転生したラスボスの息子、魔物を殴ると『命の残高』が増えるので、迫害されて死ぬ前に地下牢と繋がったダンジョンで一億稼ぐ
ハッピーエンドです。よろしくお願いします。
1. 転生
「今日からお前を管理することにした」
女を泣かせてそうな三十代くらいのイケメンが見下すような目で冷たくそう言い放ったが、俺はまだ状況を飲み込めていない。アホみたいに全身痛いし、なぜか床に寝転がっているし、鼻からはだらだらと血が流れている。
そもそもここはどこだ?
ずいぶん豪華な場所だった。壁一面が本棚で、床には柔らかな絨毯が敷かれている。使われていない暖炉は体重200キロのサンタクロースが通れるくらいには大きい。
ドレスコードを遵守するようにイケメンが着ている服は見るからに高そうで、左手には金の指輪がはめ込まれている。指輪からしたたってる血は俺のものか。メリケンサックかよ。イケメンはそれに気づくと酷く顔をしかめて執事が手渡したハンカチで拭い、メイドに生活魔法をかけさせて清潔を保つ。
魔法。
魔法ね。
どうやら俺は転生したらしい。
そう気づいたのはこの瞬間だった。
イケメンことリンデン・ガストレルは伯爵で俺の父。その隣に怯えたように立っている男の子が俺の弟アクセル十歳。シルバーの短髪に青い瞳。かわいらしい顔で店先に置いといたら買い物に来たお姉様方が頭撫でていきそうな感じだ。
生活魔法をかけてもらった後も伯爵はしばらく両手と服に血がついていないのを確認する。時間かけすぎだろ。どうもこの男、潔癖の気があるらしい。伯爵はふんっと鼻から息を吐き出すと爪の間をのぞき見るようにしながら言った。
「アクセル。長子相続という言葉について説明しろ」
「……はいお父様。僕たち貴族は爵位と財産を第一子に相続することが法律で定められています。僕らの家の場合、伯爵位は兄様が相続する決まりです」
「そうだ。家庭教師の授業をよく聞いているな。そしてその決まりは簡単には揺らがない。たとえ、相続する第一子がどれだけ落ちぶれていても、な」
伯爵はようやく顔を上げ俺に視線を向けた。我が子に向ける視線じゃねえな。早朝の道ばたに広がる吐瀉物を見るような目だ。
「だから、お前を管理することにした。『呻け』」
イケメンが言った瞬間、バチンと頭の中が弾ける。雷に打たれたように鋭い痛みが背筋を走り、無意識に呻き声が漏れた。なんだこれ。わけわからん。俺は咳き込み口の中に鉄の味が充満する。
「お前を奴隷契約で縛った。逃げ出せば殺す。メイドたちが逃がしてくれるなどと夢にも思わないことだな。これからは地下牢で生活するといい。『呻け』」
身体が海老反りになる。筋肉が言うことを聞かず、骨がミシミシと音を立てる。十二歳の息子に奴隷契約をかけるとか頭おかしいんじゃねえかコイツ。一体俺が何をしたっていうんだ。あふれ出す血液で気管が塞がれないように意識的に呼吸をしながら伯爵を睨んだが、伯爵は全く怯まない。
「恨むなら自分の無能さを恨め。私の怒りが解るか? 屈辱に耐えて裸になり、吐き気をこらえながら汚らわしい排泄器を擦り合わせ、毎日毎日子供はまだかと小言を言われ、ようやく生まれたお前がスライム一匹殺せない能なしだと言われた絶望が解るか!? もう一度あの汚らわしい行為を強制された屈辱が解るか!?」
どうしてそれを俺にぶつけるかな。強制したのはお前の親と貴族社会だろ。そっちにキレろよ。もうそこら辺から、この伯爵が自分より立場の強い奴に逆らえず、弱い奴にしか怒りをぶつけられないクズ野郎というのがありありと見えてきた。
それにどうも母親が死んだのはコイツのせいらしい。俺みたいな「能なし」を産んだことを散々責めて責めて責め続けて嫌がらせを繰り返した結果、心労で体調を崩したからだ。虐められる側にいた俺の記憶がそう言っている。
俺が転生したこの少年ハル・ガストレルの記憶が。
ハルはいままで母親に守られていたが、数ヶ月前にその母も亡くなり、結果現在、こうして奴隷契約を結ばされる羽目になっている。多分、この瞬間、ハルの心は死に、転生した俺が目を覚ましたんだろう。
胸くそわりいな。
伯爵のこと、ぶっ飛ばしてやるよ。
ハルのためにも、そして、母親のためにも。というか多分、この奴隷契約を破棄して伯爵をぶっ飛ばさないと俺が死んじまう。伯爵は自分の恨みを晴らすために俺を地下牢に閉じ込めて、虐めるだけ虐めて殺すつもりだろうからな。完全に同情だけって訳でもない。
「『呻け』『呻け』『呻け』」
全身の筋肉が収縮して、骨が悲鳴を上げ、ヒビが入る。見たことない量の血が口からあふれ出す。アクセルが怯えたように顔を歪ませ伯爵を止めようとした。
「お父様やめて! やめてえ! 兄様が死んじゃうよお!」
「そうだな。初日で死んでは困る。私の怒りが収まるまで生きていてもらわなければな」
ぜってえぶっ飛ばす。
俺は意識を失った。
2. 命の残高は0円になったら死ぬようです。
状況を確認しよう。
俺が転生したのはどうもゲーム『ニードレスブレイド』の世界らしい。そう気づくまでに時間はかからなかった。と言うのも、あのイケメンの顔をどこで見たのか思い出したからな。
「あいつ、このゲームのラスボスだ」
辺境のこの地を守る伯爵であるあの男は、『潔癖』という二つ名で呼ばれていた。まあ確かに潔癖症っぽかったけど、この二つ名にはもう一つの意味がある。
誰もアイツに触れない。
伯爵は天才的な魔法使いで、攻撃魔法は周囲一帯を一瞬で焼け野原にし、防御力九十万を超える魔法の盾はもはや要塞。ゲームじゃ仲間を鍛えるだけじゃなく、数々の弱体化工作を経てそれでも死にゲーというヤバい相手だった。一体何人がコイツのせいでコントローラーを破壊したかその数は知れない。
で、その隣にいて、俺をかばおうとした弟アクセルもこれまた悪役として出てきて、強さのためなら何でも犠牲にするようなヤバい奴だったはずだ。そんなふうには見えなかったけどな。どちらかと言えば臆病で、何より、ハルの記憶によればアクセルは心優しいかわいらしい男の子だったはずだ。
「何があったんだ?」
まあ、あの父親じゃあ性格が歪むのは時間の問題か。その前に伯爵をぶっ飛ばしてやりたいのはやまやまだが、アイツはラスボスで、そのうえ奴隷契約なんぞ結ばれてるから、きっとすぐにアイツを殴るなんてできない。主人に歯向かったら、契約魔法が発動して全身ズタズタになるみたいだからな。
はあ。
と言うかよく考えれば、何で俺が奴隷墜ちした少年なんかに転生せにゃいかんのじゃ。俺は毎日毎日あくせく働いて貯金残高が増えていくのを見るのとゲームと映画が趣味な二十五歳の一般サラリーマンだぞ。前科などなかっただろうが。
「奴隷になるなら綺麗なお姉さんの奴隷になりたかった!」
太ももがムチムチだとなお良い。毎日その太ももをマッサージするのが俺の仕事で、お礼に膝枕をしてもらうのだ。おいたをしたらその太ももで顔をぐいぐいと締め付けてもらうのだ。
ぐへへ。
そんな妄想で逃避してみたものの、現実は爆速で俺を追いかけてきて力強い抱擁をお見舞いしてくる。やめてくれ肋骨にヒビが入ってるんだから。
地下牢である。簡易的な木製ベッドには膝枕どころかただの枕すらなく、かろうじて寝わらが敷かれているものの、ヒビの入った肋骨には優しくない。
その上、ぼんやりと光るランプのおかげでどうにか見渡せる地下牢内にはネズミのお友達しかいない。ミスター・ジングルスと名付けて葉巻箱で飼おうかと一瞬思ったけれど、スキャバーズぐらいでかくて悲鳴を上げた。もし近づいてきたらぶっ飛ばしてやる。
「まあ、蹴ったところで俺が与えられるダメージなんて0なんだけど」
俺は『潔癖』の言うとおり「スライム一匹殺せない能なし」だからな。攻撃しても全くダメージが入らないとかいう、どう考えても呪いとしか思えない性質があるようだった。ダメージ測定機は無情にも0を表示するし、俺に殴られても痛くもかゆくもないらしい。これは武器を持ってもそうで、包丁で切ってもダメージ0。皮の一枚も切り裂けない。
「こんなのでどうやって伯爵をぶっ飛ばせばいいんだ?」
この先一方的に殴られるか、ネズミに食われて死ぬ運命しか見えてこない。と言うか実際ゲームじゃハルは死んだだろこれ。ストーリーに出てこないもん。こんなに怪我をしてたんじゃ多く見積もってもあと数日で死んじまうんじゃないか?
そう思ったところで俺はあることに気づく。
「あれ? 身体の痛みがない」
腕の痣が消えている。恋敵と同じくらい邪魔だったはずの目の上のこぶはなくなってぱっちり開くようになったし、恋患いよりわずかに辛かった胸の痛みもなくなってすっきりさっぱり。どうも体中の怪我という怪我が完全に回復したらしい。
「なんでだ?」
一瞬太ももの女神が俺に癒やしを与えてくれたのかと思ったけれど、その答えは突然、ぽんっと音を立てて目の前に出現した。なんだこれ。透明なガラス板のような四角いそれは宙に浮かび、メイリオに近いフォントで情報を表示する。
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命の残高を10000円消費して回復しました。
残高:30000円
残高が0円になった時点で死亡するのでご注意ください。
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「は?」
我が目を疑った。表示をじっと眺めてようやく理解。預金残高じゃなくて俺の命の価値が30000円。安くね? このゲームをプレイするためのハードより安いじゃねえか。その上、残高が0円になった時点で生きる価値がないから死ねってことらしい。
「怪我をしたら容赦なく減って……0円になったら死ぬ」
ってことは、俺の残高はそのままHPって理解をすればいいのか。転生前は「預金残高こそ命」が口癖だったけど、どうも転生した結果、マジで残高が命になったらしいふざけんな。
「何で俺だけゲームシステム変わってデスゲームになってんだよ!」
そう文句も言っていられない。伯爵は俺を目の敵にしているから今後もことあるごとに俺を殴る。地下牢には木刀が落ちていて多分これは「ネズミ相手に練習して無能じゃないことを示せ」ってことだろうから、今後は木刀でも殴られる。と考えると、一度の暴行で一万円は減るとみていい。
「あと三回ボコられたら俺は死ぬのか!」
伯爵はあとでぶっ飛ばす。それは決定事項だが、まずはなんとかして逃げなければあっという間に死んでその目標も潰える。奴隷契約がネックになってくるけど、母親と仲の良かったメイドに調べてもらえば契約破棄する方法も見つかるはずだ。
と言うことで、俺は俺でここから脱獄する方法を考えよう。この小さい身体なら鉄格子の間から出られるかとも思ったが、頭蓋骨はこの間を通れないし、握って揺さぶってみたもののびくともしない。ならば壁か、と思って、石造りの壁をペタペタ触っていると、
「ん? ぐらつくなここ」
もしかしたら以前捕まっていた囚人がトンネルを掘ってくれていたのかもしれない。そんな淡い期待を持って、はめ込まれている岩をぐいぐいと引っ張った。顔を真っ赤にしながら、大声を出して全体重をかける。こんなに叫びをあげる脱獄なんか一瞬でバレてしまいそうなものだけれど、幸い看守なんていないので、ハンマー投げ選手くらい叫ぶ。
「おらああ!」
ガコン! と、大きめの岩は外れ、全体重を乗せていた俺もカエルみたいな声を出して一緒に転がる。酷くよどんでいた空気が流れていくのが解る。空気が明らかに違う。じめっとしていた地下牢と違って、微かに新鮮な匂いがする。
「外に繋がってる!」
やはり誰かがここを掘ったんだろう。数十年前だか数百年前だか知らないが、掘ってくれた囚人、ありがとう。きっとリタ・ヘイワースのポスターを貼っていたに違いない。
俺はその穴に頭を突っ込んで、なんとか肩を通し、全身を穴の向こう側へと追いやった。細い穴が続いていて、身体を引きずるようにして前進する。向こうに見える光に向かって、ぐいぐいと身体を進め、産道を通る赤子の気分になったところでようやく這い出すことに成功した。
「やった! 外に出たぞ! ……あれ?」
そこは洞窟だった。壁に何やら光を放つ苔が生えていて、あたりが微かに照らされている。とは言え、外は外だ。きっと進んでいけば地上に出られるはず。そう思った俺は初めて月面着陸した男のように小さな一歩を踏み出した。
……なんか踏んだ。
見るとぷるぷると震える一匹の魔物がいる。
「スライムじゃん。……あれ、もしかしてここって……」
ダンジョン?
3. ダンジョンって地下牢って意味らしいですよ
伯爵家の地下牢はダンジョンに繋がっていた。地下牢ダンジョンだ。とは言え、ダンジョンは元々地下牢という意味なので、これは同じことを二回繰り返している。チゲ鍋とかサルサソースとかゴビ砂漠と同じだ。
「ともかく地下牢ダンジョンだ」
と、ダンジョンから逃げ帰り地下牢に戻って呼吸を荒くして言う。いや、マジで怖かった。あの後、洞窟の奥の方から魔物が殺される断末魔みたいな鳴き声が聞こえてきたかと思うと、ダダダダっと明らかに人間じゃない足音が迫ってきて、俺は慌ててスライムを蹴り上げて穴に戻り、この地下牢へと逃げてきた。
「こっわ。死ぬかと思った。と言うか何でこんなところにダンジョンが?」
気づかないとか伯爵アホだろと思ったけど、いや、アイツは気づいてるはずだ。天才魔法使いが気づかないはずがない。単純に潔癖すぎて地下牢に入りたくなくて放置してるんだなきっと。あいつならいつでも対処できるし。運良く俺がこの穴に気づいて逃げ出したら、ダンジョンの魔物が厄介払いしてくれて万々歳って計画だろ。
畜生、逃げる道だと思ったのによ。
ここにいても死ぬし、ダンジョンに潜っても死ぬ。
状況は絶望的だ。
太もも成分を補給したい。
このゲーム、ヒロインたちも悪役も太ももが麗しいんだよな。転生前は全ての太ももシーンをスクショするためにストーリーを何周もして情報覚えまくったぜ。せっかくそんな世界に来たんだから太ももたちを拝むまでは死んでも死にきれない。と言うか、触れられるのなら触れてから死にたい。
「太ももタッチコンプリートしてから死んでやる」
いや、ちゃんと伯爵もぶっ飛ばすよ? 心配するなハル。母親とお前の恨みはきっちり晴らしてやる。アクセルのことも気になるっちゃ気になるからな。太ももタッチコンプリートは全部終わった後の話だ。こういうこと考えなきゃ心が鬱々としちまう。
八方塞がり気味だからな。
ちゃんと考えろ俺。
さて、太ももタッチコンプリートのためにはここからとっとと逃げ出す必要があるが、問題は俺のダメージが0ってことだよな。なんだよダメージ0って。
「そのくせ、俺はがっつりダメージ喰らうからなあ。防御力とか上げればくらわなくてすむのか?」
残高が表示されたときに一緒にステータスが表示されるのは確認していたので改めて見てみる。
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レベル :1
攻撃力 :200
防御力 :400
魔法攻撃力:100
魔法防御力:100
敏捷 :300
状態 :奴隷契約Lv.3(所有者 リンデン・ガストレル)
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どうして攻撃力があるのにダメージが0なのかは不明である。全く以て意味がわからん。このままじゃダンジョンから逃げるにしても伯爵ぶん殴って逃げるにしても倒すという行為が全くできない。
いや、倒さなくてもいいのか。敏捷を上げてゴキブリみたいに逃げまくればいい。どうやって上げるのかは知らないけど。反復横跳びでもすればいいのか?
「逃げられるようになるまでどれだけ時間がかかるんだ? はあ……残高がもう少しあれば……」
俺は溜息をついて、ふと残高を見た。
残高:30200円
「………………あれ!? 200円増えてる!? いつの間に? っていうか残高って増やせるのか!?」
いつ増えたのか全く解らない。時間経過で増えるのかと思ったが待てど暮らせどそこから残高が増える気配はない。と言うことは俺が何かやったから増えたんだろうが、なんだ、何をやった俺。
残高の正式名称は命の残高らしいから宗教的に考えれば善行をやれば増えそうなものだけれど、この短い間俺はずっと一人だったので誰に対してもなんの善行もやっていない。というか、奴隷かつ地下牢に監禁されている俺はどちらかと言えば善行を受ける側の立場な気がする。
「誰か助けてくれ」
誰も助けてくれないことは重々承知しているので、とにかく俺は考える。伯爵に殴られてこの地下牢に放り込まれ、回復し残高三万円になったあとにやったことと言えば、ダンジョンに繋がる穴を見つけてそこに入り、数秒いて、戻ってきたことくらい。
「ってことは、ダンジョンに入れば残高回復するのか」
そう思って、もう一度、ダンジョンに繋がる穴を開くと、
スライムが詰まっていた。
4. 残高は増やせる!
「ぎゃああああ!」
きっと俺が蹴り飛ばした腹いせに追いかけてきたんだろう。なんとも律儀に恨みを晴らしてくれる奴だぜ。元々細い穴にこれでもかと言うほどみっちりと詰まっているもんだから俺の力では到底押し返せない。と言うか多分、スライムもどうしていいか解らなくなってる。そのくらい詰まってる。入ったらどうなるかわかるだろ、考えろバカスライム。
「邪魔だ馬鹿野郎。どけ!」
蹴る。蹴る。
ぼよよんぼよよん。
もちろん俺の攻撃ではダメージは0なのでぷるぷるとスライムは揺れるだけで一向に戻る気配がない。というかむしろ、俺が地下牢側の岩をどけてしまったせいでスライムは活路を見いだして地下牢側に這い出てこようとしている。
「勘弁してくれええええええ!」
蹴りを入れて押し戻そうとするけれど、不定形のスライムにそんな努力が通用するはずがなく、ずるりと地下牢に入ってきてしまった。ダンジョンに帰れよ。ここは俺の部屋だぞ。さらに、あろうことか、領土侵犯したスライムは俺という先住民に向かって攻撃を仕掛けてきた。
ぼよんと跳ねて俺の腕に貼り付くと、じゅわじゅわと皮膚を溶かし始める。
「痛ってええええええ! やめろ! 俺の残高が!」
HPではなく残高と言い続けているあたり俺も相当だけれど、まあ同じ意味なので深くは考えない。スライムをなんとか剥がしてぶっ飛ばすと、残高を表示させて、眉間にシワを寄せる。
残高:33000円→32800円→32600円、ストップ。
「え?」
30200円だったはずなのにいつの間にかまた増えてる。直後に溶かされて減り始めたのでわかりにくいけど。ダンジョンに入ってないのに何でだ?
そう考えている間にもスライムの追撃は止まない。ビヨンとはねて飛んできたので今度は貼り付かれる前に蹴飛ばした。瞬間、表示したままになっていた残高の数値が変わる。
残高:32800円
「俺が攻撃すると残高が増えるのか!」
思えば最初にダンジョンに入ったときも、俺はスライムを踏んづけたあと蹴飛ばして無自覚に攻撃してたんだな。だから200円増えてたんだ。はー理解理解。そんで、その200円って多分、攻撃力と同じ値だろ。
そう考えて、伯爵が置いたであろう木刀を手に取り、スライムを殴りつけた。
残高:33800円
木刀分攻撃力がプラスされて1000円増えてる。
「ダメージ0だから攻撃力意味ないと思ってたけど、攻撃力分が残高に入ってたのか」
俺はスライムを見下ろす。ただの領土侵犯の邪魔者がだんだん金に見えてきた。
「いまから俺はお前を殴る。殴って殴って俺の残高にしてやるぜ!」
と、宣言した瞬間、スライムがブルブルと震えだして、俺の寝わらを食い始める。安眠妨害は止めてください。最初から安眠じゃないけど。親の敵かというくらいむしゃむしゃと食って、あっという間に透明な身体の中で消化されていくのが見えた。
それでも足りなかったのか、スライムはいままで見たことないスピードで俺に近づいてくると腕にへばりついてぐんぐんと皮膚を食い始めた。
「ぎゃああああ! 離れろ!」
ぶんぶんと振ってようやく剥がす。俺の腕、血まみれ。残高が消費されてあっという間に回復したけれどその表示からどれだけの怪我だったかが如実に解る。
残高:22800円
「一万円分も食いやがって! 寿司屋か!」
俺はスライムを睨みつけたが、その瞬間、ブルブル震えていたコイツは突然ぐんっと大きくなった。明らかに一回り身体がでかくなっているし、その上、さっきよりも動きが俊敏になっている。
「レベルアップ!? もしかして、俺が殴ったからってこと!?」
喰らうダメージ0で経験値うまうましてんじゃねえよ。お前にしか得がねえじゃねえか。俺がテイムしてるんだったらそれで育ててやるのによ!
「俺にテイマーのジョブスキルがあれば!!」
そう叫んだ瞬間、ぽんっと目の前にステータスが表示される。
『ジョブスキル【テイマー】取得に必要なスキルツリーを解放しますか? 必要金額:100000円』
……なんだこれ?
5. VS スライム
ジョブスキルってのはゲームにおいてキャラクターが生まれながらに身につけているもので、職業を決定する重要な役割を持っている。裏を返せば、魔法使いは生まれながらの魔法使いであり、僧侶は生まれながらの僧侶という世知辛ーい設定があるわけだが、なんか知らんが俺はそのジョブスキルを買えてしまうらしい。
すまんね。
そんな風に、「魔法使いになりたかったのに!」と駄々をこねるであろう全ての同年代に謝罪をしつつ、俺は転がっていた木刀を構えてスライムに相対する。
いや、俺は俺で大変なんだぜ。
奴隷だし。
スライムが領域侵犯してるし。
この木刀だってあの伯爵によって面白半分に地下牢に置かれたものだろうし。そのうち「剣術の練習相手になれ」と言われてこっちはダメージ0なのにぱんぱか叩かれる未来が容易に想像できる。
死んじまうよマジで。
まあ、命の危機はいまの方がでかいけど。
「何ででかくなるかね!」
と、ダブルミーニング的に叫んだところで自体は改善しない。ジョブスキル【テイマー】を買えると言っても金がない。残高は現在22800円。必要な金額は、えっと、逃げながら計算できない、ああ、77200円。といってもスキルをとった瞬間に死んでしまっては意味がないので結局のところそれより多く稼ぐ必要がある。八万円くらいで見積もっておこう。
「ってことは八十回ぶん殴れば良いってことか」
すでに俺の呼吸は荒い。このスライム、もう一回穴に詰まってくれたらどんなに楽だろう、と思いつつ、いや、こんなにでかくなったらもう戻らないだろうなと嘆息しつつ、ぴょんぴょん逃げながらつついて攻撃する昼下がり。
地下だから昼かどうかもわからんけど。
しばらくそうやってツンツンしていたけれど、どうもこのスライム、レベルアップしてでかくなった結果、腹いせに唾を吐きかけるという技を習得したらしい、むかつく。しかもそれに当たると皮膚が溶けるというおまけ付きで、俺はせっかく稼いだ金をその回復に費やすという悪循環に陥っていた。
「ふざけんな!」
せっかく溜めた金を一瞬で溶かされたFX初心者みたいに地面に転がっていやいやをしたい衝動に駆られたけれど、そんなことをしたらスライムに食われてさらに残高が減るのでやめた。
ともあれ、残高は現在34800円。遅々として進まず。相変わらずスライムは泥酔したおっさんくらいの速度で追いかけてきて、アルパカくらい唾を吐いてくる。超迷惑。
「こうなったら先に敏捷と攻撃力を上げるしかない」
ようやく気づいた俺は、ステータスの次のページ、ジョブスキルに関わるスキルツリーを開いた。
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【操力】:未解放
【速力】:未解放
【感力】:未解放
【筋力】:未解放
【体力】:未解放
【知力】:未解放
【抗力】:未解放
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ジョブスキル【テイマー】はここから所定のスキルを選択して解放すると手に入るらしい。うまいことやればゲームですら登場しなかったジョブスキルを解放できるんだろうけれど、それを試す金はないし、きっと時間もない。さっき表示されたような初心者ハッピーセットみたいな感じで全部の職業が表示されてくれると良いんだけど。
「ま、欲張りすぎか」
とりあえずまずは攻撃力を上げたい。となると脳筋コースまっしぐらの【筋力】あたりを解放すると良さそうだ。ポチッと押すと、
『【筋力】を解放しますか? 必要金額:10000円』
「解放」
残高:24800円
しゅんっと残高が減って悲しくなるけれど、スキルツリーはしっかりと【筋力】が解放されてLv1の表示。とは言え、いきなりマッチョになったりはしない。筋肉をなめるな。
「さて攻撃力どれだけ上がったかな?」
と、スライムを叩いてみる。
残高:26800円
2000円増えたってことは、さっきまでの倍! 最初の十倍! まだ二万あるからこのまま【筋力】をLv3まであげれば一気に攻撃力が上がるんじゃないか、と思ったけれど、どうも金ではレベルは上がらないらしい。そこら辺はゲームと同じでちまちま戦闘を繰り返すしかない。人生甘くねえな。
「あとは、【速力】を解放して」
残高:14800円
スライムは解ける液体を吐き出す瞬間に一度溜めを作ることが近年の研究で明らかになったのでそれを見てから避ければ簡単。ふはは。一度も当たらないぜ。そのうえ、斬撃の速度が上がったからか攻撃力まで上がって、増える金は3000円。
「よし! この調子で十万円を目指す!」
6. ジョブスキル【テイマー】
叩く、逃げる、叩く、逃げる、溜めを作ったら一拍おいて避ける。もはやリズムゲームの様相を呈してきたが、着実に金は貯まっている。
残高:96400円
「あと少し……あと少しだ……」
全身汗だくになりながら呟く。すでに足はふらつき、筋肉は悲鳴を上げて、木刀がダンベルみたいに重く感じる。筋肉を癒やすためか、はたまた限界を突破しているからか、少し前から一秒ごとに残高が10円ずつ減っている。
命を削っている。
十二歳の体力を完全に見誤っていた。もしかすると、【筋力】や【速力】に対して身体がまだ追いついていないのかもしれない。明らかにスタミナの消費量がさっきより増えている。そもそもスキルを解放する前にすでにかなりの運動量をこなしている。もっと早く気づくべきだった畜生。
何度も何度も【体力】を解放したい欲求に駆られたが我慢して、スライムの攻撃を避け、一撃を食らわす。
残高:99350円
「あと少し!」
俺が叫んだ瞬間、スライムが震えだした。これはさっきも見たことがある。このタイミングでレベルアップかよ。格段に俊敏になり、さらに身体が大きくなるはず。解ける液体以外の攻撃手段だって手に入れてしまう。
その前に、けりをつける。
ほとんど呻くようにして、木刀を振り、震えて暴れるスライムの身体にヒットさせる。
残高:102350円
「よし! ジョブスキル【テイマー】解放!」
『ジョブスキル【テイマー】取得に必要なスキルツリーを解放します』
パタパタとスキルツリーが自動で解放されていく。
【操力】:Lv1
└《獣術》:Lv1
【知力】Lv1
└《契約魔法》:Lv1
└《呪術》Lv1
└《魔物契約》Lv1
残高:2330円
『ジョブスキル【テイマー】を解放しました。対象の魔物に照準を定め、テイムと唱えてください』
俺はスライムの方へと手をかざし、狙いを定めるようにして叫んだ。
「テイム!」
残高:1330円
「嘘だろ! 残高消費すんのかよ!!」
その上、
『テイムに失敗しました』
無情に、無機質に、表示は事実を突きつける。
スライムはついに俺の木製ベッドをまるごと飲み込み、それだけじゃ足りないのだろう、俺に向かって突撃してきた。
ヤバい。残高はすでに残り少ない。突撃を避けるにはあまりにもスライムはでかくなりすぎている。飛び越えれば避けられるだろうがすでに俺の足にその脚力はない。
「……やるしかない」
俺は木刀を思い切りスライムに投げつけた。回転してそのままぶつかり、ぼよんと跳ねてスライムの向こう側に落ちる。それでも、残高はかろうじて回復する。
残高:3320円
「テイム!」
『テイムに失敗しました』
残高:2310円
スライムの冷たい身体が近づいてくる。
「テイム!」
『テイムに失敗しました』
残高:1310円
ぐわっとその体が縦に伸びて俺の身長を超える。
「テイム!」
瞬間、スライムの身体がびたっと止まる。
『テイムに成功しました』
残高:300円
俺はその場にへたり込んだ。あぶねえ。縦に伸びたスライムは未だブルブルと震えていて何か食うものを探してるみたいだった。
「ダンジョンに探しに行ってくれ。ああ、その前に俺の残高増やさないと」
一秒ごとに10円ずつ減っているのは変わらない。俺は這うようにして、スライムの脇を通り、木刀を拾うとスライムを叩いた。
残高:250円
「え? なんで増えない?」
叩く。叩く。
残高:240円→230円
あざ笑うかのように、ポンッと表示が現れる。
『テイムした魔物への攻撃は残高に反映されません』
「う……嘘だろ?」
ポロリと木刀を落として、俺はその場に倒れた。ダメだ。限界だ。テイムが完了した瞬間に緊張の糸は完全に切れて、操り人形が倒れるみたいに俺の身体には力が入らなくなる。とうの昔に限界を超えている。
残高は減り続ける。
残高:200円→190円→180円
止まれ止まれと念じ続ける。このまま眠ってしまえば止まるかもしれないがその前に残高が尽きてしまいそうだった。
残高:170円→160円→150円
ようやくスライムをテイムできたと思ったらこんな終わりかよ。
眠い。瞼が重い。
残高:140円→130円→3120円
「え?」
突然残高が増えて、閉じかけていた目を開く。なんだ? 何が起きた? すでに首を動かすのも難しいくらい体力は消耗していて、目だけであたりを見回したが解らない。
俺は何もしていない。
そう、俺は。
『うまうまうまうまうまうまうまうまうまうまうまうまうまうまうまうま。おなかぺこぺこ』
頭の中で念話みたいなのが聞こえる。牢の中で食うものがなくなったスライムはどうやらダンジョンに戻って魔物を食い始めたらしい。つまり、どうやらテイムしたスライムの攻撃力まで、俺の残高に反映されるらしかった。
7. 命名ジェリコ
スライムの名前はジェリコにすることに決めた。ゼリー娘からジェリコ。1.21ジゴワットの電気を流した電子レンジで未来から飛ばされてやってきたという設定。コイツの色、緑じゃなくて青だけど。てか女かどうかもわかんないんだけどね。女っ気があった方が良いという微かな願いをこめて。
テイムしたらジェリコのステータスが見られるようになってた。
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名前:ジェリコ
種族名:スライム
レベル:20
HP :5000
MP :6000
攻撃力 :3000
防御力 :5000
魔法攻撃力:3000
魔法防御力:10000
敏捷 :1000
状態 :従魔契約Lv.1(所有者 ハル・ガストレル)
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そうだよな、普通はHPとMP表示されるよな。もっと早く気づいていればテイムの時に無駄に残高を減らして死にかけずにすんだものを。そんな風に溜息を吐きつつ俺は残高を眺めた。
残高:32000円
ジェリコはあのあと食って食って食いまくり、もう地下牢に入るには身体を分割しなければ無理ってくらいにでかくなっていた。レベルアップしたのは俺のせいだけれどそれにしたってでかくなりすぎだよな。
『ますたー、うでたべたい』
「こっわ! 人の味覚えてんじゃねえよ! 食うな!」
こいつはアホなので脈絡なく突拍子もないことを言う。と言うかテイムって普通、魔物に餌をやったりして警戒を解かないとできないはずなのに、コイツは戦闘中に普通にテイムできてたからな。戦ってる間に何で戦ってるのか解んなくなってたんだな。アホだな。
そうは言いつつも俺にとって初めての攻撃手段であるジェリコは地下牢脱出に大いに役立ってくれるだろう。もっと言えば、奴隷契約破棄にはなくてはならない存在なのだ。
説明しよう。
奴隷は直接主人を攻撃できないが、テイムした魔物で主人を攻撃できる。そして、攻撃が成功した場合に限り、奴隷契約が破棄されるという裏技がある。これはゲーム知識で『潔癖』と同じくらいヤバい上級魔法使いから逃げ出したテイマーキャラが語った方法だった。
つまり、ジェリコ、お前が伯爵をぶっ飛ばし、太ももタッチコンプリートするための道しるべなのだ。期待してるぞ。アホだけど。
『ふとももってなに? おいしい?』
「ある意味」
お前にとっては人の味だろうからな。絶対食わせないけどな。俺のだ。
とは言え、ジェリコを使った契約破棄は最終手段にすぎない。まずはメイドに方法を調べてもらっているところだけど、どうも伯爵の目が厳しくて時間がかかるらしい。その間、俺は毎日、ジェリコのレベル上げと、ダンジョンから逃げるために必要な残高稼ぎをかねてダンジョンに潜り戦闘を繰り返していた。
え? その間地下牢が無人でダンジョンにいるのが伯爵たちにバレなかったのかって?
実を言えばその心配はなかった。どうもマジで俺は放っておかれているらしい。日に一度伯爵派閥のメイドが顔をしかめながらやってきて、食事と生活魔法での清掃、俺の身体にも生活魔法をかけて清潔にして病気の予防、最後に寝わらの補充をやって帰っていく。その時間だけ地下牢にいればあとはダンジョンに潜っていても問題ない。
ジェリコのレベルアップは単純。ジェリコを殴ればいい。俺の残高は増えないがジェリコの経験値だけは増えるようで、ダメージ0でレベルアップが可能だった。「経験値うまうま」である。ある程度レベルアップしたら、今度はジェリコが周りを監視して、俺は木刀を握りしめてザコスライム相手に残高を増やす。
それが最近のルーティン。
そのザコスライムもテイムすれば放置で残高増えるじゃんと思われるかもしれないが、俺のテイム枠はまだ一つしかなく、ジェリコが我が物顔で陣取っている。それに、もし枠があったとしても、テイムした魔物の怪我は俺の残高で回復するから、むやみやたらにテイムしていたら俺が死ぬ。スライムはアホで、攻撃が基本突撃だからな。かなりの頻度で死にかけて、ジェリコの稼ぎは毎日5000円くらいにしかならない。
そんな感じで二週間。
残高:932000円
当分死ぬことはないぜ、はっはっは。と笑ってはみたものの、俺のレベルは一向に上がらない。どころか、スキルツリーのレベルも上がらない。かろうじて《獣術》だけレベルが上がっているけれど、新しくとった《剣術》は木刀を毎日振っているのにびくともしない。
【操力】Lv1
├《剣術》Lv1
└《獣術》Lv2
どうなってんだこれ。
そう思っていると、ポンッと表示が現れる。
『戦闘スキルを残高でレベルアップすることはできません』
裏を返せばそれ以外のスキルはレベルアップできるってことか。いやそれにしたって、使いまくってるのにレベルアップしないのはおかしいよな。
「スキルに対する俺の認識が間違ってんのか?」
思えば《剣術》スキルを解放する前から俺は剣を普通に振れた。きっと交通整備の人形だって振れるだろう。ってことはこの《剣術》ってのは「剣の振り方」とか「足の運び方」とかそういう技術的なスキルじゃないのか。
「じゃあなんなんだ?」
ダンジョンへの道に蓋をして、地下牢で首を傾げる。それに他にもいくつか金で解放できないスキルがあって困っている。特に魔法系のスキルはほとんどダメ。でもハルって《聖魔法》使えたはずなんだよな。《火属性》も《水属性》も魔法系のスキルはかなり解放されてたはずだ。ダメージ0だったけど。ハルの記憶がそう言ってる。じゃあどうして使えないんだ?
唸ってみたが解らない。
でも、まあこのくらい残高が貯まればレベルを上げなくてもダンジョンから逃げ出せるだろう。攻撃を受けても大抵は一万円あれば回復できる。この地下牢はそんなに深くないから、ダンジョンの階層で考えても第二階層くらいだろう。
いける。
あとは奴隷契約を破棄する手立てをメイドが調べてくれるのを待つだけだ。
とか思っていると、その日の夜、ガタンと音がして誰かが降りてくるのが解った。その日すでにメイドは来ていたので俺は目を覚まして首を傾げ、寝わらから身体を起こした。
やってきたのは確かにメイドだったけれど俺たちの世話係をしていたメイドだった。何か契約破棄についてわかったのかと思って身体を起こすと、彼女は誰かを一緒に連れている。
それはアクセルだった。
8. アクセルと決意
アクセルは俺の姿を見るとパタパタとやってきて鉄格子をがっしりと掴み、その間から手を伸ばしてきた。
「お兄ちゃん。お兄ちゃん」
「おうおう、なんだ」
どうもアクセルは父の前じゃなければ俺のことを「お兄ちゃん」と呼ぶらしい。まあハルの記憶からそれは解っていたけどね。可愛いよな。むかし弟が欲しかった俺にはより可愛く見える。俺が寝わらから立ち上がり前までくると、アクセルは俺の手を取ってぎゅっと握りしめた。ふわりと光が漂ってすぐに消える。《聖魔法》か。アクセルもハルと同じように使えてたもんな。
「身体痛くない? 大丈夫?」
「ああ、ピンピンしてる」
「自分で《聖魔法》使って治したんだ……。お兄ちゃん得意だったもんね」
「まあそんなとこだ。と言うかアクセルこそこんなところにきて大丈夫なのか?」
「大丈夫……じゃないけど、でも……」
アクセルは顔を伏せて俺の手をさらに強く握りしめた。俺はそのとき初めて人の唇がそんなに大きく震えるんだと知った。アクセルは唇を噛みしめてその震えを飲み込んで、何事もなかったかのようにパッと顔を上げて笑う。
「お兄ちゃんに会いたかったから」
「……ありがとな」
アクセルの頭を撫でながら、ハルを思う。すげえ愛されてるな。アクセルのためにも人生諦めんじゃねえよ、ハル。髪をくしゃくしゃと撫でているとアクセルの額にある傷跡がチラリと見えて、俺は顔をしかめた。
「……アクセルこそ、アイツに酷いことされてないか」
「されてない。されてないよ」
アクセルはにっと微笑む。俺はちらとメイドを見た。彼女の顔はそれが嘘だとはっきり証言していて微かに目をそらし下唇を噛んでいる。不甲斐なさと無力感がそこから溢れて俺に感染する。
畜生。
まずはここから逃げ出して、もっともっと強くなってから伯爵をぶっ飛ばそうと思っていた。あいつはラスボスだ。辺境を守る『潔癖』だ。魔法も剣もアイツに触れる前に叩き落とされて、こちらは土と血にまみれてボロボロなのに、アイツは服にホコリ一つつかない。生活魔法を常に展開して、その状態からさらに防御魔法と攻撃魔法を自在に操り剣まで振るう天才。ゲームの主人公でさえ長い旅を経て力をつけようやく倒せる相手だから、この俺がすぐにぶっ飛ばせるはずなんてない。
でも、そんな考えじゃだめなんだ。
俺は俺のことしか考えてなかった。と言うよりアクセルは「大事な息子」だから伯爵は手を出さないだろうという楽観があった。アイツの頭はマジでどうかしてる。もし俺が逃げ出したら平気で俺を殺すだろう。手引きしたメイドだってただじゃ済まない。そして、その怒りは確実にアクセルに向く。怒りを込めてアクセルを最強に育てようとするだろう。『潔癖』を継ぐにふさわしい存在にしようとするだろう。
「お兄ちゃん? やっぱり痛いの?」
「大丈夫だ。俺は大丈夫」
「僕が……僕が絶対助けてあげるからそれまで待ってて。お願い。それまでこれ、お守りにして」
「……なんだこれ、香水?」
「うん。母様が使ってた香水。いっつもぎゅってされるとこの匂いがしてたでしょ? お兄ちゃんにあげるね。お兄ちゃんは僕よりずっと辛いから」
「アクセル……」
「大丈夫。僕は大丈夫だから」
アクセルは俺の手をぎゅっと握りしめて耐えていたけれど、一滴、ぽろりと頬を伝ってから、ボロボロと泣き出してしまった。
「ご、ごめんね。ごめんね、お兄ちゃん。僕、泣かないって決めてたのに……。お兄ちゃんの方が辛いのに……。父様がね、母様のもの全部燃やしちゃったんだ。母様が大切してた本も、ハンカチも、服も全部全部燃やしちゃったんだ。母様の匂いが残ってるのはそれしか残ってないんだ。だから、お兄ちゃんにあげるね」
「アイツ……! これはアクセルが持ってろ。これしか残ってないなら……」
「ダメ。ダメだよ。お兄ちゃんが持ってて。これを持ってるとね辛くなくなるんだよ。苦しくなくなるんだよ。母様のこと思い出せるから。だからお兄ちゃんが持ってて。お兄ちゃん……死なないで」
鉄格子に頭をくっつけて、アクセルは俺に身体を近づけようとする。
「お願い。お願い。お兄ちゃん死なないで。僕の前からいなくならないで。お兄ちゃんまでいなくなったら僕、どうしていいか解んないよ……。助けるから。絶対助けるから、待っててお兄ちゃん」
――助けられなかった。僕は誰も。
ゲームでアクセルが吐いたセリフがいまになって身にしみた。そうか、アクセルが悪役に墜ちたのは、俺を助けられなかったからなのか。助けようとしたものを助けられなくて自分の無力に苛まれて、何を犠牲にしてでも強くなろうと思ったんだ。
アクセルは涙を拭うとまたにっこりと笑った。
「じゃあね。また来るから」
「アクセル。俺はいなくなったりしない。俺は大丈夫だから」
「うん。お兄ちゃん。待ってて」
アクセルがメイドと共に地下牢を出て行くと、俺は母親の香水を開けて匂いを嗅いだ。抱きしめられた記憶が蘇ってきて涙が溢れた。ハルが泣いている。
「お前まだ、ここにいるんだろ? やり残したことがあるんだろ? 立てよ、ハル」
魔法系のスキルがとれないのはハルのスキルツリーが眠ったままだからだと理解した。グレーの表示が、まるで引きこもったハルの部屋を守る扉みたいに全てのものを拒絶しているみたいに見えた。
「アクセルをなんとかしてやりたい」
あれで10歳だぞ。辛いだろう。苦しいだろう。寂しいだろう。それでもハルを思って心のよりどころを手放してしまうくらいあの子は優しい。
置いてなんていけない。
それに、俺がここから逃げ出して奴隷契約が破棄できたところで、手引きしたメイドたちはただじゃ済まない。俺の事だって死に物狂いで探すだろう。外で訓練している暇なんてない。
戦わなきゃダメだ。
相手がラスボスだろうと。
強くなれ。
ハルが目を覚まして、父親をぶっ飛ばそうと思うくらいに。自分の人生を生きようと思うくらいに。俺は25で、ただの居候だ。12歳のハルに比べれば十分に生きた。ハルが戻りたいというならこの身体を受け渡す覚悟くらいある。きっと俺が転生できたのはただのバグだからな。
俺は自分のスキルツリーを開くと「逃げるための資金」を使って「戦うためのスキル」を購入し始めた。
9. ダンジョンの下層に潜ろう
事件が起きたのはさらに二週間が経過したある日のことだった。
ラスボスを倒せるくらい強くなると決めたあの日から、俺とジェリコはひたすらダンジョンに潜り続けていた。
ジェリコのレベルはかなり上がって、地下牢付近の魔物であれば瞬殺できるくらいには攻撃力が増えていたし、アホみたいに(実際アホだが)突撃したって回復に数十円しかかからないくらいには防御力も成長していた。
『つよいぞー。とかすぞー。うでくうぞー』
「怖いんだよお前」
ジェリコは俺くらいなら平気で丸呑みできるくらいにはでかくなっていたし、溶かす力も桁違いで、倒した魔物を飲み込むと一瞬でじゅわりと消してしまうくらいには消化力が高い。
「ま、問題は『潔癖』相手に攻撃できるかどうかだけどな」
奴隷契約を破棄する方法として最終手段だったが、時間がない以上この方法を使うしかない。たった一撃でもいい。伯爵にジェリコの攻撃を食らわせれば奴隷契約が解除される。突撃じゃダメだ。もっと高度なだまし討ちをしないとアイツに攻撃は通じない。ただ……
「ジェリコはアホだからなあ。左右の区別もついてるのか怪しいし」
『たべたほうがみぎうで、たべなかったほうがひだりうで』
「酷い覚え方だし、お前が食べたのは左腕だ」
『あれー?』
異星人に右を正しく教えることができるか、というオズマ問題みたいな状況に陥っているが、これにはそもそも「異星人がアホじゃない」という前提が必要だろ。すぐに忘れる奴に正しく教えるも何もない。
ともかく戦闘中は俺の指示に従ってもらうことにして、精度を上げて行くしかない。結局のところ修行あるのみで、その修行は地下牢近くのこの場所ではすでに足りない。低レベルの魔物はジェリコにとって相手ではなく、もはや害虫駆除みたいな状況になっている。楽勝過ぎる。
「もう少しダンジョンの奥に行くぞ」
『おー』
俺はジェリコに言ってダンジョンを進み始めた。まさか俺がダンジョンを出る側じゃなくて潜る側に進むなんて最初は思ってもみなかったな。壁に光る苔が生えているのは先に進んでも変わらないので、真っ暗で進めないってことはない。俺たちは一つ下の階層にやってきて少しだけ気を引き締める。
「いいか、ジェリコ。ダンジョンってのはな、いろんなトラップが自然に作られてるから気をつけるんだぞ」
『わかった』
「例えば地面のスイッチを押すと上から槍が降ってきたり落とし穴に落ちたりするからな。ちゃんと確認するんだぞ」
『わかった』
「…………お前いま踏んだけどな」
ジェリコの身体にグサグサと槍が降り注ぐ。この程度の攻撃なら数十円で回復する怪我だし、ジェリコの身体はぶよぶよなので、槍はぶつかった瞬間に威力を落とし、実際にはそれほど痛くないはずだ。
『いたいよー』
「棒読みじゃねえか。適当に返事しやがって」
ジェリコは身体に刺さった槍をそのまま食って溶かし養分にした。殴られてもケロッとしてそうだよなこいつ。豪胆なのか直前のことを忘れてるだけなのか。俺は後者だと思うね。ジェリコはまだ金属まで溶かせないようで、槍の先端をぷぷぷと吐き出した。勢いよく飛びだしたそれは石の壁にぐっさりと突き刺さる。相当な威力だな。
「その攻撃方法覚えておけよ」
『え? なに、ますたー。すいっちもういっかいおせばいいの?』
「押すな」
俺は溜息をつきつつ、この分だと少し先に進んでもまだ楽勝だなと思って、一歩踏み出し、
スイッチを踏んだ。
『ますたーやっちゃったね』
「うるへー」
なんだここトラップ多すぎるだろ。出っ張りがあったからスイッチだと思って避けて踏んだらそこにスイッチあるとか意地が悪すぎる。あとで【感力】を解放して探知系のスキルをとっておこう。戦闘系のスキルばっかり目がいってたからな。うん、そうしよう。
と、文句と反省が一秒で頭を駆け巡った直後、パカッと地面が開いてジェリコと俺はひゅーと下層に落ちていった。命令をしてジェリコが下になるように位置を調整し落下を続ける。
着地。
衝撃。
ぼよよん。
ジェリコをクッションにして事なきを得た。残高も数円程度しか減っていない。ジェリコにとって高い場所から落ちるなんて日常茶飯事なのだろう。
ジェリコのぶよぶよの身体をかき分けてなんとか地に足をつけると俺は伸びをする。さて、どうやって戻るかな。夕食の時間までには戻らないと地下牢にいないのがメイドに見つかるからヤバいんだよな。
そう思って、上に続く階段がないか調べるために俺は落ちてきた縦穴から目をそらして後ろを見た。
息をのんだ。
『ますたー』
「…………」
『おっきいくまさんだね』
ああでかいさ。五メートルくらいあるんじゃねえのってくらいでかい鎧熊が睡眠を妨害されていらつくように身体を持ち上げて俺たちを見下ろしていた。
突然難易度上がりすぎなんだよ塩梅感って知ってるか?
ハチミツあげるからもう一回寝てくれねえかな。
持ってないけど。
10. VS アーマード・ベア
ゲームでも出てきたこの鎧熊は、鱗に似た金属の皮膚を獲得しているだけで、実際には鎧を着ている訳ではないらしい。ま、巣に入ってきた冒険者やら騎士の鎧を剥ぎ取って着るって設定じゃ無理があるよな。身体でかすぎるんだよコイツ。
この育ち具合だと、もしかしたらボスなのかもしれない。
全身を覆う金属はその割合が著しく多い。ゲームでは急所を守るくらいだったのに、目の前のコイツは関節周り以外はほとんど全て守られているという徹底ぶり。フルプレートと言って過言ではない。過保護に育てられたのかな。箱入り娘だ。メスかどうかは知らんけど。
太ももまで守られてんじゃねえか。お堅いねえ。
いや、すまん。俺にはケモナーの気はないのでメスの熊に太ももを見せられたところで興奮しない。と言うか、動物の太ももに興奮するとか性癖としてニッチすぎるだろ。誰が提供してくれるんだ? 動物園か牧場に行くのかな?
とか、全然関係ないことを考えて逃避しても、やっぱり現実はスプリンターなので100mを3秒で走ってきて俺を捕まえる。スプリンターっつうかチーターだな。二つの意味で。
「どうすっかなあ」
どうするも何もコイツを倒さないことにはここから出られない。そう言えてしまうのはアーマード・ベアが俺たちの前に立ち塞がっているからではなく、ここがボス部屋だと示すように熊の向こうにぴったりと閉じている扉が見えたからだった。
マジで箱入り娘じゃねえか。
たぶん餌だってそこかしこにある落とし穴トラップから落ちてくる魔物を食って生きてきたんだろうな。よく見れば俺たちが落ちてきたのと同じような縦穴がずらりと壁際に並んでいて、そのそばに骨の山がうずたかく積まれている。自動餌やり装置だ。
「要するに俺たちは餌って訳だな」
『じぇりこはおいしくないよ。うではおいしい』
「いま俺のこと見捨てようとしただろ。それでも俺の従魔か」
ジェリコに文句を言っていると、箱入り娘の熊は侵入者である俺たちが気に食わないのか、それとも俺たちを食おうとしているのか咆吼を上げた。壁に反響してビリビリと空気が震え、ジェリコの身体が波打つ。これだけ大声を出しても伯爵の屋敷に聞こえないってことは相当な防音設備なんだろうな。いや、ここが相当深いだけか。嫌になるね。
餌になる気はないのでジェリコと逃げるが、さて本当にどうしよう。ジェリコは金属を解かせない。試しに消化液を鎧熊にぶつけてみたもののまったく解ける気配がない。唾を吐きかけられたお嬢様みたいに憤慨させただけだな。そんなことされたらお嬢様じゃなくてもキレるけどさ。
で、そんな風にキレさせてしまっているので、もちろんテイムだって無理。ジェリコと違って一瞬前のことを忘れるほどこのお嬢様はバカじゃない。餌をやって怒りをなだめる前に俺たちが餌になるのが目に見えている。
『ますたー、うでたべさせてくれた』
「ちょっと黙ってろ、気が散るから!」
この鎧熊は強敵だ。強敵にちがいねえ。とはいえ、俺が最終的に攻撃しなければならないのはコイツよりずっと強い『潔癖』で、ラスボスで、こんなところでへばってるわけにはいかねえ。中ボス、どころか小ボス程度のコイツなんか簡単にぶっ飛ばさねえとな。
「ジェリコ。俺が囮になる。お前はあの熊の金属じゃねえところを狙って消化液を撃て」
『わかった』
「金属じゃねえところだからな?」
『わかった』
「あとついてくんな! 俺が囮になれねえだろうが!」
『わかった』
ほんとかコイツ。脳死で会話してるからな。そもそも脳があるのか自体不明だ。
すでにジェリコ戦の反省を生かして【体力】は解放済み。【速力】も【感力】も回避に必要なものは大体購入している。いまやザコ敵の攻撃などひとつも当たらず、同時攻撃されても身体をどうひねれば避けられるか【知力】が教えてくれる。
最強の囮。
それがダメージ0であり、攻撃力が稼ぎに変わる俺が目指す道。避けながらも攻撃を当てて金を稼ぎ、魔物がレベルアップしそうになったらジェリコに攻撃させるのが基本戦法。それはこの鎧熊相手でも変わらない。
横薙ぎに振ってきた鉤爪を側転宙返りで避けると、たたっと距離をとって、ジェリコに攻撃させる。ビタンと音がして消化液が金属のところにぶつかったのが見えた。ノーコンじゃねえか。金属は解かせなくとも、垂れた消化液は関節のある場所までドロドロと達し、鎧熊の皮膚を溶かす。
咆吼に耳を塞ぐ。
ジェリコにもっと狙いを定めろと指示をする。
コントローラーを握っていた頃よりも明らかに多くを考え、全ての感覚を鋭敏にして情報を集め、最小の体力消費で避ける持久戦を考えているあたり、俺にも戦士としての自覚が芽生えてる。戦わなきゃ死ぬ。ゲームじゃないリアルがここにある。
なんてこった。俺は生きている。
懐に飛び込むたびに、攻撃を避けるたびに命が輝く。そういうことか。攻撃するたびに残高が増えるのは、命を賭けているからだ。明らかに接近戦での稼ぎがいいのは、その分、命の危険があるからだ。命を賭けて、危険をくぐり抜けた分だけ、命の価値が上がる。そういうことだろ?
『命の残高:命を賭け、死の危険を乗り越えた分だけ数値が増える。より危険が多いほどその払い戻しは大きい』
「なんてヒリつく能力だよ」
避ける避ける避ける避ける。
ジェリコは壁にへばりついて登り、ぐるぐると移動を繰り返しながら鎧熊の関節を狙って消化液を飛ばし続ける。俺はジェリコが鎧熊の背後に来るように位置を調整しながら駆け回る。
「いける!」
ジェリコの消化液が関節に決まる。鎧熊が悲鳴じみた声を上げて、消化液を払おうと腕を振る。腕にあった金属片が外れて、飛ぶ。まるで蓄積されたダメージのゲーム的表現。鎧熊の鎧が徐々に削られて、ガランガランと音を立て地に落ちる。
「いけ――」
――いつの間にか、俺は吹っ飛ばされていた。
俺は気づいていなかった。いや、気づくには鎧熊との距離が近すぎた。身体から金属片が外れたなら、その分、鎧熊の攻撃速度は上がる。一つ何キロあるのか、熊の身体を守っていた金属片は地面に転がったままびくともしない。
鎧と言うより、ほとんど拘束具だったのか。
鎧熊は自由になったその腕でかぎ爪を振り下ろしていた。当然のように俺の身体は切り裂かれて吹っ飛んでいる。領地を主張するペンキみたいに真っ赤な血が地面を染めるのを見ながら、俺の身体はペンキローラーになったんだと思いながら、ゴロゴロと転がって壁にぶつかる。あまりの痛みに一瞬だけ気を失う。パッと目を開くと残高が一気に百万円減って、身体が回復していた。『即死級のダメージを受けました』の文字がステータスの上を躍る。
ってことはなんだ。
人間一人分の命は百万円ってことか?
学費だって払えねえじゃねえか。
残高はまだ一千万を超えていて、つまり、残機10と言えるけれど楽勝とはもう言えない。鎧熊の攻撃を避けられるほど俺の敏捷は高くない。反応すらできなかった攻撃だ。太刀打ちできると考えるほど俺の頭に花は咲いていない。
『ますたー! ますたー! しんじゃやだ!』
「生きてるっての。お前はそこにいろ。降りてきたら攻撃されて死ぬぞ」
頭の中でジェリコに応えながら立ち上がり、鼻をかんで血を飛ばし、折れた古い歯を吐き出す。残高での回復は歯も再生するようで、舌で触っても欠けがない。便利なこった。続いて、身体をペタペタと触り正常なことを確認する。服は裂けて血まみれだし、持っていたはずの木刀は切り裂かれた衝撃で四つくらいに折れて鎧熊の足元に転がっている。それでも俺の身体は著しく健康だった。
戦うには十分なコンディション。
鎧熊は俺が立ち上がったのを見て、ぎろりと睨みつけてきた。もしかしたらオスなのに箱入り娘と言い続けてきたことに腹を立てたのかもしれない。すまんな。鎧がとれてようやくお前がオスだって解ったんだよ。
鎧熊はぐっと屈伸すると、俺に突撃する準備を始めた。ったく休ませてくれるとかねえのか。その巨体と金属の鎧が相まってトラックみたいに見える。もしかしたらぶつかったらまた転生するのかもな。
するつもりなんかねえけど。
俺はステータスを開く。こんだけ避けまくって攻撃だって受けまくってるのに【体力】も【速力】も【感力】もLv1を無情に突きつけてくる。レベルは買えない。これは俺自身のレベルだってそうだ。つまり現時点でこれ以上「敏捷」を増やす方法はなく、鎧熊の攻撃を避ける術はない。そして、もちろん、俺の与えるダメージは相変わらず0だ。
そう、いまのままなら。
俺は即死級のダメージを受けたときに表示されたもう一つの表示を見る。
=========
実績〈道を開きし者〉を解除しました。
解放条件:即死級のダメージを受ける。
ダメージ0の限定解除が実行できるようになりました。実行しますか?
限定解除:5分間10000円
=========
より危険が多いほどその払い戻しは大きい、ってか。
即死しないとこれ出ないの条件厳しすぎるだろ。
俺は文句を言いつつも叫んだ。
「限定解除!」
11. 限定解除
『限定解除を実行しました。五分ごとに10000円が消費されます。また限定解除中は残高を消費することでダメージ値を上昇できます。上限は攻撃力の10倍です。命を賭して対象を殲滅してください』
「ダメージ値の上昇?」
いまの俺の素の攻撃力は相も変わらず200だけれど、スキルツリーで色々とったおかげで3000くらいにはなっている。まあそれもレベルが上がらないせいで頭打ちなんだが。木刀もいまや木っ端と化してしまったので、その攻撃力がいま出せる最大値。そこから10倍だから30000か。
レベル1にしては相当な攻撃力ではあるけれど当たらなきゃ意味ないんだよな。敏捷が十倍って訳じゃないし。
っとヤバい。
鎧熊は屈伸の姿勢からぐんっと突進を始めた。接近戦では避けられない攻撃も、これだけ距離があればそりゃ避けられる。トラックが遠くから来たって横断歩道くらい渡れるのと同じだ。
たたっと距離をとって止まり振り返る。鎧熊はブレーキというものを知らないらしく、そのまま突っ込んで行って壁にぶつかった。自損事故。積み上がっていた魔物の骨が散る。部屋全体が振動する。上階の罠が誤作動を起こしたのか、俺たちが落ちてきたのと同じように魔物が次々と振ってきた。
敵を増やしてんじゃねえよ。
哀れなゴブリン二体、スライム二体、コボルト三体、それから、そこそこ大きなオークが二体。鎧熊に比べれば小ぶりだが地下牢の近くじゃ見なかった魔物だ。落下時のダメージはないらしい。何かがクッションになったのかうまく着地したのかは知らない。
ともかく、鎧熊を避けるのに邪魔なので排除しとこう。
「ジェリコ。小さい奴ら頼む。俺はオークをやる」
『わかった』
言った瞬間、ジェリコはぴゅぴゅんと消化液を飛ばして、ゴブリン二体をあっという間に消化する。命中率はお察しなので、マシンガンみたいに乱射していたが。
俺はチラチラと鎧熊の方を見ながらオークと相対する。まずは一体目。身長は二メートルくらい。猪の頭で鋭い牙が口から生えている。落ちてきた瞬間から俺を睨みつけて突っ込んできた奴だ。
俺お前に何かしたか?
トラップにかかって落ちてきたのは俺のせいじゃねえぞ。
突っ込んできた勢いそのままにオークは拳を大きく振りかぶる。はっきり言えば鎧熊より随分遅い。さっと半身になって拳を避けると、そのまま軽く屈伸して跳び上がり、顔面に三万円分のパンチをお見舞いした。瞬間、オークの首がガクンと後ろにのけぞって明らかに骨が折れる、膝から崩れ落ちる、びくともしない。
おいおいまってくれよ。怖いよ三万円パンチ。
自分の拳を見下ろして、大切なものを壊してしまった力を制御できない怪物の気分でいると不意にピコンとステータスが表示されてぎょっとする。
==========
レベルが上がりました。
レベル :1→4
攻撃力 :200→400
防御力 :400→600
魔法攻撃力:100→300
魔法防御力:100→300
敏捷 :300→500
==========
「は?」
今まで病院に行くと言われた犬くらいびくともしなかった俺のレベルが急に三つも上がった。何でだ。散歩に行くとでも言われて騙されたのか。いや、まて、ふざけてる場合じゃない。
「俺、もしかして、魔物を倒さないとレベルアップしないの?」
『魔物を倒したときのみ、レベルアップが可能です。攻撃成功のみではレベルは上がりません。また戦闘スキルのレベルアップも魔物を倒した時のみ可能です。非戦闘スキルに関しては残高でレベルアップできます』
ジェリコも他の魔物も攻撃を受けるだけで経験値溜まってレベルアップするのに、なんで俺だけ倒さないといかんのじゃ。いや、それも結局は命を賭けるってことなんだろうな。
命を賭けなきゃ先に進めない。
ダメージ0で残高を稼ぎ、魔物を倒してレベルを稼ぐ。俺がただ生き延びるためなら、レベルを上げる必要なんてない。現に俺はいま一千万を超える残高を有している。十回死んでもおつりが来る。ただ、あのむかつく『潔癖』をぶっ飛ばして、奴隷から生還し、アクセルを救うにはその道を進むしかない。
レベルアップの道を。
俺は振り返るともう一体のオークを指さした。
そいつの手にはどこから持ってきたのか金属の剣が握られている。
「それ、もらおうか」
三万円でな!
12. レベルアップアップ
『レベルが上がりました』
『レベルが上がりました』
『レベルが上がりました』
オークから奪い取った剣でコボルト三体とスライムを切り裂いて駆け抜け、鎧熊の突進を避ける。さっきより簡単に避けられるのは敏捷が倍以上になっているからだ。またもや壁に激突した鎧熊は部屋を揺らして、新たな犠牲者を上階から降らせる。
それを繰り返す。
『【筋力】のレベルが上がりました』
『【体力】のレベルが上がりました』
『【操力】のレベルが上がりました』
『《剣術》のレベルが上がりました』
=========
実績〈オーク狩り(剣術)〉を解除しました。
解放条件:オークを一〇体討伐する
剣を使用した場合の攻撃力が微増加(0.01%増)します。
=========
呼吸は荒い。マラソンをしながら攻撃を避けて、重い剣を振っているようなものなんだから当然か。いや、重いと言ってもさっきよりはかなり軽くなっている。多分《剣術》のレベルが上がったからだろう。そのうち背負うくらいの鉄板みたいな剣だって振れるようになるなこりゃ。
『【速力】のレベルが上がりました』
『【感力】のレベルが上がりました』
『【知力】のレベルが上がりました』
やっぱどのゲームでもこの初期のレベルアップ祭りは気持ちいいな。ゲームじゃなくて現実なんだけどさ。とは言いつつも、すでにレベルアップしづらくなっているのは確か。ゴブリン数体倒したところで全くレベルアップしない。そのうえ、すでに体力もキツい。そろそろまた一秒に10円ずつ減る死の行進が始まってしまう。
俺は立ち止まり鎧熊に向き直る。
すでにステータスは十分育っている。
==========
レベル :8
攻撃力 :2000
防御力 :4000
魔法攻撃力:1000
魔法防御力:1000
敏捷 :3000
==========
残高はもう少しで一千万を切る。すでにこの場所で三百万近く使ってしまった。残機三つ分だ。レベルアップだけを意識してやってきたが、これからは戦術を考える必要があるな。
それも当然か。
いまや、剣を一振りするだけで、攻撃力は30000。鉄の剣だから木刀よりもずっと高い。限定解除をすれば十倍、つまり、一度振ると最大で300000円になる計算だ。そりゃ残高も減るよな。
その上レベルアップした影響か、限定解除の値段も5分で30000円にまで跳ね上がっていた。ふざけんな。ってことはなんだ、もしかすると体力なくなったとき訪れる死の行進も10円どころじゃ済まされないかもしれないってことか。
ヤバい。
けりをつけよう。
剣を構える。鎧熊もかなり疲れているようで全身汗まみれで湯気すら立っているけれど、戦意は全く喪失していない。ぐっと屈伸して、飛び出す。その動きはもう随分見慣れている。が、今度の俺は逃げない。
迎え撃つ。
駆ける駆ける。鎧熊のにおいがむっとキツくなる。その皮膚の熱さまで伝わってくるようなそんな距離。鎧熊が咆吼する。また、大きく腕を振りかざす。
全部見えてるよ。
新たにとったスキル《跳躍》で俺は思い切り地面を踏み切って、跳ぶ。本来なら避けるためのスキルだろうが、俺はコイツを使って攻撃力を底上げする。突撃ばっかりしてる鎧熊をみて思いついたんだよ。振り下ろされる腕から逃げるように跳んで、そして、胴を切り裂く。
残高が310000円減る。
スパン!
手入れもしていないだろうオークが握っていたなまくらの剣は鎧熊の胴体をいとも簡単に両断した。背中にはまだ金属の鎧がくっついていたはずなのに、それすら切り裂いて、鎧熊はずしんと倒れる。
『レベルが上がりました』
=========
実績〈ジャイアントキリング(小)〉を解除しました。
解放条件:レベル差が50以上ある強敵を討伐する。
限定解除の値段が半額になります。
=========
「だああ、やっと倒した」
広がる血を避けるようにふらふらと離れてから俺は地面に腰を下ろした。遠くでずずずと扉が開く音がする。やっぱりコイツはボスだったらしい。これで地下牢に戻れるな。ちょっと休んだらすぐに戻ろう、と思っているとジェリコが上から降ってきて、俺の残高を減らした。
『ますたー! ますたー! しなないでー!』
「おいやめろ! 生きてるっつうの! 話聞け!」
『うううう! ますたー! ますたー!』
ぶよぶよとそのわがままボディを押しつけてくる。これが太ももだったら歓迎するんだけどな。不定形のコイツに太ももの概念はない。そもそも足も尻もないし。ジェリコを押しのけて立ち上がるとあたりを見回した。ゴロゴロと魔物の残骸が転がっている。
「餌がたくさんあるからな。ジェリコ、レベルアップするか」
『わかった』
13. ジェリコの進化
朗報。
ジェリコが金属を溶かせるようになった。というかもっと言うとジェリコ自身が金属になった。多分鎧熊を散々食ったからだと思うが正確には不明。ボス部屋に落ちていた鎧熊の鎧を難なく消化し、形態変化をして、金属光沢のあるスライムへと変貌した。合金スライムだ。代わりにだいぶ小さくなったが。コイツ倒したら経験値爆上がりしそうだよな。倒さないけど。
『ますたー、ますたー、つよくなったよ』
「おうおう、すげーな」
『えへえへ』
実際強くなった。消化液は金属の弾丸で、鏃だけを飛ばしているような感じ。さっき槍の先端を吐き出して壁に突き刺していたけれど、あれを常時できるらしい。速度だってただの消化液と比べて桁違いに速い。
これはいけるんじゃないか?
ジェリコが『潔癖』に一発食らわせるという計画に現実味が出てきた。俺が限定解除できるようになったからと言って、奴隷契約がある以上あの男に攻撃はできないからな。ジェリコが進化しなけりゃなんにもならん。
ぽんぽんとなでてやると『えへえへ』言いながらすり寄ってくる。腕は食うなよ。どうも俺が即死級のダメージを受けてからジェリコは甘えたちゃんになったらしいな。テイムってそういう死の感覚も伝わるもんなのかな。俺が死んだところで、ジェリコが死ぬわけじゃないだろうけど。
「よし、じゃあ地下牢にもどるか」
『おー』
と言って、扉を出たものの道が解らない。しばらく歩いてみたが完全に迷った。ええ、どうすんの俺。メイドが地下牢に戻ってきたらダンジョンに逃げたことバレて伯爵に『呻け』連呼されるんだけど。死ぬんだけど。ともかく元来た道を戻ろうと思ったがそれも解らない。途方に暮れる。
「ジェリコ、どうやってここまで来たか覚えてるか?」
『さっきたべたものもわすれた』
「最悪かよ」
合金スライムになったから少しは頭良くなったかと思ったけれどそうでもないらしい。詰んだ。あのボス部屋までも戻れない。こんなことなら俺たちが落ちてきたあの縦穴を登れば良かったと一瞬思ったけれど、トラップは完全に塞がっていたから登ったところで上に出られる訳じゃない。
『さっきのへやならばしょわかる』
「……ほんとかよ」
半信半疑でジェリコについて行くと本当にボス部屋まで戻ってこれた。扉は開いたままでジェリコが魔物の死体を食い荒らしたので綺麗なままだ。
「おお! マジで戻って来れた!」
『ほめてほめてほめろ』
「はいはい。えらいよお前は」
『えへえへ』
「さっき食ったものも忘れてんのにどうしてこの場所解ったんだ?」
『えっとね、なんかね、こっちのほうだなって』
「……もっと具体的に教えてくれ」
『えっとね、これ。じぇりこのからだだから』
そう言いながらジェリコが示したのは、さっき威力を調べるために飛ばした消化液の弾丸で、壁にぐっさりと突き刺さった金属片。ってことはなんだ。身体の一部を埋め込んでおけばその場所までなら戻れるってことか?
『そうそう』
「そりゃ凄い。よし、じゃあ俺たちが落ちてきたあのトラップに金属片刺してこい。それに向かって歩いて行くぞ」
『わかった』
と言うことで、俺は地下牢に戻ってきた。ほぼほぼ同時にメイドがやってきたので冷や汗掻きまくり。あぶねーあぶねー。とは言え、これで地下牢に戻ってくる術を手に入れたので俺は、この日からダンジョン探索を始めた。
◇◇◇
一ヶ月が経過した。
命の残高は死の危険を乗り越えれば乗り越えるほど増加するが、それは実績やらレベルやらを含めて考えるべき哲学だったらしい。ダンジョンに潜ってレベルを上げながら俺は思う。
場所は鎧熊がいた階層より一つ下。鱗に覆われた巨大なトカゲを目の前にして、俺は剣を構えている。ああそうだよ。またトラップに引っかかったんだ。嫌になるね本当に。
ジェリコの援護を受けながら、トカゲに接近する。かぎ爪を避けて剣で首を殴る。ダメージは0で残高が30000円増える。トカゲは斬られたのに傷がない状況に一瞬だけ躊躇う。そりゃそうだ。こんな訳わからない戦い方をするやつは俺以外にいない。
生身を賭け金にして、リターンを得る。距離をとる前に五回切りつけて150000円の稼ぎ。このサイズの魔物に吹っ飛ばされれば即死級のダメージを喰らうのは経験済み。つまり、失敗すれば百万の損失。そのうえ魔物をレベルアップしてしまうリスクを孕む。それでも金を稼ぐ。
レベルアップのために。
「限定解除」
五分で15000円の損失。攻撃すればその分の残高が減る。さらに言えば、攻撃失敗時にも残高は減る。一度ミスって空振ったら、当たってもいないのに三十万円減ってぶち切れた。ったく割に合わないよな。これならスライムやらゴブリンやらをパカパカ叩いてた方が残高が増える。まあ、その場合レベルは一向に上がらないんだけどな。
成長したいなら挑戦しろ。
リターンがほしいなら命を賭けろ。
それこそがこの能力の哲学。
その証拠に隠密系スキルをとってみたものの、限定解除の倍くらいの値段で残高を消費する。スニークキルは哲学に反するとでも言うかのように。厳しいというか脳筋というか。もっとスタイリッシュなチートがほしかった!
そんなこんなでリターンがなきゃ死ぬ状況にある俺はダンジョンに潜り、自分より遙かにレベルの高い魔物たちを討伐して、ジェリコを鍛えて一ヶ月。
一億円を貯めた俺に、ついにその日がやってきた。
伯爵をぶっ飛ばす日が。
14. 決戦の日
ラスボスとまっとうに戦って勝てるわけがないことはゲームがすでに証明しているが、同時に、どうすれば攻撃を当てられるかということも証明している。ゲーム知識さまさまだぜ。
アイツの防御魔法には限界がある。
確かに、二つ名である『潔癖』が示すように伯爵の防御魔法は異常。どういう構築をしているのか、死角から攻撃しようが隠密スキルで攻撃しようが、自動的に展開して弾かれる。つまり、不意打ちの類いは全く意味をなさず、寝込みを襲おうがあっという間にやられて終わりだろう。
ただし、一度その防御魔法を破壊すれば十秒間行動不能にできる。ゲームでは弱体化させた伯爵の防御魔法を攻撃しまくって破壊し、その十秒間の間にダメージを与えて、また防御魔法を破壊し……というのを繰り返すのが攻略法だった。
とは言え、これは弱体化した場合の話である。
ゲームでは防御魔法に対して累積ダメージで45万食らわせれば良かったが、本来の伯爵の防御力は90万で、しかも一発で決めなければならない。
だからレベルアップが必要だった。
いまの俺なら伯爵の防御魔法を破壊できる。そして、伯爵が行動不能に陥れば、ジェリコが攻撃できる。
「問題は、奴隷契約がどれだけ俺を傷つけるか、だな」
防御魔法を破壊するところまで行けば恐らく即死級のダメージで済むだろうが、その直前に止められたんじゃ問題だ。それに、『呻け』を連呼されて攻撃すらままならないなんて絶対に避けたい。
「近づくまでは隠密スキルの《姿隠し》を使うしかないな」
《姿隠し》は非戦闘スキルらしく残高でレベルを上げることができた。説明をよく読めば攻撃した瞬間に居場所がバレるとはっきり書いてある。基本は逃げるために使うみたいだな。ま、俺は伯爵に近づければいいからあとはバレても問題ない。
と言うことで、実行の日。
「行くぞ、ジェリコ」
『おー』
ジェリコは金属を溶かせるので、鉄格子を溶かしてもらって外に出る。地下牢から上がっていって廊下に出たが誰もいない。昼で久しぶりの太陽に俺は目を瞬いた。ヴァンパイアの気分だな。
『まぶしー』
スライムヴァンパイアのジェリコは言いながら俺の陰に隠れた。コイツ腕食うからマジでヴァンパイアみたいなもんだけどな。
お、ヤバい。誰か来る。
俺はジェリコを抱き上げると《姿隠し》を使い、そそくさとその場を立ち去る。残高が五分で20万円も減る。ぼったくりだ。
この時間だと伯爵はアクセルと一緒に訓練場にいるはずだ。潔癖症の伯爵は他の時間、清潔な自分の部屋に引きこもってるからな。
攻撃するならこの時間しかない。
誰にも見つからずに外から訓練場まで向かうと、いた、伯爵がアクセルの魔法練習に付き合っている。と言うか強制している。ここ一ヶ月俺のところに足を運んでいなかったアクセルは、見ない間に酷くやつれていた。目の下のクマが酷いし、それに痩せているようにも見えた。待ってろ。いま伯爵をぶっ飛ばしてやるから。
「ジェリコ。作戦開始するぞ。いままでの訓練を思い出せ。ちゃんと狙いを定めて当てるんだ」
『わかった』
「俺はいまから伯爵に攻撃する。きっと酷い怪我をするし、即死級のダメージも受ける。でも気にするな。動揺するな」
『ううう。ますたーしなないで』
「早いっての。俺はそう簡単に死なない。残高いくらあると思ってんだ。一億だぞ一億。この日のためにどれだけダンジョンで稼いできたかわかるだろ」
『ううう……』
「これで外に出られるんだ。自由になれるんだ。お願いだから協力してくれ」
『ううう……わかった……』
俺はジェリコを撫でるとその体を《姿隠し》で隠した。この距離でも伯爵に気づかれていない。ってことは攻撃するまで気づかれないはずだ。
大丈夫。
いける。
「合図したら伯爵を攻撃しろ。あの大人の男だ。いいな?」
『うん……』
「じゃあ行ってくる」
訓練場のドアは開け放たれている。音を立ててもどうせ気づかれないだろうが、俺はゆっくりと伯爵のそばまで歩いて行った。目の前にいるのにコイツは俺に気づかない。
深く息を吸い込んで、吐き出す。
「限定解除」
『限定解除を実行しました。五分ごとに10万円が消費されます。また限定解除中は残高を消費することでダメージ値を上昇できます。上限は攻撃力の10倍です。命を賭して対象を殲滅してください』
俺は拳を握りしめて構える。
その瞬間から奴隷契約違反の罰が下る。肩が裂ける胸が裂ける太ももが裂ける。パッと血が飛び散って全身を痛みが包み込む。
でもやめない。
拳を突き出した瞬間に襲ってきた吐き気を歯を食いしばって殺す。一瞬世界が真っ黒に染まって戻る。どうやら一回即死級のダメージを受けたらしい。
いや、一回じゃない。
視界を覆い尽くすように『即死級のダメージを受けました』の表示が並んで重なる。残高が恐ろしい速度で減っていく。
でも、やめない。
もうすでに痛みは感じない。俺は俺の頭がバカになってしまったんじゃないかと思いながらも最後まで拳を突き出して、自動展開された伯爵の防御魔法にぶつけた。
そこでようやく伯爵が俺の存在に気づく。目をかっぴらいて展開された防御魔法にヒビが入るのを見る。俺は咆吼を上げたが、それはほとんど音にならない。口から夥しい量の血が噴き出して、防御魔法にへばりつく。
バキン!
防御魔法が破壊された瞬間、俺の身体は地面に突っ伏した。痛みが徐々に戻ってくる。
『奴隷契約違反です。残高の半分を徴収しました。次回違反時は残りの全てを徴収します』
畜生、五千万も持ってかれちまった。さらに百万消費して俺の身体はみるみるうちに回復する。
伯爵は何が起きたのかわからない様子で崩れ落ちていく防御魔法を見ながら、自分の身体がろくに動かないことに驚愕している。しびれたように両腕を震わせて、歯を食いしばってなんとか身体を動かそうとしているが、無理だよ。
いまだ。
「やれ、ジェリコ!」
15. 決着
伯爵めがけて金属の弾丸が飛んでいく。何度も何度も一緒に訓練したその射撃はいまや正確。寸分の狂いもない。
念話みたいに頭の中で『ますたー! ますたー! しなないでー!』と叫び声は聞こえるがどれだけ動揺してても手元に狂いはなかったみたいだな。
これで――
「『守れ、アクセル』」
伯爵が呟く。
アクセルが射線上に飛び出して、その体に金属片が突き刺さる。悲鳴を上げる。
なんだ……いまの。
まさか。
まさか!
「てめえ、アクセルにまで奴隷契約結びやがったな!!」
「……礼儀を忘れたのか貴様。『呻け』」
ばちんと全身に痛みが走るがそれどころじゃない。アクセルがこんなにやつれてるのは奴隷にされたからだ。かなり無理な訓練をさせられてるに違いない。その証拠に、伯爵はアクセルに聖魔法をかけて治療すると言った。
「この程度の怪我、すぐに回復できるようになれ、アクセル。訓練を増やしてもいいんだぞ」
「う……ううう……お兄ちゃん……お兄ちゃん……」
「甘えるな、反吐が出る。その甘えが命取りになると何度いえばわかる。奴隷に落ちてなおまだ甘えるか」
アクセルがボロボロと泣き出すのをみて、伯爵は舌打ちをした。それから俺を見ると、
「それで、地下牢にいるはずの貴様はどうしてここにいるんだ、ハル。おかしな技を使ったようだが何か関係が? 私が無力化されるなど初めてだ。ダメージ0のお前が、一体どうやった?」
「うるせえ、畜生、アクセルを盾にしやがって!」
「口の利き方に気をつけろ。『呻け』」
さっきより強烈な痛みが全身を駆け抜ける。鼻血が噴き出してきた。残高は千円減る。
「さあ、話せ」
「……奴隷の身体は操作できても情報までは引き出せねえみたいだな」
「私を侮辱してるのか貴様。『呻け』」
全身が軋み、鼻だけじゃなく口からも血があふれ出す。指がおかしな方向にひしゃげているのが見える。
『ますたーをいじめるな!!』
突然、ジェリコが飛びだしてきて、俺と伯爵の間に割って入った。やめろバカ野郎。お前がかなう相手じゃない。逃げろ。お願いだから逃げてくれ。ジェリコは聞かず、金属の弾丸を伯爵に吐き出す。が、すでに伯爵の身体は自由を取り戻している。いとも簡単に防御魔法で弾き、金属の落ちる音が響く。
「テイムした魔物の攻撃で奴隷契約を破棄しようとしたようだが、失敗したな。その方法は私も知っているが、あまり知られていないはずだ。どこで知った?」
「言うわけが……」
「ふむ……」
伯爵の手がジェリコの方へと動く。残高を消費して回復しきる前に俺は無理矢理ジェリコの身体を抱きかかえた。衝撃。ギリギリ間に合ったが、俺の身体はジェリコを抱きかかえたまま吹っ飛んで転がる。背中が焼けるように熱い。
『ますたー! ますたー!』
「大丈夫だ。大丈夫だからお前は逃げろ」
『やだ! やだー!』
「自由に生きろ。お前とのテイミングだって解除してやる。そうすればもう俺が死ぬ苦しみを感じなくて済むだろ」
『だめ! やだ! ますたーといっしょにいる!』
「頼むから逃げてくれ。お前のおかげでここまで来れたんだ。お前がいなくなるのは耐えられない」
ジェリコはべったりと貼り付いて離れようとしない。その間にも『呻け』の声が聞こえてきて、俺の身体は悲鳴を上げる。霞む視界に伯爵とアクセルの姿が見える。
「やめて! やめて父様! お兄ちゃんが死んじゃう!」
「黙れ……そうか、こうすれば良い。『従え』」
途端、アクセルが悲鳴を上げた。
「ハル。話せ。いまや私にとって貴様とアクセルの価値は同程度だ。軟弱なアクセルを殺すも、ダメージ0の貴様を殺すも変わらん。ま、かろうじて、まぐれで私を無力化したことに敬意を払って貴様の方が価値があると言えるな」
「や……やめろ……」
「話せ、ハル。『従え』」
アクセルが悲鳴を上げ、口から血が溢れる。血と涙で顔は汚れ、苦痛に歪んでいる。やめろ。やめてくれ。もうこの子を傷つけないでくれ。畜生。動けよ俺の身体。一度即死級のダメージを受ければ一気に全身が回復するだろうが、じわじわと回復しているいまその手は使えない。
ジェリコが『潔癖』を攻撃する作戦は失敗に終わった。もう俺には打つ手が残されていない。それでもアクセルを守りたい。ジェリコを守りたい。次に伯爵に攻撃すれば俺は死ぬ。それは解っている。それでもアクセルが死ぬくらいなら、アイツに立ち向かって一発食らわせてから死んでやる。ジェリコが逃げる隙を作ってやる。
だから立て。
立てよ俺の身体。
立ちやがれ!!
歯を食いしばって、全身から血が噴き出すのも構わず身体を起こす。ジェリコが『ますたー、やめて!』と叫ぶ。何度も気を失いそうになる痛みの中で、俺は自分を鼓舞するように「立て!」と心の中で叫ぶ。
立て!
立て!
立て!
立てよ、ハル!!
瞬間、世界が、静止した。
蝋人形みたいに伯爵もアクセルも固まり、真空パックされたような世界で、目の前に透明な表示だけが浮かんでいる。
『ハル・ガストレルがスリープから目覚めました』
その表示の向こうに、淡い光が浮かんでいるのが見えた。微かに上下するそれはゆっくりと俺の前まで近づいてくると、少年の姿に変わる。
『やっと目が覚めたよ、異世界の人』
「ハル……なのか?」
『うん。おはよう』
「お前起きんの遅えんだよ、バカ野郎。死ぬギリギリに目ぇ覚ましてんじゃねえよ」
『そうだね。ごめん』
「……いや、悪かったよ。言い過ぎた。お前十二歳だもんな。こんな辛い現実、誰かに押しつけてえって気持ちはよくわかるよ。俺だって十二歳だったらきっと耐えられなかったさ。実の父親から奴隷にされるなんてさ」
『でも逃げちゃいけなかったんだ。アクセルは必死で頑張ってたのに……』
苦しそうな顔をして血を吐いたまま固まっているアクセルに近づくと、少年の姿をした光はしゃがみ込んでその頬を撫でた。
『ごめんなアクセル』
「アクセルは自分を犠牲にしてでもお前を守ろうとするくらいお前を愛してる。絶対に伯爵に殺させちゃダメだ」
『…………』
「こんな状況になっちまってすまねえな。でもこうするしか方法を思いつかなかったんだよ。かなり身体も傷つけちまったしな。でもきっと、お前なら動かせる。聖魔法は得意なんだろ?」
『そうだね。うん。聖魔法、得意だったよ』
「よし。なら最後にお前のバカ親父をぶん殴ってアクセルを救ってくれ。この身体は返すよ。俺はただの居候だからな。ただ……ジェリコにだけは逃げろって伝えてくれ」
ハルはアクセルから離れて俺の方へと近づいてくる。俺はまだ胸に貼り付いているジェリコをみた。いままでありがとう。お前のおかげで俺は生きられた。幸せに暮らしてくれ。
最後に辛い思いをさせてごめんな。
ハルは目の前までやってくると俺の頬に触れた。徐々にその光が薄くなっていき、俺の身体に戻ってくるのがわかる。元ある場所に帰ってくるのがわかる。
『すべてに絶望した僕がここまで来ることなんてできなかったよ。全部あなたのおかげだ。ありがとう、僕を目覚めさせてくれて。ありがとう、アクセルの想いを僕に伝えてくれて』
ぶん、と表示が目の前に現れる。
==========
ハル・ガストレルのスキルツリーが統合されます。
《火魔法》が解放されました。
《水魔法》が解放されました。
《土魔法》が解放されました。
《風魔法》が解放されました。
《聖魔法》が解放されました。
新たに解放できるスキルが出現しました。
==========
夥しい量のスキルが並び、スクロールされていく。それが突然、ビタッと止まる。
==========
《解呪》:契約魔法における呪術を取り消す力。
対象:《奴隷契約》、《魔物契約》、……
解放条件:《聖魔法》と《呪術》を解放すること。
==========
『あなたはもっと先に進める』
「…………何言ってんだ、お前」
『きっと僕にはこの力を使いこなせない。だからあなたに託すんだ。命の残高を使いこなしてここまで来たあなたに』
「ま……待て!」
『僕の身体をあなたにあげる。だからアクセルを助けてほしい』
ぶわっと、光が散る。その光が身体の中に入ってくると暖かさがじんわりと全身に広がっていく。
バカ野郎!!
俺は必死で抵抗したが、スキルツリーが統合された時点でハルはもう俺に全てを託す選択をしていたらしい。俺の中でだんだんハルの存在が消えかけているのを感じる。
お前、まだ十二歳だろうが!!
人生全部これからだろうが!!
俺は…………畜生!
畜生!!
世界が動き出す。
『残高を消費して《解呪》が解放されました』
『残高を消費して《解呪》のレベルが3に上がりました』
『奴隷契約Lv.3(所有者 リンデン・ガストレル)を破棄しますか?』
『残高を百万円消費して、契約を破棄しました』
『残高を五十万円消費して聖魔法を使います』
全身がみるみるうちに回復する。床に手をついて立ち上がり、血の混じった唾を吐き出す。伯爵は俺を見て、舌打ちをした。
「ふん。聖魔法だけは得意だったからな。まあ、所詮一時しのぎに過ぎないな」
俺は口を拭うと、アクセルの方へ手を向けた。
『アクセル・ガストレルの奴隷契約Lv.3(所有者 リンデン・ガストレル)を破棄しますか?』
『残高を百万円消費して、契約を破棄しました』
伯爵が眉間にシワを寄せ、何度も『従え』を連呼する。が、もちろん反応はない。
「……何をした貴様」
伯爵を無視すると、アクセルの胸に手を置いて回復してやる。
「お兄ちゃん……」
「遅くなってごめんなアクセル。やっとお前を救い出せたよ」
「ううん……僕の方こそ、お兄ちゃんを救えなくてごめんね」
「いいんだよ、バカ野郎」
アクセルはふっと意識を失った。大丈夫。呼吸はある。ただ眠っただけだ。俺はアクセルを横たえるとすっと立ち上がる。
静かに、宣言する。
「限定解除」
『限定解除を実行しました。五分ごとに100000円が消費されます。また限定解除中は残高を消費することでダメージ値を上昇できます。上限は攻撃力の10倍です。命を賭して対象を殲滅してください』
伯爵は気味の悪いものでも見るように俺をにらんだ。
「『呻け』」
その言葉はもう効かない。俺は伯爵の方へ一歩足を進める。
「『呻け』」
徐々にその距離が近くなる。伯爵は防御魔法を展開して、そのうえで命令を続ける。
「『呻け』! 『呻け』! 『呻け』!」
俺は拳を握りしめる。
そこに乗っているのは即死級のダメージを受けたときに払うのと同じ残高。
命と同じ残高。
百万円。
ハルの分、母親の分、アクセルの分、ジェリコの分、そして俺の分。
命を乗せて、俺は伯爵めがけて拳を突き出す。
喰らえ。
拳が防御魔法に阻まれて一瞬だけ止まる。伯爵はニヤリと口角を上げた。
「そう何度も私を無力化できるわけが――」
バキン!
まるで、ガラスが割れるように防御魔法は粉々に砕け散って、そのまま、俺の拳は伯爵の顔面に到達する。
有言実行してやったぜ。
伯爵をぶっ飛ばすってな!!
咆吼を上げ、
俺は腕を振り切った。
伯爵の身体は吹っ飛んで壁にぶつかる。そこからピクリとも動かなくなった。
やってやったぞ、ハル。
微かに俺の中に残っていたハルの意識が最後の力を振り絞って言った。
『ありがとう、アクセルを助けてくれて。母様の仇をとってくれて』
「あとの事は任せろ、ハル」
ハルはふっと微笑むと、俺の中から姿を消した。
16. エンドロール
『ますたーのばか! じぇりこだってかなしい!』
そう言ってジェリコがぼよんぼよん俺にぶつかってくる。金属だから痛えんだよ。俺は隙をみてジェリコを抱きしめてやった。しばらく抵抗するようにブルブル震えていたジェリコだったが、暖まってきたからか、徐々に大人しくなる。
「悪かったよ」
『むー』
ジェリコを撫でながら、俺はぶん殴った伯爵の前に座りこむ。顔面をぶん殴ったからオークみたいに首がひしゃげるかと思ったが、そこはさすがラスボス、顎が外れて気を失うくらいで済んだみてえだな。百万の攻撃力でこれとかどうなってんだマジで。ゲームじゃいろんな条件を満たしてラスボスを弱体化させて、ようやく倒すのを無理矢理倒したんだからそりゃそうか。なんたって『潔癖』だもんな。いまや完全に伸びてピクリとも動かないけど。
と言うか、裏を返せばコイツをぶっ殺すって相当な準備が必要ってことだよな。なんて奴だよマジで。このまま放っておいたらまた俺を奴隷にしたりアクセルを奴隷にしかねない。
その前にコイツを奴隷にすることにした。
=============
《奴隷契約》:非戦闘魔法。対象の命を掌握し支配する第一級禁術。奴隷は主人を攻撃できず、強行した場合、罰を受ける。
契約成立には対象を戦闘不能にした後、生命を捧げる必要がある。ただしこれは術者の生命でなければならない。
奴隷契約のレベルは術者のレベルと捧げた生命に依存する。対象の【抗力】を超えるレベルを設定しなければ奴隷契約は締結しない。
=============
説明によれば戦闘不能状態で俺の生命を捧げればいいらしい。幸い、残高はまだ十分あるからな。それを使えば【抗力】を超えた奴隷契約くらいできるだろ。俺は残高を使って《奴隷契約》自体のレベルを最大まで上げると、伯爵に手をかざして奴隷契約を発動した。
『奴隷契約のレベルを設定してください』
コイツはラスボスだからな相当なレベルに設定しなきゃダメだろ。そう思って俺は最大レベルに設定することにした。
『一千万円を消費します。よろしいですか?』
実に残機十人分の生命。
『奴隷契約が締結しました』
ついでにアクセルにも所有権をあげよう。うん。そうした方がいい。どうやら半額で所有権の共有はできるみたいなので五百万円で済んだ。お得だね。
とかやってたら、突然伯爵がばっと身体を起こした。うわ、もう回復しやがったコイツ。痛みに呻いた後、顎をあっという間に聖魔法で治して、血走った目で俺を睨みつける。
「貴様……貴様貴様貴様!!」
俺は座ってジェリコを抱えたまま、ぼけっとしたまま、ぶち切れている伯爵を眺める。伯爵はぶつぶつと呟きながら魔法を展開していたが、急に膝から崩れ落ち悲鳴を上げた。釣り上げられた魚みたいにピチピチ動いて暴れ回ると、また聖魔法で治して、それから俺を睨みつける。
「貴様! 何をした!!」
「お前は俺の奴隷だ」
「は……何をバカなことを言っている! 《奴隷契約》を扱えるのは賢者級の魔法使いだけだ。世界に数人しかいないんだぞ。そんな魔法をお前が扱えるわけ……」
「『黙れ』」
途端、伯爵の口が縫い合わされたように端から閉じていってきゅっと結ばれる。何かを言おうとむーむー叫んでいるが、口は全く開かない。
「『その場で三回回って宙返り』」
伯爵は言われたとおりに動く。さすがラスボス。身体能力高いね。伯爵は顔を真っ赤にして俺を睨みつけた。おー怒ってる怒ってる。いつも怒ってるけどな。
「『喋っていいぞ』」
「わ……私に奴隷契約など……許されると思ってるのか!!」
「だってできたし」
「すぐに破棄してやる!」
伯爵は聖魔法を使ってなんとか契約を破棄しようとしていたが、どうも奴隷契約のレベルが高すぎてできないらしい。すまんな、最大レベルにしちまった。
「……くっ、どうしてできない! 私の《解呪》はレベル10だぞ!」
「あ、ごめん。俺の《奴隷契約》レベル20だわ」
「なっ! バカな!!」
それを聞いた瞬間、伯爵の顔は蒼白になり、その場に崩れ落ちた。
「あり得ない……あり得ない……お前……本当にハルなのか……?」
「さあね」
俺はぐっと伸びをすると一つ思いついて言った。どのくらい伯爵が言うことを聞くのか試しておかないとな。
「お前、地下牢行って掃除してこい。素手で」
「なにを言ってる?」
「『地下牢行って素手で掃除してこい』」
「い、嫌だ。嫌だ、嫌だ!! 地下牢は嫌だ! やめろ! 撤回してくれ! 頼む! あそこにはもう二度と入りたくない! 嫌だ嫌だ! うわああああああああああああ!」
伯爵は叫びながらも身体は幼稚園児の行進みたいに不格好に進んでいく。
「お前、俺はそこに二ヶ月以上いたんだぞ。掃除くらいしろ」
俺が呆れたように言うと、駆けつけたメイドたちがぎょっとしている。俺が事情を説明すると、伯爵派閥のメイドたちはうなだれて、アクセルや母親に同情していたメイドたちは笑った。
◇◇◇
「お兄ちゃん、本当に行っちゃうの?」
「おう」
数日後、俺は荷物をまとめて出立の準備をしていた。伯爵位はアクセルが継ぐ。それがゲーム通りのシナリオだし、それに、どうも伯爵はすでに俺を死んだことにしていたらしい。なら奴隷にして痛めつける必要ねえだろとは思ったが、まあ、俺に対する恨みを晴らしたかったんだろう。アホが。
「ここにいてよ」
「大丈夫だって。あのバカ親父が暴力振るったり奴隷にしてきたりすることもないだろうから安心しろ」
「違う。そうじゃなくて……僕寂しいよ」
「時々帰ってくるって。あと、そうだ、これ」
俺はポケットから大事にしていたものを取り出した。あの日、地下牢に来たアクセルがくれた母親の形見。
「……ありがとう」
「俺の方こそありがとうな。それがなかったら、もしかしたら、俺はいま生きてないかもしれない」
「……?」
アクセルは知らないだろうが、この香水はハルの目を覚ましたきっかけの一つだろうからな。アクセルの手を両手で包むようにして香水を渡すと、俺は言った。
「手紙書くよ。どこにいるかも連絡する」
「うん……わかった……」
あと不安なのは伯爵派閥の使用人がアクセルを虐めないかどうかだけど、まあ、そん時はアクセルが伯爵に命令して処罰するだろ。いまこの屋敷で一番強いのはアクセルだ。当然だろ、ラスボスを従えてるんだから。
俺は伸びをすると、一つ思い出したように言った。
「そうそう。地下牢がダンジョンに繋がってるからそれだけ注意しとけ」
「え!! 何それ!!」
「俺が強くなったのはな、そのダンジョンで死ぬほど訓練したからだ。地下牢の壁を探してみろ。岩が外れるところがあるから。埋めとけ」
「そっか、だからお兄ちゃんは……。うん、わかった」
「よし。じゃあ行ってくる」
アクセルに手を振って、俺は屋敷を出た。もちろんジェリコは一緒についてくる。
『ますたー、これからどうするの?』
「それは決まってる」
ハルに世界を見せてやる、みたいな殊勝な目的ももちろんあるけど、それより何より俺はもう奴隷じゃない。ずっとやりたいことがあっただろ。
「太ももタッチコンプリートをしてやる!」
『じゃあじぇりこはおいしいうでをさがす!』
「やめろ」
そんなバカな目標を抱えて、バカな俺は、バカなジェリコと一緒に大きな一歩を踏み出した。