10.ポルターガイスト・アンセム
「ういっす! お疲れっした!」
ウィソングにある音楽学校の教室の一つ。
夕暮れの日差しが窓から入り込むその部屋に快活な声が響いた。
「ういーお疲れジーノ。今日も随分と長くやってたなぁ」
帰りの挨拶した金髪の青年、ジーノに同じ部屋にいた年上の男が言った。
彼はジーノの先輩であり、ジーノはそんな先輩の言葉に歯を見せて笑った。
「いやー本当ならもうちょっと練習してきたいんですけどね! まあ日銭も必要っすから!」
ジーノはそう言いながら部屋にあるピアノを見た。
彼はピアノ奏者を目指す青年だった。音楽でスターになりたいというのはウィソングに生まれ育った住人の多くが夢見る事であり、例に漏れず彼もまたその一人であった。
「つってもお前いっつも朝からこの時間までずっとやってるだろ。まあそれぐらいは必要ではるけど、にしてもこの教室じゃ一番熱心だよなぁ」
「へへへっ、あんがとございますっ! でもおだてても何も出ないっすよー! んじゃ、俺はこれで!」
「ああ。……って、廊下走るなっていっつも言ってるだろー! お前いつもそうやって――」
「――きゃーっ!? あんたいい加減前見て走れないの!?」
「わりわりーっ! んじゃっ!」
先輩の男の言葉虚しく、教室の外で悲鳴と身の入っていない謝罪の声が聞こえる。
男はそれを聞いて「はぁ……」と大きくため息をついて呆れた表情になった。
「あいつなぁ、悪い奴じゃないんだがあの大雑把さえなけりゃなぁ……」
「らっしゃいませー!」
音楽学校を出たジーノは、彼が住まいとしている集合住宅の一階部分にある酒場で元気な声を響かせながら片手に木皿に入ったスープの乗った丸トレーを乗せている。
彼はここで働く事で日々の生活費を稼いでいた。いい笑顔で料理やお酒を運ぶ彼の姿は客達もいい笑顔で見つめている。
「はいコーンスープおまち!」
「おう、サンキュージーノ!」
「えへへいやーそれほどでもー!」
常連客の威勢の良い声に同じぐらいのトーンで返すジーノ。
大声のやり取りだが酒場の活気においてそれは不自然ではなかった。
「んじゃ俺は次の注文運ぶんで!」
彼は笑顔のまま常連客に背中を見せカウンターに向かっていく。
そんなとき、ガシャンッ! と大きな音が彼の背後からした。
ジーノが驚き振り返ると、そこには先程テーブルの上に置いたスープの皿が床に落ちて中のスープを床にぶちまけていたのだ。
「あれっ!? 大丈夫っすかお客さん!?」
「あ、ああ……なんか今、皿が勝手に……」
先程まで元気だった常連客が青ざめた顔で床に落ちた皿を見つめて言う。
皿は間違いなくテーブルの真ん中らへん、常連客の手前に置いてあって置き位置に不備があったわけではない。
少なくとも長く働いているジーノがそんなミスをする事はなかった。
「ああ大丈夫です大丈夫です! すぐに掃除しますんで! にしてもホント大丈夫ですか? お酒飲みすぎたんじゃ?」
「いや、今日はまだ飲んでないはず、なんだが……」
常連客を心配して言った一言だったが、彼は未だ目をパチパチとさせて落ちた皿とスープを見つめている。
ジーノはそんな光景を不思議と思いつつも、すぐさま掃除せねばと店のカウンター裏にある雑多に物が置かれている用具室に回った。
ちょっとした部屋よりも広さのある薄明かりの用具室で、彼は迷うことなく雑巾がかかっている小さな室内用の物干し竿に向かい、そこから乾いている一枚を手にする。
そしてまた迷いなくUターンして扉に小走りで向かっていった。
彼がそうしていく間、用具室は表の喧騒からは程遠い静寂に包まれていた。
――ガシャガシャガシャンッ!
ジーノが雑巾片手に倉庫を出ようとしたときだった。突如、背後から大きな音がした。
今度は静かな倉庫だったのでさすがの彼もビクリと条件反射で体を震わせ、背後を見る。
するとそこには壁に立てかけられていたモップや箒、さらには簡素なボード棚の上に置かれていた工具が床に落ちていたのだ。
彼はその光景に思わず足を止めてしまう。
モップや箒はまだ偶然倒れただけだと言えた。だがボード棚にのっていた工具は先程のスープと同じように故意でもない限り落ちようのない位置だったし、そもそもそれらは埃を被っていた程に誰にも手をつけられていない代物だったので、関係ない場所から雑巾を手にしたジーノの動きぐらいで落ちるわけもなかったのだ。
――カチ、カチカチッ、カチッ。
用具室の明るさが暗めな魔法灯が、突然明滅した。
魔法灯自体は古いものだし、そういうこともあるだろう。だけれど今のジーノにはそれがなんだか不気味な事に思えて、思わず背筋が寒くなる感覚がした。
「……と、とにかく今は掃除掃除!」
ジーノはそんな言葉にできない不安を振り貼るようにそう言葉を出すと、乱暴に扉を開いて用具室を後にした。
◇◆◇◆◇
「んんー……えーっと……」
その日の夜。
ジーノは仕事のシフトを終え、酒場のある建物の三階にある集合住宅のワンルームの一室で机に向かい楽譜を目の前に唸っていた。
彼は今学校から渡された課題に取り組んでいた。
ジーノは元々ピアノ奏者志望であるが学校は全体的なカリキュラムとして様々な課題を出す。今彼が取り組んでいる作曲の課題もその一つだった。
課題に集中している彼は、酒場での不気味な出来事などすっかり頭から抜け落ちていた。
「あー、やっぱ俺はこういうの苦手なんだよなぁ……休憩だ休憩!」
ジーノは片手に持っていたペンを机の上に転がし、机に体重を預けて背伸びをする。
そして彼の右手側にある小さなピアノを目にした。
あくまで部屋置き用のもので鳴る音は小さめで物としても至る所に傷が多い中古品である。
でも彼にとっては自らの夢に繋がるための道具であり、愛着があった。
「……おし、こういうときは気分転換だな」
ジーノは軽く笑って机前の椅子から立ち上がり、ピアノの前に座って鍵盤を開く。
彼は音楽を心から愛し、その中でもピアノはずっと大好きで、それを奏でる奏者は憧れの存在だった。
どんなに大変なときでもピアノを奏で、音を聞くときは彼の心に安らぎを与えてくれた。
彼にはピアノを愛する天性の才能があると言えよう。
ジーノはそんなピアノの上に粗雑に置いたいくつかの楽譜から適当に手にし、慣れ親しんだ楽曲を奏でようとした……そんなときであった。
ドンドンドン! ドンドンドン! と、右手の更に奥にある木製の玄関を激しく叩く音がしたのだ。
ものすごい力で叩かれているのが分かる音だった。
「な、なんだ……?」
ジーノはピアノの前から再び立ち上がってゆっくりと玄関前へと歩いていく。
彼がそうしている間にもドンドンドン! ドンドンドン! ドンドンドン! と、扉を叩く音は途切れない。
「お、おい! 誰だ! こんな時間に!」
扉前まで来たジーノが叫ぶ。
彼の言葉の後、訪れる一瞬の静寂。
――ドドドドドンッ! ドドドドドンッ!! ドドドドドドドンッ!!!
直後、より強く響く、扉を叩く音。そして音と共に木製の玄関が揺れ、隙間から木粉が飛び散る。
鍵をかけているがそのうち扉が破られてしまうんじゃないかと思う程の激しい揺れであった。
「ひ、ひっ!? な、なんなんだよ……!?」
ジーノはそれがあまりにも恐ろしくて後ずさる。とても正気の人間がやっているとは思えなかったからだ。
慌てながら部屋に戻ると彼は急いで片付けられていない部屋の中を探し出す。
「どこだ、どこに……あった!」
彼が見つけ出したのは白い宝玉がハマった黒い板、魔法通信器である。
市井に広がっているそれは大きさは貴族が使っているものより大きいが、機能に問題はなかった。
「え、衛兵に連絡しないと……!」
扉の向こうにいる『誰か』は明らかにおかしい、そう思い彼は街の衛兵に助けを求めるために未だ叩かれる扉を背にしながら魔法通信器に指を置いて起動した。
リリリリ、リリリリ……という鈴を揺らしたような待機音が少し続いたと思うと、ブォン、と繋がった音がする。
「あっ衛兵さんですか!? すいません今外にヤバそうな奴が――」
『――やぁまぁのぉうぅみぃーーー……』
――老若男女すべての声を合わせた不協和音の合唱と言える声が流れ、それだけで魔法通信器での通信が途切れる。
埋め込まれた宝玉は光を失い、一切の反応が消える。
――ガンガンガンガンッ! ガンガンガンガンッ!
正面の窓が、激しく叩かれる音がした。背後の扉が未だドンドンドンッ! と叩かれている中で。
ジーノは目を凝らす。そこにはズボラでカーテンをかけていなかった窓が叩かれ揺れていた。
誰もいないのに、窓が音を立てて叩かれていた。
「ひっ、ひいいいいいいいいっ!?」
ジーノはそれを見て腰を抜かす。
すると、ガタガタガタガタッ! と今度は彼の右側にあったベッドが激しく震えだす。
次にバンバンバン! と背後にある扉との間のキッチンにおいてあった食器棚の扉が開いては閉じを繰り返し、中の食器がガシャガシャアン! と滑って床に落ち始める。
今度は目の前の先程まで作曲の課題に取り組んでいた机がガランガラン! と四つ足を不規則に跳ね上げて揺れ、上に置いてあった紙やペンや本が勢いよく空に飛んで落ちる。
「なっ、なんだよっ!? なんなんだよおっ!?」
怯え震えた声で叫ぶジーノ。
彼の部屋は騒音による狂想曲の会場となっていた。彼はその中で立ち上がれないまま腰が抜けた状態で手を後方についてガクガクと震えるのみだ。
――タン……ターン…………。
突然、静寂と共に二つの綺麗な音が響く。
それは間違いなくピアノの音だった。
GとAの鍵盤を、ただ押し込んだだけの音。
ジーノは、彼の愛したピアノの方を見る。
そこには、黒いドレスに長い白髮の女が椅子に座り、彼のピアノの鍵盤を人差し指で押している姿があった。
女が、ゆっくりとジーノの方に顔を向ける。アアアアア……と、壊れた金属の風車を回したような異音と共に。
さっきまで震えていたはずなのに今度は一ミリも体を動かせなかったジーノは、そこで白髪の間から覗く、底のない深紫の光を目にして――
「――あっ、ひああああああああああああああああああああああああああああああっ!?!?」
彼の体は、まるで外に吸い込まれるかのごとく、窓の外に飛び出していった。
「おい! 人が落ちてきたぞ!? 誰か衛兵を呼べっ!」
集合住宅前、酒場の目の前の道で人々が大声で騒ぎ、悲鳴を上げる。
その人だかりの中心にあったのは、頭から真っ赤な血を広げるジーノの体。
混乱のノイズが響く道中で、彼の口から壊れたオルゴールのように繰り返される言葉を耳にした者は、ほとんどいなかった。
「やまのうみ、やまのうみ、やまのうみ、やまのうみ、やまのうみ、やまのうみ、やまのうみ……」