5.ステファンの思惑
その日以降も、メリンダに対するステファンのアプローチは続いた。
毎日、毎晩、メリンダの姿を見つける度に、彼は声を掛けてくる。
「おはよう、メリンダ。今日も惚れ惚れするほど可愛いね」
「こんにちは、メリンダ。今日もとても頑張っているね。お疲れ様」
「おやすみ、メリンダ。今夜も幸せな夢を見られるように祈っているよ」
相手が王太子故にツッコむ人間がいないものの、やっていることはナンパ師のそれと変わらない。
はじめのうちは戸惑っていたメリンダも、段々とこの状況に慣れていき、ほんの数日の間に笑って応酬ができるほどに成長していた。
「ステファン殿下は本当にお世辞が上手ですわね」
メリンダが笑ってそう言えば、周りにいる使用人たちも笑顔になる。
これからリズベットと婚約をするステファンが、メリンダを相手に本気になるはずがない。彼はただ、年下の男爵令嬢を可愛がっているだけ――――誰もがそう思っていた。
ただ一人、王太子ステファン本人を除いて。
「――――メリンダ」
ステファンがメリンダを呼び止める。同時に、数人の使用人たちが足を止めた。
最初に口づけを交わした日以降、メリンダが一人きりになる機会はめっきりなくなっている。警戒しているのだろうか? 彼女の側にはいつも同僚たちの誰かが居る。一人きりになる機会を待っていたら、全く声がかけられない。
その上、ステファンがどれだけ思わせぶりな言葉を投げかけても、ハッキリ口説いたとしても、メリンダは冗談として扱ってしまい、まともに取り合ってくれなくなっていた。
(もどかしい)
穏やかな表情のその裏で、ステファンはとても焦れていた。
メリンダにきちんと気持ちを伝えたい。自分がどれほど本気なのか分かってほしい。
それから、メリンダの想いを、本音を聞き出したい――――ステファンはそんなふうに思っていた。
(今ならまだ間に合う)
リズベットとの婚約は内定状態。まだ正式に婚約を結んだわけではない。いくらでも覆せる状況だ。
身分の差はあれども、もしかしたら、メリンダを妃として迎え入れることができるかもしれない。
そのためには、ステファンだけの一方的な想いではダメだ。メリンダにもステファンを愛してもらう必要がある。現状では、周囲を説得するための土俵にすら乗ることができない。
そのうえ、メリンダには一緒にこの国を引っ張っていく覚悟を持ってもらわなければならない。強い想いがなければ、厳しい妃教育を乗り越えられないからだ。
時間が惜しい。あまりにももどかしい。焦るなという方が無理があった。
「今日も君は本当に愛らしいね」
何気ないふりをして、メリンダの手を握り、小さな紙片を握らせる。
彼女は驚きに目を見開きつつ、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「ありがとうございます。殿下にそんなふうに言っていただけて、本当に嬉しい限りです。この顔に産んでくれた両親には感謝せねばなりませんね」
以前よりも口数が増し、自然な笑顔を見せてくれるようになったメリンダ。
お世辞ではなくメリンダは本当に可愛い。そして愛しいとステファンは思う。
彼女の素直な心根が、明るい笑顔が、ステファンはとても好きだった。
男爵の娘だからと控えめだが、彼女の仕事はスピーディーかつ丁寧で、見ていてとても清々しかった。どんな仕事を頼まれても、嫌そうな顔一つすることなく、いつも笑顔で応じている。頼み事をするならば彼女が良い――――そう思わせる何かがメリンダにはあった。
また、仕事とは言え、彼女はよく幼い妹の話し相手にもなってくれていた。
『この間メリンダが【自分も外国語を習いたかった】って言っていたの。【わたしのことが羨ましい】って。
わたしは知らなかったのだけど、貴族の中でも特別裕福じゃなければ外国語や難しい算術は習えないんですって。優秀な先生が来てくれて、勉強を教えてもらえるのって当たり前じゃないのね。
だからわたし、たくさん勉強をして、メリンダに自分が習ったことを教えてあげることにしたの。そしたらきっと、メリンダは喜んでくれるわよね?』
メリンダは王女のやる気を引き出すことにも長けている。演技ではなく本心だからこそ、響くものがあるのだろう。
メリンダの話を聞く度に、姿を見る度に、ステファンの想いは募っていった。
ストロベリーブラウンの柔らかな髪も、薄紫色の美しい瞳も、薔薇のように色づいた頬も、唇も、愛らしい仕草も、声も、彼女の全てが愛おしい。
はじめて口づけたあの日、ステファンにはメリンダの全てが手に入ったような心地がした。
甘い吐息。しっとりと上気した頬。
メリンダの瞳は潤んでいて、熱と欲を孕んで見える。
彼女もきっと自分と同じ想いに違いない。ステファンの気持ちに応えてくれるに違いないと、そう思っていた。
けれど、現実は案外残酷だった。
メリンダは何事もなかったかのような顔をして、ステファンに向かって優しく微笑む。
『どうせ本気じゃないんでしょう?』と突き放すかのような言葉を添えて。
(僕は本気だ。メリンダがほしい)
これ以上、黙って待ち続けることはできない。
ステファンはメリンダと視線を絡めた後、彼女の耳元に唇を寄せた。
「――――待っている。君が来るまで、何時間でも、何日でも」
メリンダだけに聞こえる声音で囁やけば、彼女はほんのりと目を見開き、己の手のひらをそっと見遣る。周りに人がいるため、今すぐ手紙の内容を確認できる状況にないが、どんなことが書いてあるかは容易に想像がついただろう。
それはメリンダに託した一方的な約束。
【夜、誰にも気づかれないように僕の部屋に来てほしい。待っているから】
夜中、ステファンが部屋を抜け出すことは難しい。そもそも、侍女であるメリンダにはルームメイトが居るから、彼が足を運んだところでゆっくり話せる状況にはないだろう。
けれど、メリンダ一人をステファンの部屋に潜り込ませることは十分可能だ。騎士たちに一言、伝えておけばそれで済む。
(メリンダもきっと、僕と話がしたいと思っている)
それは予感ではなく確信。
彼女はステファンの意識が自分に向いていないタイミングを見計らって、いつも物欲しそうな視線を投げかけてくる。ステファンのことを気にかけている。
おそらく本人は、気づかれていないと思っているのだろう。
けれどステファンはメリンダのことが好きなのだ。
誰だって想い人の視線や声音、気配には敏感になる。
ステファンの胸を震わせる、乞うような、強請るような熱い眼差し。濡れた瞳に熟れた唇。彼女がステファンを求めているのは間違いなかった。
メリンダとて、そろそろ我慢の限界だろう。ステファンが何を考えているのか、知りたいと思っているに違いない。
(さて、どうなるかな)
――――早く夜が来てほしい。
背後からの熱視線に気づかないふりをしながら、ステファンはそっと口角を上げたのだった。