6.溺れゆく、溺れゆく
(どうしよう……)
同僚たちから離れ、一人になったメリンダは、小さな紙片をそっと広げた。
【夜、誰にも気づかれないように僕の部屋に来てほしい】
そう書かれたその紙片は、先ほどステファンから無理やり預けられたものだ。
おまけに彼は「――――待っている。君が来るまで、何時間でも、何日でも」なんて言葉を囁きかけ、切なげな表情を浮かべていた。普段の冗談めかした口説き文句とはひと味もふた味も違っている。
(いやいや、そんなことは関係ないわ)
彼がどこまで本気か分からないが、メリンダが応じなければ良いだけのこと。今後ステファンと二人きりになる気はないし、彼の部屋に行くわけもない。
けれど彼は、メリンダ以外の女性にちょっかいをかけている様子もなかった。
(もしかして本気なの? 本気でわたしだけを想ってくださっているの?)
ふとそんな考えが過り、メリンダの心が激しく揺れ動く。
ステファンから渡された紙片をクシャクシャに丸め、投げ捨てようとして――――メリンダはピタリと手を止めた。紙片を丁寧に開きつつ、美しい筆跡を指でそっとなぞる。
(どうして? どうしてこんなに好きなの? 嫌いになれたら良かったのに)
どう足掻いても、メリンダはステファンへの想いを捨てきれなかった。こんな小さな紙切れすら、愛おしいと思うほどに。
メリンダの瞳から、涙がポタポタとこぼれ落ちる。
叶わぬ恋だと思っていた。望みのない想いだと理解もしている。
けれど、頭の中でステファンの笑顔が何度も何度も浮かびあがり、彼がメリンダのことを愛しげに呼ぶ。ステファンに『好きだ』と言われる想像をして、胸が、身体が甘く疼く。
もしも彼に抱きしめられたら――――。
もう一度口付けられたら―――――――。
そんな想像を何度もし、ありえないと否定をする。
ステファンに会いたい。
会いたくない。
声が聞きたい。
聞きたくない。
相反する想いと戦っているうちに、時間が勝手に過ぎていく。
その日の仕事を終え、身支度を整えたメリンダは、いつものように自分のベッドに滑り込んだ。
「今日も一日、疲れたねぇ」
「うん、そうだねぇ」
同室のサルビアと二言、三言、互いを労う言葉を交わしてから数分、部屋に静寂が訪れる。
メリンダはベッドから身を起こし、しばしの間逡巡し――――それから再び着替えをした。
普段よりも薄めではあるが化粧を施し、髪をゆるく結い、鏡の前でにらめっこをすること数分。
メリンダはそっと部屋を出た。
人気のない城内を歩くだけで、心臓が変な音を立てて騒ぎだす。右に左にキョロキョロと視線をさまよわせつつ、メリンダはゴクリと唾を飲んだ。
(わたしはただ、ステファン様と話をしに行くだけ)
これ以上、こういうことをされては困る。
止めてほしい。
メリンダはステファンの想いに応えるつもりはないのだと、そう伝えに行くだけだ。
だというのに、ひどく悪いことをしている気がし、メリンダの胸が怪しく騒ぐ。
奇妙な罪悪感と戦いつつ、メリンダはゆっくりと足を止めた。
彼の部屋の扉を守る護衛騎士たちは、メリンダの姿を認めてから、頭を下げて後退する。彼女がここに来ることは、彼等に織り込み済みらしい。
ステファンの部屋の前に立ち、メリンダは静かに息を呑んだ。
早くノックをするべきだと分かっている。けれど、どうしても思い切ることができない。
騎士たちの視線を背後から感じ、ものすごく居た堪れないし、落ち着かない。
(やっぱり帰ろう)
メリンダが踵を返そうとしたそのとき、目の前の扉が静かに開いた。
「あっ……」
戸惑うメリンダの視界に飛び込んでくる、ステファンの笑顔。
「待っていたよ、メリンダ」
腕を引かれ、強く抱きしめられる。メリンダの背後で扉がパタンと閉まった。
「ステファン様、わたしは……」
「黙って」
ステファンがメリンダの口を塞ぐ。額に、頬に、唇に口づけながら指を絡め、腰をぐいっと抱き寄せた。
「違うんです! わたしはただ、こういうことをされては困ると伝えたくて……」
「本当に?」
ステファンはそう言ってメリンダを見つめる。ほんの数センチ動けば唇が触れ合うその距離で、ステファンはメリンダの頬を撫でた。
「君は『僕のことが好きじゃない』と、ここで、僕に向かって、そう言いきることができるの?」
「そ、れは……」
メリンダの瞳が左右に揺れる。ステファンは逃さないとばかりに、メリンダと額を重ね合わせた。
「迷惑だって。僕に触れられるのは嫌だって。もう二度と会うつもりはないって、そうハッキリと言えるの? 僕のことが嫌いだって、本気で?」
「違っ……わたし――――わたしは! ステファン殿下のことが好きです。大好きです! だけど、あなたには婚約者が――――」
彼女の言葉はそれ以上続かない。
ステファンは満足気に微笑むと、メリンダの唇を強引に奪う。
心が、身体が甘くて苦くてたまらない。
メリンダの瞳に涙が滲んだ。
「僕はメリンダが好きだ。君が欲しい。今すぐに」
それはこの二年間、聞きたくてたまらなかった言葉だ。
好きな人に愛されて、求められて、抗える人間がどれだけ居るだろう?
喜ばない人間が果たしているだろうか?
――――いや、居ない――――メリンダはそう自分に言い訳をしたくなる。
「僕は君と一緒に居たい。どうか、僕の側に居てくれ」
肌を撫でる手のひら、首筋を滑る唇に、メリンダはゴクリと唾を飲む。
(もう、どうとでもなってしまえ)
これ以上は無理だ。自分に嘘は吐けそうにない。
宙に浮かせていた己の腕を、メリンダはステファンに向かって伸ばす。
激しい口づけの合間、ステファンが口の端を上げ、満足気に微笑んだ気配がする。
メリンダは泥沼に沈みゆく己を自覚しつつ、彼と同じように微笑んだのだった。