3.国王陛下ステファンの場合(最終話)
夢でも見ているのだろうか――――ステファンは静かに目を見開く。
ストロベリーブラウンの柔らかな髪、薄紫色の透き通った瞳、整った愛らしい顔立ち。
どれを取っても記憶の中の愛しい人とちっとも変わらない。
「メリンダ……」
ステファンが呟く。
この19年間、メリンダを忘れたことは一度たりともなかった。
妃となったリズベットとの関係は至って良好だったし、子だって成したけれど、二人の関係はまるで戦友のようなもの。互いに男女の愛情が存在するわけではなかった。
『あなたのその愛情が、国のために繋がるなら、わたくしはそれで構いませんわ』
リズベットが微笑む。
彼女が愛していたのは妃としての自分であり、国そのものだった。
だからこそ、リズベットはステファンがメリンダを思い続けることを許してくれたのである。
ステファンは毎日毎晩メリンダのことを思い出しては、彼女の幸せをひたすらに願う――――幸せでいられるようにと政務を必死にこなしてきた。王太子から国王へ即位して以降も、それはちっとも変わらない。彼の想いは揺らがなかった。
だから、古参の一人から『メリンダによく似た女性が城に来ている』と聞かされて、じっとはしていられなかった。
(会いたい――――メリンダに)
これまで、どれだけその葛藤と戦ってきただろう? もしもメリンダのほうから会いに来てくれたなら、ステファンが耐えられるはずはない。
会いたい。
声が聞きたい。
そのまま強く抱き締めたい――――そう思ってしまうのは致し方ないことだ。
目の前の若い男女はすぐに道を開け、恭しく頭を下げた。ステファンの視線、言葉に戸惑っているのが見て取れる。
逸る気持ちを抑え、ステファンは前に進む。男女のすぐ側まで来てから、彼は歩を止めた。
「――――顔を上げなさい」
焦燥感のあまり声が震える。
男女はおそるおそるといった様子で、ゆっくりと顔を上げた。
(メリンダ――――――ではない)
もう一度、間近で見る女性は、記憶の中のメリンダとはほんの少しだけ違っていた。
目鼻立ちはよく似ているし、髪も瞳も色合いがそっくりだ。けれど、醸し出す雰囲気がメリンダよりも少しだけ柔らかい気がする。
そもそも、メリンダはステファンと同年代だ。こんなに若いはずがなかった。
けれど、他人の空似と言うにはあまりにも似すぎている。
ステファンは少女をまじまじと見つめつつ、ゆっくりと大きく呼吸をした。
「君は――――君の名前は?」
ステファンが尋ねる。
返事をしてよいか確認を取っているのだろう。少女は隣の男性と目配せをしてから、おそるおそる口を開いた。
「はい、メアリーと申します」
「そうか……メアリー、君はメリンダという女性を知っているだろうか?」
心臓がドキドキと鳴り響く。メアリーは瞳を瞬き、ステファンのことをそっと見上げた。
「その……同じ人物を指しているかは分かりませんが――――わたしの母がメリンダという名前です」
――――やはり。
ステファンの目頭が熱くなる。
間違いない。
メアリーはメリンダの娘だ。
嬉しいのか、悲しいのか、自分でもよく分からない感情が心のなかで暴れている。ステファンはそっと胸を押さえた。
「そうか……。急に呼び止められてびっくりしただろう。
私はステファン――――この国の国王だ」
ステファンの身分に気づいていなかったのだろう。メアリーはハッと大きく息を呑み、それからもう一度深々と頭を下げた。
「頭を上げて――――そうかしこまる必要はない。
メリンダは昔、この城で働いてくれていてね」
「え……? そうなのですか?」
メアリーはまたしても目を丸くする。
予想はしていたものの、彼女はメリンダの過去を知らされていないらしい。
(メリンダは僕が想うほど、僕のことを想ってくれていなかったのだろうか?)
ステファンの胸がチクリと痛んだ。
「ああ。彼女はとても優秀な侍女だった。明るくて素直で、働きものでね。私はメリンダが大好きだった。
君はメリンダによく似ている。懐かしすぎて、ついつい声をかけてしまったんだ」
言いながら、涙が零れ落ちそうになる。ステファンは必死で笑顔を取り繕った。
「そうでしたか……母のことを覚えていてくださって、ありがとうございます」
「当然のことだよ。それで、今、メリンダはどこに……?」
尋ねつつ、ステファンの胸がドキドキと鳴る。
メリンダとはもう二度と会えないと思っていた。けれど、こうして彼女に繋がる手がかりが見つかった以上、会いたいと願ってしまうのは仕方がないことである。
「――――母は二年前に亡くなりました」
「え……?」
その瞬間、ステファンはその場に崩れ落ちそうになった。周りに人がいる手前、なんとか堪えることができたものの、その動揺はあまりにも大きい。
「メリンダが亡くなった……」
そんなの嘘だ。とても信じられない――――信じたくなかった。
目頭が熱い。
このまま感情のままに涙を流せたらどれだけいいだろう? 声を上げられたらどれだけいいだろう?
けれど、メリンダがいなくなって以降のステファンは王族らしく、常に気高く振る舞ってきた。人前で涙を流すなどとんでもない。弱みも迷いも、誰にも見せてはならない。常に完璧な王族として凛と立ち続けなければならない。
それこそがメリンダが愛した自身の姿であり、彼女を愛することに繋がるのだと、そう信じて。
「――――メリンダは一体、どうして……?」
「風邪をこじらせてしまったんです」
メアリーが言う。ステファンは自分をなだめるため、何度も深呼吸をした。
(そんな……そんなことで)
もしも自分が側に居たらなら、メリンダはもっと長生きできたのではないか? 彼女を守ることができたのではないか? 少なくとも、こんなふうに知らない間に彼女を失うことはなかったのではないか? ――――そんな想いが胸を突く。
「メリンダの夫は――――君の父親は、何をしていたんだ?」
なんで守ってやらなかったんだ?
メリンダを愛していたのだろう?
どうして、どうして――――?
尋ねながら、ついつい咎めるような口調になってしまう。
「わたしには父がおりません。
雇い主である伯爵様がお医者様を手配してくださったのですが、治療がうまくいかなくて――――」
「え……?」
父親が居ない?
(どういうことだ――――?)
ステファンの動悸が強くなる。彼は思わず身を乗り出した。
「居ないのか? 父親が?」
「……? はい。わたしは父親の顔を知りません。生まれたときからいなかったそうです。
ですから母はわたしを育てるために、ジェラルドの――――彼の乳母として伯爵家で働いていました」
メアリーが隣のジェラルドを指す。ステファンは密かに息を呑んだ。
「君は……君たちは今、何歳だ?」
「18歳です」
(18歳――――)
メリンダが城を去ったのは今から19年前。
ステファンは自分と、メアリーとを交互に見遣る。それから口元に手を当てた。
(まさか、まさか……!)
メリンダにそっくりな愛らしい少女が、自分をまじまじと見つめている。
二人の繋がりを証明するものはなにもない。
確かめる術もなにもない。
けれどメアリーはきっと――――メリンダとステファンの子供なのだろう。
「陛下? あの……」
「――――君の父親はひどい人だな。メリンダを――――君を放って置くだなんて、本当に許しがたいことだ」
悔しい。
苦しい。
申し訳なさのあまり、ステファンの声が小刻みに震える。
メリンダはステファンを恨んでいるだろうか? 彼女を無理やり手籠めにしたことを。こんな生活を余儀なくされたことを。
もしもステファンが彼女を見初めなかったら、彼女は男爵家の令嬢として、ある程度満ち足りた生活が送れただろう。普通に結婚をし、普通に子を育み、もっと長生きができたに違いない。
それに、一人で子供を育てるのは、あまりにも心細かっただろう。経済的にも不安だったろうし、本当に負担が大きかったに違いない。
ステファンだって本当は、メアリーの成長を見守りたかった。何不自由ない生活を送らせたかった。もしもメアリーの存在を知っていたなら――――知らせてもらえていたなら――――いや、今更何を言っても仕方がない。
それでも、ステファンは全てのきっかけを作った過去の自分が許せなかった。
「そんなことはありません!」
けれどそのとき、メアリーが静かに声を上げた。
「生意気を言って申し訳ございません、陛下。
けれど母は、父のことを心から愛していました。『貴女のお父さまは本当に素敵な人なのよ』っていつも嬉しそうに口にしていましたし、わたしにも『自分の父親を誇りなさい』って言ってくれて――――ですから、放って置かれただなんて思っているはずがありません」
メアリーが真っ直ぐにステファンを見上げる。
国王を相手に意見をするなど、どれほど勇気のいることだろう。
けれど、メアリーは言わずにはいられなかったのだ。それほど強い想いなのだ。
そうと分かっているからこそ、ステファンの瞳に涙が滲む。
嬉しくないはずがない。けれど、こんな情けない姿を誰にも見られてはいけない――――彼はほんの少しだけ目を伏せた。
「母が亡くなってしまったのは仕方がないことだったんです。誰のせいでもありません。
ですから、父のことをそんなふうに仰らないでください。
わたしも、母も、父のことが大好きなんです」
ああ――――ダメだ。
18年間ずっと、完璧でいようと努力してきた。メリンダの望む自分でいようと決めていた。
けれど、メリンダの想いをこんな形で聞かされて、平気でいられるはずがない。
ステファンの瞳から涙が零れ落ちた。
「……すまなかった。
メリンダを失ったことがあまりにも残念で――――悲しい。我が国は本当に惜しい人を亡くしてしまった」
泣いていることを必死にごまかしながら、ステファンが言う。
メアリーはほんのりと瞳を細めつつ「ありがとうございます」と口にした。
「陛下にそんなふうに言っていただけて、母もきっと喜んでいると思います」
「――――そうだろうか?」
「もちろんですわ。
生前、母はいつも申しておりました。『わたしたちが幸せに暮らせているのは、陛下が国を守ってくださっているからなのよ』って。母は陛下のことを敬愛しておりましたもの」
メアリーが微笑む。
それはこの18年間、ステファンがずっと求め続けていた言葉だった。
(届いていた)
ステファンの想いは、愛情は、ちゃんとメリンダに届いていたのだ。
嬉しかった――――あまりにも。
ステファンはそっと身をかがめ、メアリーの顔を覗き込んだ。
「そうか……メアリーは今、幸せかい?」
目頭が熱い。心が震える。
けれど、ステファンは尋ねずにはいられなかった。
「もちろんです! 国が平和で、豊かで、周りのみんなも優しくて――――こうしてジェラルドとも結婚もできましたし。毎日が満ち足りていいて、本当に本当に幸せです!」
メアリーが笑う。メリンダによく似たとても幸せそうな表情で。
ステファンは少しだけ目を見開き、それから静かに目を瞑った。
(メリンダ――――僕はちゃんとやれただろうか? 君への愛を証明できたのだろうか?)
風が吹く。それは優しく頬を撫で、ステファンの涙をそっと拭った。
『ステファン様――――わたしはとても幸せでした。貴方が治めるこの国で平和に生きてこられたこと――――最後の最後の瞬間まで、わたしは貴方に愛されていると心から感じておりました。
今なら胸を張って言うことができます。わたしは貴方を愛しています。
わたしの願いを叶えてくださってありがとう』
鼻腔を擽る懐かしい香り。誰かに優しく抱き締められるかのような温かな心地がする。
「ありがとう、メアリー。
私は今日ほど――――国王に即位して良かったと思った日はないよ」
拭っても拭っても涙が止めどなく零れ落ちる。
グシャグシャになったステファンの顔は完璧とは言い難い――――だが、メリンダもきっと許してくれるだろう。
(愛しているよ、これから先もずっと、ずっと)
メアリーを見つめながら、ステファンが微笑む。
温かな風がもう一度彼の頬を優しく撫でた。
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