4.崩れはじめた日常と、メリンダの決意
次の日、メリンダはいつものように、日の出とともに目を覚ました。
侍女たちの朝は戦場だ。悩んでいたら仕事にならない。
顔色の悪さを隠せるよう、いつもより念入りに化粧をし、きっちりと髪を結い上げ、戦闘服に身を包む。そうすると、嫌でも仕事のスイッチが入った。
ミーティングでその日のスケジュールと割振りを確認したあとは、厨房で湯を受け取り、主人の元へ急いで向かう。
カーテンをそっと開け、寝室を陽の光でたっぷり包み込んでから、メリンダは王女殿下に優しく声をかけた。
「おはようございます、殿下」
「ん……おはよう、メリンダ」
まだ十歳と幼いが、王女の目覚めはとても良い。メリンダはニコリと微笑みつつ、他の侍女たちとともに朝の準備を手伝った。
洗面に着替え、目覚めのお茶の準備、肌や爪の手入れなどなど、朝からやることは山程存在する。
けれど、主人にそうと悟らせては侍女失格。
姫君の朝はあくまでも優雅に、上品でなければならないのだ。
「今日は来客の予定もございませんし、少しだけ髪をおろしてみましょうか。先日お会いになられた侯爵令嬢の髪型を試してみたいと仰っていたでしょう?」
「できるの、メリンダ?」
「ええ。殿下のために結い方を調べてまいりました。練習もバッチリ済んでいますよ」
メリンダは王女の髪を綺麗に梳き、鏡越しに笑みを交わす。それからふわりと愛らしく結い上げた。
身支度を整えたあとは他の侍女たちと別れ、王女を朝食の席へと送り届ける。
すると、そこにはいつものようにステファンが先に座っていて、メリンダは一瞬だけドキッとしてしまった。
(平常心よ、メリンダ。平常心)
王族にとって侍女や騎士というのは置物のようなもの。寧ろ、そうあるべきだと教わっている。
だからメリンダも、他の侍女たちも、恭しく礼をしたあとは、できる限り存在感を消し、この場をそっと後にするのだ。
けれどこの日、いつもと同じように礼をしたメリンダに、思わぬ出来事が起こった。
「おはよう、メリンダ」
爽やかなテノールボイス。それが誰の声なのか――――確認せずともすぐに分かる。
ステファンがメリンダに声をかけてきたのだ。
周囲は驚きに目を見開き、すぐにメリンダを凝視する。騎士たちもそうだが、女性陣は特に『どうしてメリンダだけが声をかけられるの?』とでも言いたげな表情だ。当然ながら、メリンダ自身も大いに戸惑ってしまった。
これまでならば、ただただ嬉しいだけだっただろう。
朝からステファンの声が聞けた。顔が見られた。名前を呼ばれた。これで数日間は頑張れそうだと天にも昇る心地がしただろう。
けれど、今のメリンダには不安要素しかない。やましいことがある分、素直に嬉しいとは思えなかった。
「おはようございます、ステファン殿下」
とはいえ、挨拶をされて返さないのでは不敬に当たる。どうか何事もありませんように――――祈るような気持ちでメリンダは頭を下げた。
「うん、おはよう。昨日はよく眠れた?」
しかし、メリンダの願いはステファンには届かなかった。彼は挨拶だけで会話を終わらせる気がないらしく、メリンダに対して質問を投げかけてきた。
あまりにも思いがけない出来事に、皆が存在感を消すことも忘れ、二人のことを見つめている。
(どうして殿下は普通にしていられるの? どうしてわたしに話しかけたりできるの? わたしたち、昨日、口付けしたのよ?)
彼は婚約を控えているというのに――――――。
それなのに、どこか楽しげな彼の様子に、メリンダは思わず面食らってしまう。
メリンダは顔をあげぬまま、大きく息を吸い込んだ。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。昨夜は幸せな夢を見たため、ぐっすりと眠ることができました」
淡々と感情を削ぎ落とした声音。おそらくステファンには冷たい言い方に聞こえただろう。
とはいえ、メリンダはただの侍女。ビジネスライクな言い方をしたところで、違和感はない。寧ろ周りもそうあるべきだと思っているに違いない。
けれど、ステファンはグッと身を乗り出し、ほんのりと首を傾げた。
「ぐっすり? そうか……意外だなぁ。僕のほうはドキドキして、ちっとも眠ることができなかったのに。メリンダはすごいね。肝が座っている」
(なっ……!?)
さり気なくなにかがあったことを匂わせるステファンに、メリンダは内心ビクビクしてしまう。
けれど、周囲に動揺を悟られる訳にはいかない。声を上げそうになるのを必死で堪えた。
「だけど、幸せな夢か……なるほど。それは『嬉しかった』と――――僕と同じ気持ちだって受け取っても良いのかな? 僕は夢を夢で終わらせる気はないんだけれど、メリンダも一緒ってことで良いんだよね?」
「――――――申し訳ございませんが、わたくしにはなんのことだか分かりません。夢は夢です。それ以上でも以下でもございませんわ」
周囲の勘ぐるような視線に気づかないふりをしながらメリンダはそっと首を傾げる。それから彼女は「失礼します」と口にし、ゆったりとした歩調でその場を後にした。
けれど、部屋を出て、一人きりになったその瞬間、メリンダはズルズルとその場に座り込む。
(なんなの、あれ……)
火照った頬を手のひらで冷ましながら、メリンダは首を横に振った。
メリンダは昨日、はじめてステファンに話しかけられた。
ステファンが自分の名前を知っていると知ったのもそのときで、彼との会話はあの一回きりだと思っていた。
けれど彼は、再びメリンダに声をかけてきた。
それも、他にも使用人たちがたくさんいる朝食の場で、メリンダだけに声をかけ、彼女を特別扱いした。
おまけにステファンは、メリンダとの関係を――――彼女とキスをしたことを、周囲にバレても良いと思っているような口ぶりだった。匂わせようとしていた。
戸惑うなというほうがどうかしている。メリンダは大きく息を吐いた。
先ほど平静を装った反動だろうか? 今になって心臓がバクバクと嫌な音を立てて鳴り響いている。全身を冷たい汗が流れ、手のひらがブルブルと震えだす。己をかばうようにして、メリンダは自分自身をギュッと抱きしめた。
(ステファン様は何がしたいの? これから婚約をするというのに、一体どういうおつもりなの?)
どうして今なのだろう?
――――もしも婚約が決まる前なら、ただただ嬉しいだけだっただろうに。
どうしてメリンダなのだろう?
――――これまでそんな素振りは微塵も見せなかったのに。
次から次に疑問が湧き上がり、尽きそうな気配がちっともない。
(――――もしかしたら、ステファン殿下は結婚するのが嫌なのかしら?)
ふと浮かび上がった仮説に、メリンダはハッと顔をあげる。
(きっとそうだわ。だからわたしに声をかけているんじゃないかしら? もしかしたら、わたし以外の侍女にも声をかけているのかも)
結婚が決まってから遊びたくなるタイプの男性は多いと聞く。もしかしたらステファンもそういうタイプなのかもしれない。自由な日々が終わることや束縛を恐れ、現実逃避をしているのやも。
(良かった)
だとしたら、メリンダが気を揉む必要はない。時間が解決してくれるはずだ。
何と言っても彼は王太子。己の責務から逃れられないことは自覚しているはずだし、周りもそれを許しはしない。
メリンダは今日のようにステファンの言葉をのらりくらりと交わしつつ、彼が飽きるのをひたすら待てば良い。
侍女頭やステァンの側近たちからは苦言を呈されるかもしれないが、メリンダ自身に応える気がないなら大したお咎めはないだろう。
(そっか。そう考えたら気が楽かも)
好きな人の顔が間近で見れる。
自分の名前を呼んでもらえる。
優しい言葉を投げかけてもらえる。
甘く口説いてもらえる――――そんな幸せなことは中々ない。
それは、どれほど望んだところで決して得ることのできなかったメリンダの夢だった。
(ステファン殿下、今日も素敵だったなぁ)
先程のやり取りを思い返しつつ、メリンダはウットリと胸をときめかせる。
彼がこの先もメリンダにアプローチをかけるつもりかどうかは分からない。
だが、一人で思い悩んでウジウジするより、この状況を楽しんだほうがずっと良い。絶対、そうに違いない。
メリンダは勢いよく立ち上がり、よし! と気合を入れ直す。
それから何事もなかったかのように、颯爽と仕事に戻るのだった。