月の山脈は闇の奥にある(シリーズ探検の歴史)
イスラム世界の説話集『千夜一夜物語』(別名アラビアン・ナイト、原題のアラビア語名は「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」)やインドの性愛の聖典『カーマ・スートラ』の翻訳で知られるイギリス人リチャード・フランシス・バートンは十九世紀を代表する偉大な冒険家でもあった。実態はともあれモラルの面において非常に喧しいヴィクトリア朝のイギリスで東洋の性技について詳細に解説した『カーマ・スートラ』を出版するのだから一筋縄ではいかない冒険家なのは言うまでもないが彼は、ただそれだけの人間ではない。十数か国語を自由自在に操れる語学の天才だった彼は異教徒でありながらイスラム教の聖地メッカを訪問したり、オスマン帝国の士官となってクリミア戦争に従軍した(ただし母国イギリスと戦ったのか否かは不明)。変わり者だが行動力にあふれた自由人であったと言って良さそうだ。
一八五七年、この知的なフィールドワーカーは古くから謎とされていたナイル川の源流を探し求める旅に出た。友人の冒険家ジョン・ハニング・スピークと共に東アフリカを探検しタンガニーカ湖へ到達する。バートンはタンガニーカ湖をナイル川の水源だと考えた。
運悪く病気になったバートンを置いてスピークは探検を継続しウケレウェ湖に到達する。彼はウケレウェ湖にヴィクトリア湖という当時のイギリス女王の名前を付けた。そして、ここがナイル川の源流であると考えたのである。
両者の意見は対立し、仲たがいしてしまう。現在ではヴィクトリア湖がナイル川の水源と考えられているので、バートンが間違っているわけだが、当時はどちらが正解か分からない。そこでバートンは病を押して水源探しの旅を単独で行った。彼が目指したのは古代ローマの時代からナイル川の源流として伝わる月の山脈だった。タンガニーカ湖へ注ぎ込む川が月の山脈から流れ出ていると予想したのだ。
月の山脈は何処にあるのか? その正確な場所は判明していない。バートンは、現在のコンゴとコンゴ民主共和国の国境に位置するルウェンゾリ山地へ到達し、ここがナイルの水源地帯であると考えた……が、それは間違っていた。いつのまにか彼はルウェンゾリ山地の東側から西側へ移動していたのだ。アフリカ大陸を東西に分ける分水嶺を越えたのである。そして彼は西側へ向かって山地を流れ落ちる川を見つけた。ここで彼は、アフリカ中部を西に流れるコンゴ川の源流部を発見した、と推測されている。
欧米人にとってコンゴ川の源流はナイル川の源流と同じく謎だった。バートンは、その謎を解明したのだが、探検の目的だったナイル川の水源は見つからずじまいだった。コンゴ川の水源を発見した、といっても西へ向かって流れ落ちる川を見つけた、というだけで、実際にはコンゴ川だと断定はできない。その証明のためには西へ向かって流れる川の流れを追いかけ、川が大西洋へ流れ出ていることを確認する必要があった……が、その体力は超人の彼にも流石に残っていなかった。泣く泣く出発地点であるアフリカ東部に戻る。そしてタンガニーカ湖がナイル川の水源であるという主張を繰り返すのだった。
ナイル川の水源探しは十九世紀の冒険家たちにとって魅力的なテーマだったようで、多くの探検家が「暗黒大陸」アフリカの奥地へ向かい、その何割かは生還しなかった。彼らにとってコンゴ川の流域調査も魅惑的だったようで、多くの者が薄暗いジャングルの奥へ旅立ち、これまた帰ってこなかった。それでも彼らの知見が集積することでアフリカの未知の部分が次第に埋まっていく。その知識は欧米人の欲望を刺激した。豊かな資源を求め欧米各国はアフリカの植民地化に乗り出す。欧米列強によるアフリカ分割である。帝国主義列強によるアフリカ分割が完成した十九世紀末から二十世紀初頭はアフリカ人にとって歴史の分水嶺だったと言っていい。アフリカを支配した各国の収奪は苛烈を極めた。その様子はポーランド出身でありながらイギリスで活躍した作家ジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』に描かれている。栄光に満ちた探検の結果は闇を作り出すだけに終わったのだ。
コンラッドが『闇の奥』の舞台に取り上げた一帯は今、果てしない戦争と新たなる疫病の発生地帯と化している。探検の時代である十九世紀を源流とする混沌が二十一世紀の今も続いているのだ。コンゴ川とナイル川の分水嶺つまり、かつて月の山脈と呼ばれた山塊は今も、闇の奥にある。