「二十三」
「大倉さん、体調どうですか」
朝の鮮やかな明るさを纏って、パステルカラーの笑顔で、彼女は部屋に入ってきた。
「あ……んまり、良くないかも、です」
情けない表情で苦笑した。腕はどうにも動かないし、頭は常に鈍く痛む。気管支系ではないから苦しくはないが、つらいことには変わりない。
どこが痛いですか、と尋ねられ、一つ一つ説明する。ここ三日でその習慣がつき、又説明は日に日に長くなっていく。
瞼を閉じる日が近い。
「あの……」
遠慮がちな声に、俯けていた顔をあげる。
「外、行きませんか?勿論無理にとは言いませんけど、もし良かったら……ええと、今日の午後。病院の敷地じゃなくて、すぐ近所に綺麗な公園があるんですよ」
あんまり知られてなくて、穴場なんですよ!そう言って笑う。
その言葉の裏にあるものを知っている僕は、思わずにっこりと笑った。頷く。
良いんですか?と尋ねる彼女のことを、先程別の看護師から聞いた。
『午後、何処に出掛けるの?』
――出掛ける?
『違うの?』
『氷見原さんが、今日の午後の有休使うって……何かと思ったら貴方の外出許可とってたから、そうなのかと思ったんだけど』
――……ああ。出掛けます。
――何処とかはまだ決めてないんですけど。
そうなのぉ、と間延びしたいらえを返した中年の看護師は、あまり良い顔をしていなかったように思う。それが、余命幾日で恋愛紛いのことをして看護師を振り回す男に対する軽蔑なのか、死を目前に控えた患者に入れ込む若い看護師に対する懸念なのかはわからなかった。
あまり良いことではないことは分かっている。多分、目の前の彼女よりも。
それでも、
そうまで準備して、こんな風に尋ねてくる彼女が、ひどく愛おしいと思った。それが嬉しかった。だから、断ろうかと考える前に肯定した。
だから、きっと。
あの中年女性の看護師は、僕を軽蔑したのだ。
「多分、これが最後ですね」
彼女を見上げた。車椅子を押している彼女は私服に着替えていた。その装いは、『節度』だとかそんな言葉がタグに書かれていそうだと思った。
彼女は黙っている。
「貴女のおかげで、私は随分たのしかった」
ここ数年、或いは人生において、こんなに穏やかで、こんなにたのしい一ヶ月はなかったように思う。
「貴女のおかげです」
公園には梅が咲いていた。まだ桜は蕾も着けていない。僕にはいまいちどれが桜かよく分からなかった。
「有休使ってまで私に付き合ってくださって」
「え」
間の抜けたような声がして、車椅子に触れていた手が離れた。すぐ、目の前に回ってきてしゃがみ込んだ。僕の手をとる。
「なんで知ってるんですか」
「さぁ……どうしてでしょう」
「大倉さん!」
はぐらかすと、焦れたように僕の手を上下に振る。そんなことすら、何かたのしくて愛しい。
はぁとわざとめかしくため息をつき、彼女は僕の目を覗き見た。僕も見返す。少し灰色がかった瞳が、彼女の真っ黒なそれに映っている。
「今日確かに、私は有休をとってこの時間をつくりました。だから、私は今『看護師』ではありません」
だから、だから。逸る気持ちを抑えるように、僕を見つめた。
「言わせてください」
「わたしは、貴方に同情や義理でこんなことしてるわけではありません。私は、」
ぴたり、声が止まる。
僕は、それを確かめてから、そっと耳から手の平を放した。
「聞きたくないですか……?」
急に耳を塞いだりしたのだから怒っても良さそうだが、泣きそうな、捨てられた子犬のような顔をするものだから、つい、不謹慎にも笑ってしまった。彼女の顔に、困惑が滲む。
「あ、すみません……あんまり、裏切られた!って顔しているから」
「あの……」
怒るべきか悲しむべきか判断がつきません、とでも言いたげな表情をする。表情に出やすい人なのだ、と思った。そして、そんなこと今更かと苦笑する。
「聞きたいです」
「!…じゃあ、何故ですか」
「……とても聞きたいですよ。私も、言いたいことがある。――でも」
何か言いかけた唇を塞ぐように、強く逆接した。彼女の声は喉で止まった。
「私はもう、逝きますから」
今此処で何を交わしたところで、それは貴女を傷付けることしかしないのだろう。
僕は元々、積極的に何かを求め歩くような人生を歩みはしなかったが、何も求めずにいられるかと言えばそうではなかった。寧ろその数が少ない分、欲しいものは譲らなかったし、やりたいことはやめなかった。そういう意味では、時々ひどくわがままだったのだ。
成長すればその数は更に減り、自ずからそれへの執着は深く激しくなった。
そのうち僕は、それをひた隠しにして忘れたふりをしてやり過ごすことを覚えた。そうしなければ生きていけないと気付いてしまった、から。
そんな風にして僕の中で、消し損なって燻る種火が幾つも積もっていった。それらに押し覆われて、いつしか何事にも深い執着を見出せなくなった。
そこに、彼女は、あっさり入って種火を消し去った。
やり過ごさずに欲しいものを欲しいと言ってみたら、酷いくらいの幸せをくれた。
だから、もう、十分です。
我が儘に求めるのではなく、穏やかに手を伸ばすことを教えてくれた貴女を、これ以上、苦しめたくはありません。
――そう願うのは僕のエゴだと、僕は知っている。
エゴで構わない。
許してほしい。
「逝くだなんていわないで……」
すう、と溢れ出した水が、音もなく決壊して頬に足跡を残した。
とても綺麗な水。
思わず、手を伸ばした。
やっぱり、綺麗なのは貴女の方だ。
彼女は僕を見たまま、
静かに泣いていた。
それはとても綺麗だったけれど、あまりにとめどなく流れるそれを見て、どうにか止めなくてはと思う。
「あ、」
ふと、思い出す。思い付く。こんなことで良いのか分からないけれど。
「あの、では」
瞬く。そこで漸く、アイシャドウが少し滲んだ。
手を軽く握る。
「一つ、約束をしてくださいませんか」
「やく、そく」
こくりと頷いた。何度か瞬いて、彼女は僕の手を擦り抜けポケットからティッシュを取り出す。それをそっと何度か目に押し当て、涙を止めた。
「僕が死んだら、この公園で白い花を二十三本摘んできてほしい」
彼女は再び、数度ゆっくりと瞬いた。
僕は照れ隠しにぎこちなく笑った。彼女は笑わず、真摯な表情で、「二十三……」と呟いた。
「あ、ええと……私の名前に、二三って入っているでしょう。だから」
茫っとした彼女に、意味もなく手をぱたぱたと振って言い訳した。直後、別にそう言い訳じみた言い方をするようなことではないと思い当たる。
「あの……?」
はっ、と擬態語を入れたくなるくらい、びくりとする。
「あ、や、………はい!」
歯切れ悪く……と思えば、次の瞬間大きく返事をした。一瞬なんのことかわからなくなる。その意味を僕が了解したと同時に、言い足りなかったのか付け加えた。
「絶対に。」
そんなにも真剣に受け止められると、こちらが焦る。それでも忘れてくれと言わなかったのは、本気だったし、真剣だったから。
僕が。
だから、
「約束します」
と再び声を出した彼女に、つい顔が熱くなった。それの『意味』を考えて。
そんな僕を不審に思ってだろう、猫か鳥のようにきょとんとした顔で僕の顔を覗き込む。慌てて下を向いた。
「あ、あの」
「はい?」
ちらりと盗み見た――正確には目が合ったので「盗」めなかったのだが――ときの彼女の顔が、妙に大人びて見えた。そういえば自分はまだ二十歳にもなっていなかったと自覚する。
「私が言っていた、宮澤賢二の詩ですけれど」
どうにかいつも通りの声を出そうとして、随分と低い声が出た。
「読みましたか」
「ああ、探そうと思ってて、まだなんですよ」
「ッ……なら、」
少々困窮気味に……いや、恥じ入るようにはにかむのを見て、気持ち、体が前に出る。車椅子に座ったままで、身体が上手く言うことをきかなかったから、彼女は気付かなかったろう。
「読まないでくださいね」
「え?」
「僕が死んでも読まないでください。絶対。約束してください」
「え、ええ?」
「良いですね?」
「あ、え?はい……あ、いや」
まごまご言って困惑する彼女を尻目に、僕は約束は交わされたとばかりに頷いた。
「風が冷たくなってきましたので、戻りませんか?」
飽くまでもにこやかに言えば、まだ困惑した顔付きのまま頷いて車椅子を押しはじめた。
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最期の時がきた。
終わりを告げる鐘は厳かで、何処か慎ましい。何か好ましい音色だった。
すべきことはした。――否、したいことはした、と言うべきだろう。
眠りにつくには、夕方の朱い陽射しが眩しく部屋を彩っていた。が、それは常に無機質で無表情な白い病室に、表情をつけていた。まるで宝石の壁。異世界への入口。
それとも、もう此処が異世界なのだろうか?
耳障りな警告音ががなりだした。
足音がする。
ああ、
貴女の顔が見える。
悲しくない。
貴女のおかげで。
僕は意識を手放した。
まだ続きますよ!(汗
次で終わりです。