「かわいそう」
連載ですがあまり長くありません。全四篇の予定です。
死にたいと初めて思ったのはいつだろう。
死にたくないと初めて本気で願ったのはいつだろう。
もう忘れた。
不治の病だと。
僕が知っているのはそれくらいで、あとは理解出来ない説明を右から左へ流しただけだった。内臓のどれがどういう働きをして、その内のどの働きがどう変調して、どうカラダに作用するのか――細かく説明されたけれど、君が分かるまで何度でも説明してあげるからと微笑まれたけれど、果たして僕は理解することはなかった。
どうでも良かったのだ。
どうせ金もない。やることもない。折角東京の大学に受かって晴れて一人暮らしを始めたのに、やりたいことの為の努力を惜しんだせいで、ただただバイトして生き延びていただけだった。いつしか、どうしてそれをやりたかったのか忘れてしまった。
ある朝鳩尾あたりが痛かった。かつかつだったから三日放置したが、四日目に流石に病院へ行った。そうしたらあれよあれよといううちに入院して「三ヶ月以内に死にます」と言われた。
――二ヶ月前のことだ。
「大倉さん、体調はどうですか?検温に来ました」
「まぁ……普通です」
あと一ヶ月以内に死ぬ。分かってる。が、色々と体にガタが来ている感は否めないけれど、さて死にそうかと言われれば別段そうでもない。明日が卒業式と言われても実感が沸かないのと少し似ているな、と思った。そこで、休学届を出したあの大学の卒業式には出られないんだなと思った。
両親は随分前に離婚し、僕を引き取った父は二年前に他界した。二年越しなら「追い掛けるように」と言っても良さそうだが、追い掛けたところで会えはしないだろう年数だ。追い掛けるわけじゃあないけれど、なんだか言われ損な気もする。
母は今どうしているのか、知らない。僕が死んだ後に、その事実だけは伝えてほしいと思う。
「大倉さん、外は暖かいですよ。気分転換に出られたらどうです?」
車椅子お持ちしましょうか、と微笑まれた。それを丁重に断った。『氷見原』と書かれたプラスチックのプレートが光る。
面会には、誰も来ない。それを気遣ってくれた彼女の優しさが、不快だった。
大学ではサークルに入って、すぐにバイトが忙しくなって辞めた。それから何をして過ごしていたか、忘れてしまった。何かをして過ごしていたか、忘れてしまった。
とにかく、東京に来てから友人と呼べる友人を作っていなかった。作ろうともせずして勝手に出来るほど、機会にも人格にも恵まれていなかった。それを不幸とは思わないけれど。
地元には、状況を言えば来てくれそうな友人はいる。が、伝えなかった。迷惑、と、思ったのだろうか。
「あの」
看護師に小さく声をかけた。
彼女は気付かなかったらしく、部屋を出て行ってしまった。
「あんた、かわいそうだなァ」
隣にいる、中年男性だった。
僕は病状が悪化し、死の危険が高まるまでは他人と病室を分け合っていた。
「私ですか」
自身に指を向けて尋ねる。
「そう、あんただよ」
男性の目がちらりと動いた。その先を確認すると、なんてことはない、枕もとの『大倉景二三』と書かれたプレートがあった。
「名前、なんて読むんだ」
「カゲフミ、です」
「そうか」
僕は彼の名前を確認しなかったし、尋ねなかった。
「あんた、かわいそうだよ」
理由を訊いてほしいのかな、と思う。この人も話し相手がいないのだろうか。
「何故、私がかわいそうなのですか」
「そりゃあ」
皺が固く刻まれて、茶色く焼けた顔の男性は、得意げに言った。
「あんたァ、見てりゃ一人も面会が来ないじゃないか。」
「そうですね」
男性は僕より先に入院していた。僕が入院してからは、男性を見舞いに人が来たことはなかった。
僕がそう思ったのに気付いたのか、それとも元より自分がそう思ったのか。男性は僕を責めるような口調で続けた。
「俺は良いよ、死ぬ死なないの病気じゃねぇしな。でもあんたは……あんた、死ぬんだろ」
「ええ、そういうことみたいですね」
「死ぬってのにな、誰も会いに来ないなんてなァ、あんた寂しい人生歩んできたな」
俺はさ、誰も会いに来ねぇことを言ってんじゃねぇんだよ。そんなあんたの人生考えて、かわいそうだって言ったんだ。
そうまくし立てたが、自分でも八つ当たりの言い訳じみていると気付いたのか、それからはむっつりと黙り込んだままでいた。
随分あとに、ふと視線を投げてきたと思うと、
「あんた、やっぱりかわいそうだよ」
と力無く呟いて白いカーテンをシャッと閉めた。
貴方もかわいそうですね、と言うべきだったのかも知れないと思った。
「大倉さん?」
看護師に呼びかけられ、目を覚ました。
「ああはい、ああ、夕飯ですか。」
「ええ……」
そう言ってトレイを差し出した時、ちらりと白いカーテンを見た。
そして、意を決したような目で僕を見た。
「大倉さんは、可哀相なんかじゃないですよ」
何故、この人が悲しそうな顔をするのか理解出来なかった。
「面会がないから寂しい人生だったなんてことありませんから」
どうやら昼の会話――というか隣の男性の話を聞いて、彼女にリークした人がいるらしい。
カーテンが揺れた気がした。
翌日の昼、看護師はまた僕を外へ誘った。僕は誘いに乗った。
「ほら、暖かいでしょう?」
にっこりと笑う。それを見て僕は、彼女は看護師になって良かったと思った。
嘘くさい青空に、白い太陽が染め抜かれていた。見つめると眩しかった。
「眩しいですね」
「え?…あ、太陽ですか?」
「ええ。あんなに遠くにあるのに、あんなに眩しい。とても見つめていられない」
「そうですねぇ」
何が可笑しいのか、楽しそうにくすりと笑ってから「でも」と言った。
「太陽のお陰で、こうして暖かいんですよ。太陽がなければ、私たちはこんな風に外を出歩くことすらままなりませんから」
「………」
「まぁ、夏なんかはあっつくて私も文句ばかり言っているんですけどね」
にこにこと、まるで作ったところなど見当たらない笑顔は、僕を安心させる。
だから――少しだけ『開いた』のかもしれなかった。
「……そういう人、いますよね」
「夏はみんな文句言ってますよー」
「あ、いえ」
やはり口を噤もうとした僕に、「え、どんな人ですか?」とまるで気負いなく尋ねる。その空気のような軽さにひっぱられて、つい僕も約28.9gくらいの軽い気持ちで口を開いた。
「とても見つめていられなくて、すごく必要とされていて、存在感がある故に時々表面上、理不尽に欝陶しがられたりして、でも結局は誰からも忘れられたことのないような」
太陽みたいな、
「そんな人。」
看護師は黙っていた。
冷たい風が吹いた。
「……風は好きです。」
何にも執着せず固執せず、見えなくて触れない。照っていようが曇っていようが好きな温度で歩き回る、それ。
「次に生まれるなら、風が良いなぁ」
「……」
彼女は看護師になって、死を臨む患者を相手するのは初めてなのだと最初の方に言っていた。こんなことを話しては、黙って当たり前なのかもしれない。
「あの」
「あ、はいっ」
「"うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる"」
「え」
「知りませんか?宮沢賢二です」
「セロ弾きのゴーシュとかの?」
「ええ」
宮沢賢二が、妹が若くして亡くなった時に作った詩だ。
「好きなんですか?」
「え」
「宮沢賢二。」
まぁそこそこです、なんて笑った。彼女のようには笑えなかったろうな、なんて思った。
「………死ぬなら、太陽と一緒が良いな」
ひゅっ、と彼女が息を呑んだ音がした。
「そうしたら、誰か私が死んだと気付いてくれるかもしれない」
彼女は、やはり黙っていた。