありながら“同類”の世界ともなり、二つの世界を跨ぐことになる。それが夕暮れの世――“逢魔ヶ域”なのですわ」
「夕暮れの……世……」
ダリアが言葉を反芻しながら窓の外を見た。
外には夕日が猛々しく燃え盛って街を照らしている。時間は午後四時前。季節的にはまだここまで日が傾く程ではないはずの時間帯である。
「そうか、じゃあ、あのときサヤと出会ったあの村は……」
「ええ、ご名答。あそこは、私が最初に堕とした“逢魔ヶ域”になるわね」
レイは知らないが、既にダリアはサヤの作り上げた“逢魔ヶ域”を見ていたらしく、それに気づいたダリアにサヤは優しく笑いかけている。
二人と違いあくまで呪いだけを繋ぎ魂は共有していないレイにとってこうして置いてけぼりになる事はたまにあったが、さすがにもう慣れた光景でもあった。
だがそれはそれとして「んんっ……と、申し訳ありません」と厭味ったらしく咳き込みはするレイであった。
「ああ、ごめんなさいね。そうそう、それでざっとこの街を見てみたのだけれど……ふふふふふふふっ、いたの、いたのよ……私の、大事な大事な復讐相手が……」
自らの言葉で思い出したのか、急に気色の悪い顔で口元を三日月のように釣り上げて笑い出したサヤ。
彼女のその言葉と様子に、二人はすぐに察した。
「へぇ、このジェーワンネルに? ああ、もしかして最近は商人を襲う事が多かったからそれ絡みとかか?」
「ええ、彼はそういった人の欲望が絡むところによく顔を出していたらしいから、きっとそういう事なのでしょうね。でも、こんな早く二人目に仕掛けられるなんて、ああ、私ってついてるぅ……ふふふふふふっ!」
「ふぅん、いいじゃない。あなたをあなたたらしめる根源の憎悪。その一つを果たそうというのなら、わたくしはいくらでも力を貸しましょう。わたくし達はそうした“同類”なのですから。……とは言え、既に“域”と化したこの街では余計な手助けはいらないでしょうか」
今度はレイがダリアのように外に目を向けた。
夕日の赤色が、より濃くなっていた。
今まではまだ常識的な茜色だった空が、埒外の色合いに染まる気配を見せていた。
「ふふふふ……そうね、ちゃんと彼には彼に見合った趣向をこちらも用意しているから。ああ……楽しみね、口八丁手八丁、まるで口先から生まれてきた小狡い彼は、どう足掻いてくれるのかしら……」
サヤは両手で頬を覆って、恍惚とした表情になっていた。
しかしそれはレイにとって当然の姿であり、特別な感情の動きはなかった。
あるとすれば、そう……『祝福』である。
――良かったですわね、サヤ。こうしてあなたのための“秘跡”がまた一つ進むのは“同類”として大変喜ばしい事ですわ。
彼女は心の中で静かに思う。口にするのは、そうするまでもなくお互い分かっている事だからだった。
「ああ、あああぁ……とてもとても、愉しみねぇ……カー君……私の大好きだった掛け替えのないお友達……ふふふふふふふっ……!」
かつての友人が一人、カゲトラ・タカガワの愛称をこぼしながら、サヤはひたすらに快感に満ちた咲い声を上げ続けていた。
彼女らがいる部屋は、外よりもずっと赤く染まっていた。




