2.ハッピーバースデイ 後
こうして彼女は首枷をされ、さらに粗末な手枷をつけられた状態で流刑への道を辿っていく。サムの言葉通り、これまた粗末な荷台の上に繋ぎ止められ、見世物にされながら。
それはとても過酷な道中だった。喉を焼くぐらいに強い日が照りつけようと、桶をひっくり返したような大雨の中だろうと、朝だろうと夜だろうと、ずっと彼女はその状態で運ばれていった。
食事もギリギリ死なない程度の量を一日一回乱暴に目の前に投げ置かれるだけで、手枷と首枷、そして荷台の上に足枷を繋がれている彼女はそれを必死に頭を下ろし犬のように食べるしかなかった。時折降る雨は、彼女にとっては喉を潤す恵みとなるほどだった。
結果、彼女はかつての面影が欠片も見えぬ程にボロボロな姿になった。
またその道中で、陰謀を企んだ者達の目的通り国中の人間の視線に晒された。子供は恐れ、大人は嘲笑い、老人は侮蔑する。中には彼女に石や泥玉、汚物を投げつけるものまでいた。
そんな中にいる、これまで彼女がその奇跡で救ってきた数多くの人々、かつては彼女を褒め称えていた人々。そんな者達の中で彼女を助けようとしてくれる者は誰一人いなかった。
晒し者として彼女が運ばれる道中では数多くの兵士達が幾度となく引き継ぎをし、春から夏に移るほどの長旅が行われ、その末にたどり着いた故郷でもサヤの扱いは一緒だった。
彼女を育んでくれた大人達も、共に遊んだ村の幼馴染達も、みんなこれまでの人間達と何一つ変わらない反応をした。それどころか、積極的に避けるように家の中に閉じこもってすらいる者も多かった。
だがその頃には既にサヤはそんな扱いにはもう声一つ出す事はなかった。ただ曇天の下、死んだような顔で、心の中で静かに涙を流すだけだった。
サヤの拘束は目的地であるはずのブレスドウォーターの村の中では解かれなかった。彼女はそのまま近場の砦で衛兵をやっている四人の騎士に運ばれ、村より深い山の奥に運ばれていった。
そうして彼女は山中にある、そこだけが木々もなく土が露出している古井戸の広場まで連れてこられると、突如乱暴に拘束を解かれ地面に投げ捨てられた。
すでに日は沈み、雨が降り始めていた。
「…………」
地面に乱暴に叩きつけられても彼女は声を出さない。だが、久々に拘束が解かれた事により、ゆっくりと立ち上がろうとした時だった。
ブン! と彼女の後頭部に戦鎚が振り下ろされたのだ。
「がっ……!?」
その強烈な痛みに今まで出したことのないような、しかし長らく声一つだしていなかったためにかすれて短い声で叫び地面に倒れるサヤ。
彼女は頭から大量の出血をしながら後ろを振り返った。
「あれ? まだ生きてるじゃねーか、やっぱしぶといな悪党はよぉ」
「なら殺すまでやるまでさ。それが女王様の命令なんだろ? 世間には流刑って事にするけど、ここでしっかり殺しとけって」
「あ……あ、あ……」
騎士達の言葉に、サヤのやつれ細っていた心がまた震え始めた。それが死の恐怖からのものなのは、明確だった。
「いや……いやぁ……」
サヤは逃げるために立ち上がろうとするも、ずっと自由を許されなかった足に力は入らず転ぶ。それゆえ、彼女は這ってでも逃げようと必死に泥を掻いた。
既に天候は豪雨になり、雷鳴と雷光がうるさいほどに繰り返しを始めていた。
「おっ、逃げるのかよ。いいじゃんじっくり楽しませてくれよ」
「頑張れよ、後始末は俺達でやるからさぁ」
騎士達の楽しむような言葉を背に、サヤはもがく。もがき苦しみながら進み、そして言った。
「……どうし、て」
古井戸に、あるものが投げ込まれていく。それは七つの大きな麻袋だった。麻袋はほぼほぼ枯れている古井戸の縁からして十数メートル下にある真っ黒な汚水の中に落ちていく。
落ちた衝撃で雑に縛られていた麻袋の口が軽く開く。そこにあったのは、深紫の瞳だった。切断されたサヤの頭部で僅かにだが未だ開いている左目だ。
騎士達はサヤの頭、手足を切断し、更に胴を二つに切り分け、七つの袋にして井戸に捨てたのだ。
そこまでされて生きている人間などいるはずもない――そう、そんな事はありえない。
……そのはずだったのだ。
だが、今なお彼女には、意識があった。その見開いた瞳で、ランタンを照らしながら分厚い木の蓋で古井戸を閉じようとしている騎士達の姿を見ていたのだ。
かなりの重量があるのかゆっくりと閉まっていく古井戸の丸い穴を見上げながら、彼女は思った。
――どうして、どうして私が殺されなきゃいけないの……?
まず浮かんだのは、ただ疑問であった。ありえないほどの理不尽に対する問いかけだった。
――どうして誰も助けてくれなかったの? あんなに聡明で大好きだったリクリーも、いつも真面目で格好良かったサムさんも、楽しい冗談で笑わせてくれたカー君も、物知りで頑張り屋だったイゴール君も、心から尊敬していたアリアも、私が今まで助けてきたいろんな人達も、村のみんなも、どうして……?
誰も彼もが、自分を見捨てた。今までの人生すべてが、意味のない塵屑へと化した。その絶望が、魂に染み渡っていく。
――みんな、みんな私を助けてくれなかった。みんな、私が死んだほうがいいって思ってたの……?
疑問は絶望を媒介とし、疑惑へと変わっていく。
――私が今まで信じてきてた事ってなんだったの? 私の人生って……なんだったの? お父さんもお母さんもすぐにいなくなって……でも、二人の言葉を信じて今まで頑張ってきたのに……私……私って……こんな痛くて、辛くて、悲しい思いをするために、ここまで頑張ってたの……?
生まれた疑惑はかつて眩しい程に純白で汚れ一つなかったサヤの心を染める穢れになっていく。溶媒だった絶望は憤怒へと転化し、ついには悪意へと昇華される。今どんどんと、光すらも飲み込む漆黒が急速に根を広げていく。
――ああ……苦しい、苦しいよ……それも、みんなが、みんなが私を助けてくれなかったから……。私を利用するだけ利用して、邪魔になったからって捨てたから……ああ、みんなが、私を……みんなが、みんなが……みんな……みんな、みんなみんな、みんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんな……。
そうして、彼女の心がもはや心とは呼べない何かになったそのとき、地の底から天を見上げるサヤの瞳が、飛び出さんとばかりに大きく見開かれた。
――みんな、死んでしまえ。
彼女が願った、その瞬間。
井戸を閉じかけていた厚さ二センチ程はある大きな木の蓋が爆音と共に一瞬で吹き飛んだ。
同時にその蓋で井戸を閉めようとしていた騎士、そして近くでランタンを構えていた騎士もまた派手に空へと吹き飛んだ。
「なっ、なんだっ!?」
遠くで形だけの見張りをしていた戦鎚の騎士、そしてランタンを左手に、剣を右手に持っていた騎士がその音に驚いて振り向く。
「おっ、おいっ!? 一体どうした……うっ!?」
それぞれ吹き飛んだ騎士に駆けつけた二人はそれぞれ足を止めて言葉を失う。
吹き飛ばされた騎士の体は、鎧ごとぐずぐずでぐちゃぐちゃな肉の塊に変わっていたのだ。それは、ただ吹き飛ばされただけでは、いや、人間が知る方法ではどうやってもそうはならない死に方であった。
――ひたり。
冷たい水音が、古井戸の方から、急に訪れた無音と共に一帯に響いた。その音が聞こえてきた瞬間、雨はピタリと降り止み、雷は面影すら残さず、空は雲一つなくなり欠けた月の姿を見せていた。
――ひたり、ひたり。
再び、音がする。
二人の騎士は、ゆっくりとその方向を向く。戦鎚を持っていた一人はかつて仲間だった物からまっすぐ顔を上げるように。剣とランタンのもう一人は、遠くに飛んだ元同僚を確認していたため、振り返るように。
――すると、そこには手があった。
落とされたランタンに照らされる、手があった。不自然と言える程の真っ白な手が、古井戸の縁を掴んでいた。その手の主は、徐々に井戸から姿を見せてくる。片手を静かに井戸の縁の更に外側に伸ばし、まさに這い上がる形で出てきた。長い白髪によって隠れた頭を、光をすべて吸い込むような黒で染まったドレスを纏った体を、静かに井戸の中から上げてきたのだ。
「ア……アア、アアア……」
井戸から出てきた“ソレ”から“音”がした。
きっとそれは声なのだろう。だが、彼らはそれを人の声とは思う事ができなかった。
極めて不可解な音だったが、あえて例えるのなら風向きを見るための小さな金属の風車が壊れかけた状態で回るときに聞こえる異音、とでも形容すべきだろうか。
ともかく、そんな無機質で、壊れたような、気持ち悪さを感じさせる、そんな“音”だったのだ。
「う……ああああああああああがあああああああっ!?」
静寂を切り裂いたのは剣を持った男の悲鳴だった。
戦鎚の男はその声を聞いて思わずその方向を見る。
すると、そこには地に落ちたランタンの光の端の上方、光と闇の狭間の空中でバタバタと鈍色の脛当をもがかせながらそのまま闇空に消えていく姿があったのだ。
剣の騎士が完全に闇に消えた後、ランタンの上に剣が落ち、割って灯火を消した。
「……えっ、えっ……え!?」
戦鎚の男はすぐさま月明かりで仄かに見える井戸に視線を戻す。すると、そこには先程まで這い上がっていたはずの何かがいなかったのだ。井戸から剣の騎士までは十メートル程の距離がある。だから、一瞬で移動なんてできるはずも――
「――ア……ア、ァア……アアァ……」
背中から、その音が……声が、した。
彼はそこで、振り向かずとも気づいた。
その声の主の何かが……“彼女”が、自分の背後、首の後ろで両手を広げている事に。
「ひ……あ……」
彼の顔に、指が伸びてくる。血の通っていない、ボロボロで、爪が剥がれ落ちた、そんな十本の指を。
「……ママ、助――」
◇◆◇◆◇
「…………ああぁ」
月明かりが村を照らしている。多様な死に彩られた村の広場。
そこに、彼女は立っていた。闇夜ですら明るく見える程の黒色のドレスを身にまとい、輝く程に真っ白な手足を見せ、色を感じられない無色の髪を垂れ流し、その隙間から鮮やかだが底の無い紫の瞳をのぞかせる彼女を。
“そういうもの”になった、サヤの姿を。
「あぁ……私が……私がみんなを……」
彼女はハッキリとした意思のある声で呟く。自らが一人残らず命を奪い滅ぼした村の、変わり果てた姿を眺めながら。
「私が……私が……」
彼女はぼそぼそと呟くように言う。無感情に思えるその呟き。しかし――
「――ふふっ……」
彼女は、笑った。グイと口端を吊り上げ、そっと自らの頬に両手を被せて。
「ふふっ、ふふふふふっ……ふふふふふふふふふっ。……ああ、よかったぁ……みんなを殺せて、苦しむ顔を見れて、すっごく、よかったなぁ……ふふふ、ふふふふふふふ……」
サヤが笑いながら感じている幸福は、生前感じてきたどんな幸せも些細なものに思えるほど、大きかった。
「でも、足りない……もっと、もっとぉ……」
◇◆◇◆◇
同時刻、真夜中。
ブレスドウォーターがある山の麓にある少し大きめの街ベルウッド。
そこのとある裏路地にある寂れた宿屋で、一人の粗末な灰色のローブをまとった旅人がスプーンを落としていた。
旅人の手は、ブルブルと激しく震えている。
「ん? どしたんだい?」
「……いや、なんでもない。でもなんか、急に悪寒が走って……なんだ、これ」
手を見つめながら、旅人は呟く。フードに隠れて顔半分が伺えないが、それでもその端正な顔がこわばっているのは分かった。
だが旅人は、すぐにその感じたものの正体を知る事になる。
これからの旅人の生を様変わりさせる“ソレ”と出会うことによって。