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1.侯爵令嬢アリティアの場合

 ある晴れた日の午後のこと、侯爵令嬢アリティアは、婚約者の屋敷を訪れていた。



「本当に、いつ来てもこの屋敷は落ち着くわね。私の実家とは大違いだわ」



 花々で彩られた明るい庭園。テーブルには美味しいお茶と茶菓子が並べられ、とても穏やかな時間を過ごせている。


 はじめて訪れたときから、アリティアはこの屋敷が好きだった。


 丁寧に手入れをされた草花、品よく古いが大切に使われている調度類。住人たちの人柄が見えてきて、和やかな気持ちになることができる。

 実際、主人である伯爵も、使用人たちも、婚約者自身も親切温厚で優しかった。



「そんなふうに言ってもらえて光栄だな。こんなことなら、アカデミーになんて入るんじゃなかったよ。そうすればもっと頻繁に来てもらえたのに」



 茶目っ気たっぷりに口にするのは、ジェラルドに代わって伯爵位を継ぐことになったジェフリーだ。


 アリティアと同い年の16歳で、昨年、婚約とほぼ同時にアカデミーへ入学している。

 兄とは少しタイプが異なるが、明るく真面目で、領主向きの好青年である。



 この縁談についてアリティアは『次期伯爵家当主と婚約をする』と聞かされていた。本来ならば、長兄であるジェラルドが結婚相手となるはずだった。


 だが、途中で状況が変わってしまったらしい。いや――――そもそも最初に名前を聞かされていなかった時点で、こうなることは伯爵家にとっては想定の範囲だったのだろう。



 それで良い――――アリティアははじめて屋敷に忍び込んだときに出会った侍女の顔を思い出しつつ、ふふと唇を綻ばせた。



「今度僕も、君のお屋敷に行っても良い? そろそろ侯爵さまにご挨拶をしたほうが良いと思うんだ。式の打ち合わせもさせていただきたいし」


「そうねぇ……来てもらってもいいけれど、侯爵とは全く話にならないわよ? うちの屋敷には2つの勢力が存在するから。話すとしたら母のほうね」


「……2つの勢力?」



 ジェフリーの問いかけに、アリティアはコクリと大きく頷く。



「――――もしかしたら幻滅させてしまうかも知れないのだけど……聞いてくれる? 結婚前に話しておきたかったことがあるの」



 余程大事な話なのだろう。アリティアがしっかりと前置きをする。ジェフリーは「もちろん」と口にして、穏やかに微笑んだ。



「私の母はね、元々は伯爵家の令嬢で、何不自由なく育てられたの。祖父も祖母も優しい人だったし、周りもすごく温かくて……。

だけど、母の一番の望み――――身分の低い好きな人と一緒になることだけは叶えられなかった。貴族の令嬢として、政略結婚を求められた結果だったわ。

だけど、そのせいで一度、母は心を病みかけてしまった。

――――といっても、母がわがままだったせいじゃないのよ? 夫である侯爵にはこれまた身分の低い愛人が居てね? 彼に愛してもらえなかっただけでなく、屋敷ぐるみで冷遇されてしまったから」



 アリティアはどこか遠くを眺めつつ、小さくため息を吐く。ジェフリーは時折頷きながら、黙って彼女の話を聞いていた。



「あまりの弱りように、母は一度、実家――伯爵家に連れ帰られたの。そして、祖父は母と侯爵とを離婚させようとしたわ。

だけど、元々が政略結婚だし、母側の立場のほうが弱かったから叶わなくてね。

母は泣く泣く侯爵家に戻ったわ。

――――だけど、そこから母の反撃がはじまったのよ」



 風がざわめく。そのせいだろうか? アリティアの声は、どこか小さく震えていた。



「母は自身が幼い頃から雇っていた有能な執事を、自分の味方として侯爵家に連れ帰ったの。これまで禄に与えられなかった食事や身の回りの世話、社交や領地経営にかかることまで全て、その執事と実家を通じて行って、生活の基盤と侯爵家における地位を整えていった。

それこそ、独身時代と変わらないぐらい、贅沢でなに不自由ない生活を送りはじめたのよ。

そうこうしているうちに、母を冷遇していた侯爵家の人間たちも、段々と母の味方につきだしてね――――そうして、今の内部分裂した冷たい冷たい侯爵家ができあがったっていうわけ」



 説明を一気に終え、アリティアはちらりとジェフリーを見遣る。彼の表情は先ほどまでと変わることなく、穏やかで優しいものだった。



 けれど、アリティアにはまだ、彼に伝えていないことがある。



 知ったらどんな反応をされるのだろう?

 結婚をするからといって、全てを知らせる必要はないんじゃなかろうか?


 

 アリティアの中で色んな感情がせめぎ合う。

 心臓がバクバクと鳴り響き、緊張のあまりひどく喉が渇いた。



「――――大丈夫。言いたくないことは言わなくても良いんだよ?」



 アリティアの様子がおかしいと察したのだろう。ジェフリーは穏やかに微笑みつつ、彼女の顔を覗き込む。



「ありがとう、ジェフリー。だけど……できればあなたにも知っておいてほしいの。

私は表向き、侯爵家の令嬢よ。世間からもそのように思われているし、届け出だってされているわ。

だけどね――――母と侯爵は、一度だって寝室を共にしていないの」



 ドレスをギュッと握りしめ、アリティアは言う。



 アリティアの秘密。

 彼女は侯爵の実の娘ではない。


 父親が誰なのか――――それは公然の秘密だ。

 妻の妊娠を知った侯爵は、相当激怒したらしい。自分から『愛さない』と宣言し、愛人を引き込めばいいとまで言い放ったくせに、実に身勝手な話だ。



(実際のところ、お互い様なのよね)



 侯爵は侯爵で、愛人との間に息子を作っている。二人の夫婦関係は完全に破綻していたのだ。



 それでも、侯爵はアリティアの母親――――アリスと離婚をしなかった。自身と血の繋がっていないアリティアを娘として世間に認知させた。


 それが全く形を成していない世間体のためなのか、はたまた無意味な執着のためなのか、答えは誰にもわからない。

 アリス自身尋ねようとも思わない。



 だが、アリティアの結婚を機に、アリスと侯爵は正式に離婚をすることが決まっている。



 ようやくアリスの一番の望みが――――好きな人と真の意味で一緒になることが叶うのだ。



「ふぅん……それで? それがどうかしたの?」



 ジェフリーが答える。アリティアはハッと顔を上げ、自身の婚約者をまじまじと見つめた。



「どうかしたの……って」


「アリティアはアリティアだろう? 父親が誰だろうが、僕は全く気にしないよ」



 穏やかで温かなジェフリーの言葉がアリティアを優しく包み込む。彼女は目頭が熱くなった。



「良いの? ……本当に? もしかしたら、私のせいであなたまでひどいことを言われる日が来るかもしれないのに……」


「そのぐらい何てことないよ。どんな理由であれ、君を悪く言う人間がいたら許さないし、僕が全力で守るだけだ。夫婦ってそういうものだろう?」



 アリティアの瞳からポロポロと涙が零れ落ちる。

 

 物心がついた頃から、アリティアはずっと悩んでいた。怯えていた。

 母親が悪いとは思わない。アリスは完全な被害者だ。


 けれど、不義の子である自分には、貴族としての正当性がない。

 社交界に出たときや、結婚をするときに、そのことで辛い思いをするのではないか? 馬鹿にされ、蔑まれ、下手をすれば人として扱われないのではないだろうか? ――――そんなふうに思っていたのだ。



「誰の子として生まれるかということより、どんなふうに生きるかのほうがずっとずっと大事だと思う。そもそも、貴族の血が流れているかどうかなんて、身なりや立ち居振る舞いでしか判断できないだろう?

もしかしたら、僕たちが知らないだけで、とんでもなく高貴な血の持ち主が身近にいるかも知れないし、ね」



 アリティアの頭を撫でながら、ジェフリーは穏やかに瞳を細める。



「……それもそうね」



 人は誰しも親を選ぶことができない。

 けれど、どんなふうに生きていくか――――それを決めるのは、他ならぬ自分自身だ。



「ジェフリー、私……幸せになりたい」



 元々は普通の政略結婚ができればいいと思っていた。可もなく不可もない、平凡な貴族の家庭を築ければそれで満足だった。



 けれどアリティアは欲が出た。



 この人と共に幸せになりたい――――アリティアの言葉に、ジェフリーは力強く頷く。



「もちろん。幸せになろう」



 二人は額を重ね合い、触れるだけの口づけを交わした。


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