2.文官ジェラルドの場合
カーテンの隙間から射し込む陽の光に、ジェラルドはふと目を覚ました。
狭い寝室、狭いベット。
シーツも、布団も、周りの調度品だって、一級品というわけではない。
けれどそこは、とびきり温かく何にも代えがたい愛おしい空間だった。
(メアリー)
美しいストロベリーブラウンの髪を撫でながら、ジェラルドはそっと瞳を細める。
アカデミーを卒業したあと、ジェラルドはメアリーを連れて伯爵家を出た。
ただそれは、勘当をされたからというわけではない。
家督を捨てた以上、これからは自分の力で歩いていく必要がある。無理を言って欲しいものを手に入れたのだ。親や家におんぶにだっこで生きていく――――そんな生き方ではいけない。それは自ら家督を捨てるという決心をした、ジェラルドにとっての一つのけじめだった。
領主補佐をするという道もないわけではないが、それではジェラルドの気がすまない。
このため彼は、アカデミー在学中に猛勉強をして難関試験を突破し、無事に文官として採用されることが決定したのである。
これまで貴族令息として何不自由ない生活を送ってきたジェラルドにとって、生活の落差は当然大きかった。
使えるお金は段違いに減ったし、使用人を雇っていない分、メアリーに負担をかけている自覚はある。アカデミーの学費やこれまでの生活費だって、いつかは伯爵に返したいところだ。
それでも、彼は今、驚くほどに幸せだった。
メアリーがそばにいてくれるだけで、ジェラルドはどこまでも強くなれる。
貴族だから、平民だから――――一体何が違うというのだろう? 全く違わないとは言わないが、そのことが理由で一緒に生きていけないなんて馬鹿げているというのがジェラルドの持論だ。
本来なら、特別な身分などなくとも、人は幸せに生きていける。平民のほうが貴族よりも余程多いのだし当然だ。
けれど、貴族というのはとかく身分にしがみつこうとする。この地位を降りれば、何もなくなってしまうというような勘違いをする。
本当に大事なもののためならば――――本当に大事なものだからこそ、ジェラルドは迷わず手を伸ばした。
「ん……」
そのとき、隣からくぐもった声が聞こえてきて、ジェラルドはハッと目を見開く。愛らしいメアリーの声音だ。
「ジェラルド……?」
「ごめん、起こした?」
愛しいと思えばこそ、ついつい触れてしまいたくなってしまう。ずっと見つめていたくなってしまう。
けれど、そのせいでメアリーの安眠を妨害したとあっては申し訳ない。ジェラルドはそっと眉尻を下げた。
「ううん、平気。自然に目が覚めただけだから。むしろ、ジェラルドの幸せそうな顔が見れて嬉しい」
メアリーはそう言ってふにゃりと微笑む。朝の一時だけ見せてくれる無防備な表情だ。
(可愛い)
こみ上げる幸福感。激情。
ジェラルドは溢れ出る想いのままにメアリーを抱き締めて、何度も何度も口づけた。
メアリーのこんな表情も、涙が出るほどの幸福感も、彼女との結婚が叶わなかったらずっと知らずにいただろう。
それに、もしもメアリーが自分以外の男と結ばれていたら――――愛情を口にし、微笑みかけ、抱き締められていたとしたなら――――考えるだけでおぞましい。ジェラルドはきっと正気でいられなかったに違いない。本当に良かったとジェラルドは思う。
「ねえ、何を考えていたの?」
「ん? 俺が考えてるのはいつだってメアリーのことだよ」
ジェラルドが微笑む。
それは誇張表現でもなんでもない。ジェラルドの頭の中はいつだって、メアリーのことでいっぱいだった。
どこにいても、なにをしていても、メアリーと結びつけて考えてしまう。
(もはや末期だな)
メアリーの頬を撫でながら、ジェラルドはそっと自嘲した。
「それよりジェラルド、今日って、本当にわたしが行っていいの? 邪魔にならない?」
段々と目が冴えてきたのだろう。メアリーがそんなことを尋ねてくる。
「もちろん。むしろ連れて行かないと俺が殿下に怒られてしまうよ。噂の愛妻に会わせてほしいっていうオーダーなんだから」
爵位を諦めたからといって、低水準の生活を送る必要は決してない。メアリーに良い生活を送らせるためならばジェラルドは努力を惜しまないし、使えるものはなんだって使う。
文官として生きていくにあたって、人脈は広ければ広いほど良いし、できる限り偉い人物と知り合いになりたい――――そんな魂胆から、ジェラルドはアカデミーの在学中に、王太子との交流を持つことに成功した。
秀才揃いのアカデミーの中でもジェラルドは優秀だったし、向上心も強い。彼はすぐに王太子に気に入られた。
『何がお前をそんなに突き動かすんだ?』
ジェラルドが自身の原動力――――メアリーとの結婚や弟に家督を譲ったことを伝えたところ、是非詳しく話を聞かせてほしいと言われていた。そうして今日、アカデミーが長期休暇の間に、メアリーと共に王宮に足を運ぶことになったのである。
「そっか……そうよね。だけど、緊張してしまうわ。なにかとんでもない粗相をしないと良いのだけど」
「大丈夫だよ。俺がちゃんとフォローするから。メアリーは安心して、俺についてきて」
ジェラルドが微笑む。
メアリーは困ったように微笑みつつも、コクリと小さく頷いた。
***
「ジェラルド、大丈夫? わたし、変じゃない?」
「もちろん。最高に似合ってる。……すごく可愛いよ」
メアリーには、この日のためにとっておきの一枚を準備した。
繊細な刺繍とレースの施されたオフホワイトのドレスに、彼女の瞳の色に合わせたアメジストのネックレス。
それらは結婚式を挙げていないメアリーへのささやかな贈り物だった。
「こんな格好をするのはうまれてはじめて。すごくドキドキしちゃう……本当に変じゃない?」
「もちろん! 本当にすごく可愛いよ。落ち着かないかもしれないけど、王宮に行くからには、きちんとした格好をしていかなければならないからね」
こういう言い訳でもしなければ、メアリーは高価なドレスに袖を通してくれないだろう。似合わない、見合わないと断られてしまうに違いない。
それに、しっかり者のメアリーのことだ。生活のことや身分の差、伯爵家の体面なんかを気にして、今後もウェディングドレスが着たいとは言わないだろう。
けれどジェラルドは、メアリーの花嫁姿が是が非でも見たかった。
確かにメアリーは何を着ても可愛い。侍女のお仕着せもとても似合っていたし、ジェラルドは大好きだ。
それでも、ジェラルドは愛しい人との幸せな瞬間を、きちんと分かち合いたかった。
(もっと出世して、生活が安定したら、そのときにはきちんとした式を挙げよう)
貴族の息子の妻ではなく、文官として成功した男の妻としてならば、彼女も少しは胸を張ってくれるだろうか――――そうだったら良いとジェラルドは願う。
メアリーが心から喜んでくれる瞬間を夢見て、彼はうっとりと目を細めた。
王宮に着くと王太子の侍女がジェラルドたちを出迎えてくれた。先導を受け、二人は静々と城を歩く。
ジェラルドにとって王宮は職場で、慣れ親しんだ場所になりつつあるのだが、メアリーにとっては相当緊張を伴うらしい。身体がカチコチになっている。そんな姿すらも愛らしく、ジェラルドはついつい笑ってしまう。
とはいえ、王太子の私室に向かうのは彼にとってもはじめてのこと。いつも働いている執務用の棟を抜けると、内心緊張をしてしまう。王族たちの生活の場とあり、宮殿は豪奢で、ひときわ輝いているように見えた。
と、そのとき、ジェラルドたちの向かう方角から、数人の男性が見えてきた。
王太子が出迎えに来てくれたのだろうか――――一瞬そんなふうに思ったものの、真ん中の人物も、その周りの人物たちも、とても同年代とは思えない。どちらかといえば、ジェラルドの父親たちと同じぐらいの年代だ。
美しく豪奢な衣装、滲み出る高貴なオーラ。ジェラルドは急いで道の脇に移動し、頭を下げるようメアリーに耳打ちをする。
「メリンダ……?」
と、そのとき、男性がそう呟いた。
「…………え?」
驚きに見開かれた瞳。
男性が口にしたのは、二人にとって慣れ親しんだ名前である。
ジェラルドとメアリーはそっと顔を見合わせた。




