8.メリンダの葛藤
「メリンダって最近、変わったわよね」
「……え?」
ルームメイトのサルビアから唐突にかけられた言葉に、メリンダは困惑を隠せない。
やましいことをしている自覚があるからこそ、サルビアの意図を色々と勘ぐってしまう。あれこれ考えた挙げ句、メリンダは静かに頭を垂れた。
「――――ごめんなさい」
「ちょ、いきなり謝る人がいる? まずは『どんなふうに?』とか『いい意味、悪い意味?』みたいなことを尋ねるものじゃない?」
サルビアは半ば呆れた表情で、小さく首を傾げた。けれど、メリンダはもう一度「ごめんなさい」と繰り返す。
メリンダが夜中に部屋を抜け出し、どこかへ出かけていることに同室のサルビアは気づいたのだろう。
その上聡い彼女のこと。相手が誰なのか、今どういう状況にあるのか、説明せずとも分かっているに違いない。
メリンダは必死に頭を下げながら、眉間にぐっとシワを寄せた。
「別に私は怒ってるわけじゃないし、謝ってもらうことでもないと思うのよ。そもそも断れるような相手じゃないんだし。私は貴女自身が納得していて、幸せなら、それで良いと思ってるの」
「……分かっているわ。わたし自身、そんなふうに自分に言い訳をしていたの。
だけど最近、わたしがわたしじゃないみたいで、とても怖いしすごく嫌なのよ」
夢はひとたび現実になってしまえば、夢ではなくなる。
最初はふわふわと楽しくても、段々と地に足が付いて、やがては目が覚めてしまう。
こんなこと、ステファンには決して言えない。けれどメリンダは、自分のほんとうの気持ちが分からなくなってきていた。
「そうなんじゃないかなって私も思ったの。だからこうして尋ねてみたんだ。メリンダが悩んでいるように――――迷っているように見えたから」
サルビアは穏やかに微笑むと、メリンダの肩を優しく叩く。メリンダは瞳をブルリと震わせ、それから静かに息を吐いた。
「ごめんなさい。わたし、まだ……」
今はまだ、きちんと自分の心が整理できていない。サルビアに話をしようにも、どこから、何を話せば良いのか分からず、上手く言葉が出てこないのだ。
「大丈夫、無理に話さなくていいの。だけど、必要なら聞くから。いつでも頼ってよね」
「うん……ありがとう」
その日は、そんなふうに会話を終えた。
けれど、それから数日後のこと。
お茶会の招待客である一人の令嬢を前に、メリンダは激しく動揺していた。
「お待ちしていましたわ、リズベット様」
王女ゾフィーが笑顔で迎えるその人はメリンダの恋敵――――ステファンの婚約相手であるリズベット公爵令嬢だ。
(どうして……?)
彼女が招かれていることを、メリンダは聞かされていなかった。おそらくは意図的に伏せられていたのだろう。メリンダがステファンに贔屓されていることを妬んでいたか、二人の秘密の関係に気づいた誰かによって。
もしも今日、リズベットが招かれていることを知っていたなら、メリンダはこの場に居なかった。
別の配置にしてもらうか、休暇を取るかして、リズベットと顔を合わせないようにしただろう。
けれど、今更ここを去るわけにはいかない。見るからに怪しいし、同僚たちにも迷惑をかけてしまう。
メリンダは動揺を必死に押し隠し、給仕をはじめた。
「お兄様と結婚する女性がどんな方か、早く会ってみたかったの。こんなに綺麗な人でびっくりしたわ」
ゾフィーの言う通り、リズベットはとても美しい人だった。
明るく柔らかな色合いの髪に、エメラルドのような大きな瞳。上品で気高く、優しげな雰囲気まで併せ持っている。まるで妃になるために生まれてきたような女性だとメリンダは感じた。
「ありがとうございます、殿下。ですが、先ほどステファン殿下にもお会いしてきたのですが、彼はわたくしがお気に召さなかった様子でしたわ」
「まあ、お兄様が……?」
ほんのりと表情を曇らせるリズベットに、メリンダはビクリと身体を震わせる。
「ええ。頑張って色々と話しかけてみたのですが、お返事をしてくださらなくて……数年前に一度だけお会いしたときには、優しく笑いかけてくださったのですが」
心臓がドッドッと嫌な音を立てて鳴り響く。メリンダは密かに聞き耳を立てつつ、二人から少し距離を取った。
「そんな……ひどいわ! 嫌な想いをさせましたね……わたくし、あとで兄を叱っておきます!」
「まぁ……お心遣い、ありがとうございます。ゾフィー殿下」
「いいえ、妹として当然のことですわ。
それにしても、お兄様ったらどうしたのかしら? 普段は誰にでも優しい自慢の兄なのに」
王女が嘆く。沈黙が落ちる。
ジロリ。
メリンダは同僚たちの視線が密かに自分に集まるのを敏感に感じ取っていた。
(違うわ)
メリンダじゃない。
メリンダはそんなことを望んでいない。頼んでもいない。
ステファンがリズベットに冷たい態度を取ったのは、メリンダのためでは決してない。
だから、メリンダが悪いわけではないのだと――――必死にそう言い聞かせる。
「――――大丈夫です! わたくしが知らないうちに、殿下の気に障ることをしてしまったのかもしれません。これから頑張って、殿下と仲良くなれるよう励みますわ! そうでなければ、国を良い方向に導いていけませんから」
リズベットはそう言って、ニコリと笑みを浮かべた。けれど、彼女が傷ついていることは誰の目にも明らかで。健気で痛々しいリズベットの様子に、皆が同情のため息を吐いた。
「最っ低」
ボソリと、すれ違いざまに囁かれた同僚の言葉に、メリンダは胸が痛くなる。恥ずかしさのあまり、頬が熱く染まる。
言われても仕方がないことをしている――――そう分かっている。
だから、メリンダは必死に前を向く。
何事もなかったかのように振る舞い、その日の仕事を無事に終えた。
「メリンダ」
それから、夜になるといつものようにステファンの部屋に向かった。
彼の腕に抱かれ、甘やかされると、昼間の出来事がなかったかのように――――どうでも良くなってくる。
「愛してるよ、メリンダ」
ステファンにそう囁かれるだけで、心と体が甘く満たされ、癒やされるような心地がした。何度も何度もキスをして、求め、求められることで、自分の罪などどうでも良くなっていった。
「――――メリンダは本当に可愛いね」
高まりきった熱を冷まし、二人で微睡んでいる最中、ステファンが思い出したようにそう囁く。
(メリンダは……?)
いつも全くと同じ言葉だけれど、今夜は誰かと比べられているような――――なんともいえない違和感を抱いてしまう。メリンダはそっと身を乗り出し、ステファンの顔を覗き込んだ。
「あの……ステファン殿下」
「なんだい、メリンダ?」
(――――リズベット様にもう少し優しくなさったらいかがでしょう?)
本当はそう伝えようと思っていた。
けれど、すんでのところで言葉が詰まり、上手く出てきてくれない。
メリンダはステファンが好きだ。
ステファンに愛されるのは自分であってほしいし、他の人に渡したくないという気持ちもある。
(だけど、わたしは本当にそれで良いの?)
昼間のリズベットの表情と言葉が胸にこびりつき、離れてくれそうな気配がない。
彼女はいずれステファンと婚約をし、結婚をする。
けれどそうすると、メリンダはステファンと別れなければならない。離れなければならない。
そのときを思うと、とても寂しいし、辛くなる。
それでも、リズベットこそがステファンに大切にされるべき人で、メリンダは彼女が得られるはずのものを奪っている――――自覚はある。葛藤もある。簡単に消えようはずもない。
「愛しています」
散々悩んだ挙げ句、メリンダはそう口にした。
ステファンは嬉しそうに目を細めると、メリンダに熱く口づけるのだった。