プロローグ その朝、学食にて
五月の穏やかな日差しが心地よく差し込むとある地方の大学の食堂。その年の春、晴れて地元のこの大学に進学した村藤真は一人、一面ガラス張りの窓の向こうの芝生の上で丸まっている猫を眺めながら、朝食のみそ汁を啜っていた。お昼時は人混みでごった返している食堂も朝の時間帯はほどほどに静かで、モラトリアムな一日をぼんやりとここから開始するのがなんとなく彼は好きだった。同じ学部の友人たちと徹夜で遊んだりした時など時折皆で来ることもあるが、朝の時間は一人の方が彼は落ち着く。
「あ、いた」
一通り朝食を食べ終えた村藤が他愛もない小説を読み始めようと文庫本を広げたところで不意にそばで声がした。誰だろうと村藤が思う間もなく、その声の主は彼の正面の椅子を引き、軽やかにカールしたブラウンの髪の毛先を弾ませそこに座った。椅子と床がこすれて派手な音を立て残響を残す。村藤が驚いてとっさに言葉を出せずにいると、その声の主はジィと彼を見つめてきた。
「私のこと覚えてる?」
正面からまじまじと見つめるのもはばかられるような整った面立ちの女性だった。思わず村藤は「貴女のような美人とは縁もゆかりも御座いません」と、大真面目に返しそうになったが、思い留まる。大学に入ってから交友のあった人たちを思い返して彼女の記憶はないかと探っていると、
「ほら、『あんびりぃ』の新歓で会ったでしょう?」
と、彼女は続けた。大学非公認サークル『あんびりぃ』。村藤の記憶の淀みからスッと掬われるものがあった。あ、と彼は声を漏らす。
「あの時の。えっとたしか……針ヶ峰さん、ですよね」
「ええ」
『あんびりぃ』は村藤の高校生時代の先輩が所属しているサークルだ。村藤はそこに入るつもりはなかったものの、その先輩に人数稼ぎを理由に新歓への参加を頼まれ、仕方なく顔を出していたのだった。その時に出会ったのが彼女──針ヶ峰佳奈だ。
「村藤くん、新歓は途中で帰っちゃったでしょう。あの後が大事だったのに」
村藤が先輩から聞いた話では、『あんびりぃ』は不定期に集まっては旨い酒の飲み方を研究する──要するに、飲みサーということだった。古くからあるサークルで、緩かった時代は一年生のうちから飲み会に参加していたということだが、今は間違いがあってはいけないということで未成年は飲み会に参加せず、その間は酒に合いそうな、自分好みのつまみを見つけておくのだという。そんな話を先輩から聞きながら村藤は、どちらかと言えば真面目だった先輩が妙なサークルに入ったなと思ったものだった。
「うん、まあ……」
さてどう返答したものかと村藤が思案していると、針ヶ峰は食堂に備え付けられている給茶機から注いできたお茶を一口飲み、先程村藤が読み始めようとしてテーブルの脇に置いていた文庫本を手に取った。
「今どき実本なんだ」
「え?ああ……古本屋なら100円200円で読めて安く済むから」
「古本屋」
針ヶ峰は村藤の言葉を繰り返し、文庫本の裏表紙に書いてあるあらすじをざっと眺めると、パラパラとページをめくりだした。
「ふぅん。村藤くん、ミステリー好きなんだ」
「それほど。その本はなんとなく古本屋で目についたから、それで。針ヶ峰さんはミステリー読むの?」
「いいえ。──それで?」
「え?」
「サークルには来るの?」
視線は本に向けたまま針ヶ峰が村藤に尋ねた。近くのテーブル席に座り食事をしていた男子学生が彼女へと視線をチラチラ投げかけているのを、村藤は視界の隅で認識する。
「……実は、ぼくはあの時、高校時代の先輩に頼まれて新歓に出てて……その、つまり賑やかしのサクラみたいなもので。サークルに加入するつもりはもともと無かったんです。それで頃合いを見計らって先に帰らせてもらったんだ」
「なるほど」
聞いているような聞いていないようなわからない返事をして、針ヶ峰は無造作にめくっていた文庫本を閉じた。そして背景が真っ黒に塗りつぶされその上をカラフルな曲線が走っている表紙に手を置くと、ツイ、と本を村藤の方へと押しやった。何が「なるほど」なんだろう、と村藤がちょっと考えていると、
「じゃあ、連絡先交換しましょうか」
事もなげに針ヶ峰はそう宣言した。そして自身の携帯電話をハンドバッグから取り出し、驚いてモタモタと携帯電話のロックを解除した村藤の手から彼の携帯電話を奪うように掴み取ると、左右両手に持ったそれぞれの携帯電話をテキパキと操作をしてお互いの連絡先を交換している。
「はい」
針ヶ峰の手から返された携帯電話の画面には、彼女の連絡先が映っていた。先程から視線を送っていた男子大学生が「ふぐっ」と羨ましげな鳴き声を発し、ご飯を半ばヤケ気味にかき込みだしている。
「またね。一、二週間以内には連絡するから」
そう言い放ち、また派手な音を立てて椅子を動かし立ち上がると、針ヶ峰は去っていった。
「『じゃあ』って何……?」
あっけにとられた村藤が周回遅れの問いをようやく呟いた時、彼女の姿はとうに食堂から消えていた。ガラスの向こうで寝ていた猫が伸びをして起き上がり欠伸をすると、再び丸くなり眠りにつこうとしている。ドッと村藤から遠く離れている席の集団から歓声が上がった