11.たとえ空っぽの手のひらでも(3章最終話)
アリティアの来訪から数日が経った。
伯爵家は表面上、平和な日々が続いている。
けれどメアリーは、アリティアの言葉を思い返しては、一人で悩み続けていた。
『……私はね、本当に好きな人がいるなら、その想いは大切にすべきだと思うのよ。
数年前に陛下の妹君も身分の低い男性と結婚をなさったことだし、昔に比べて身分が絶対っていう風潮は和らいできた。結婚へのハードルだって下がってきているわ。形や体面ばかりを重視するせいで、中身が歪な結婚をするよりも、余程良いと思うの』
アリティアにはメアリーの想いを見抜かれていたのだろうか? だからこそ、彼女はそんなことを言ったのだろうか? 分からない。
けれど、メアリーの想いを貫くことは、アリティアの幸せを奪うことに繋がるはずだ。
ジェラルドと結婚すれば、アリティアの願い――――ごく普通の政略結婚は叶うに違いないのだから。
それでも、ジェラルドの顔を見るたびに、彼に名前を呼ばれるたびに、メアリーはジェラルドに惹かれていく。想いが強くなっていく。
伯爵から接触を制限されてしまっているのか、ここ数日、屋敷内で顔を合わせることはないけれど、彼の存在を感じるだけでメアリー嬉しくて、それから悲しい。
まるで答えのない迷宮に迷い込んだ気分だった。
けれど、いつまでもこのままでは居られない。
メアリーは一人、伯爵から呼び出しを受けていた。
「――――どうしてここに呼ばれたか、メアリーには分かっているかな?」
ふたりきりの応接室。メアリーはギュッと目を瞑り、伯爵に向かって深々と頭を下げる。
「……はい。申し訳ございません」
ジェラルドが婚約を拒否している理由がメアリーにあることは、伯爵だって当然知っているはずだ。彼は父親を説得すると話していたし、メアリーへの好意を隠しはしなかったから。
本当は分からないふりをしたかった。気付かないふりができたらどれほど良かっただろう?
伯爵が何と言うか――――反応があまりにも怖い。メアリーはブルリと身体を震わせた。
「それで? 君はこれからどうする気なんだい?」
伯爵が尋ねる。口調は穏やかだが、いつもよりも冷たく感じられた。
「わたしは……お世話になった旦那様には申し訳ないと思っています」
せっかく用意した縁談を拒絶され、伯爵の心労はいかばかりだろう? その原因が使用人にあるのだから、腹立たしいに違いない。
分かっている。
分かってはいるのだが――――。
「そうか。だったら話は早い――――どうすれば良いか自分で分かるだろう?」
その瞬間、メアリーは思わず胸を押さえる。
今までお世話になりましたと――――そう言って頭を下げることを求められているのだろう。
すぐに荷物をまとめて、ジェラルドに挨拶もせず、そのまま屋敷を後にする――――それがメアリーに求められている行動だ。お世話になった伯爵への、せめてもの罪滅ぼしだ。
「わたしは……これからもここに居たいです」
けれど、口をついて出たのは、自分でも予想外の言葉だった。メアリーはハッと口を噤みつつ、伯爵のことをちらりと見遣る。
(わたし、なんでそんなことを言っちゃったの?)
直前まで『出ていくべきだ』と思っていたはずなのに。メアリーは自分の言動に動揺してしまう。
「ここに居たい? ――――大丈夫、お金の心配は要らないよ。当面困らないだけの援助はするから。新しい雇用先だって用意しよう。それが君の望みだろう?」
伯爵が微笑む。
メアリーは戸惑い、躊躇い、散々迷った挙げ句、大きく首を横に振った。
「違うんです、旦那様。わたしはこの屋敷に――――いいえ。ジェラルド様の側にいたいんです」
口にしながら、メアリーは自分の本音と――――どうしていきたいのか向き合っていく。言葉にしながら、これまでぼんやりとしか見えなかった気持ちが、はっきりと形を成していくのが分かった。
「本当は自ら身を引くべきなんだと思います。ジェラルド様がわたしを忘れるように……わたし自身がジェラルド様を忘れるためにそうすべきなんだって分かっています。
だけどわたしは、ジェラルド様が好きです! 大好きなんです! 側に居たい。離れたくないんです」
涙が止めどなく零れ落ちる。メアリーは思わず顔を覆った。
『メアリーには俺がいる。他の誰が要らないって言っても、俺がメアリーを必要としている。だからお前は一人ぼっちじゃない。絶対、一人ぼっちにならない。一人になんてしてやるもんか』
以前、母親を亡くした際に彼がくれた言葉が、メアリーを今でも生かしている。あの夜が、あの言葉があったからこそ、メアリーはまた笑えるようになったのだ。
メアリーにはジェラルドが必要で。それと同じぐらい、ジェラルドはメアリーを必要としてくれている。
だから、どんな理由があろうと、自分からこの屋敷を去ることはしない――――メアリーはそう決めたのだ。
「なるほどね……メアリーはジェラルドのことを好いてくれているのか」
「はい。
ダメだって分かっていても、止められませんでした。本当に、旦那様には申し訳なく思っております。
だけどわたしは……」
その瞬間、メアリーの身体を誰かがすっぽりと包み込む。ここ最近で慣れ親しんだ上品で甘いコロンの香り。
顔を上げたら、そこにはメアリーの想い人――――ジェラルドが居た。
「メアリー」
額を濡らすジェラルドの涙。彼はとても嬉しそうに微笑んでいて、メアリーは思わず目を見開いた。
「試すようなことをしてすまなかったね、メアリー。
ジェラルドは頑固だし、説得したところで言うことを聞かないからね。『家督を捨てる覚悟があるならメアリーとの結婚を許す』と約束をしたんだ。
けれど、私だってジェラルドのことは可愛い。この子一人の想いだけで、そんな重大なことを決めたくはなかった。
だから、この子の覚悟に見合うだけの想いが君にあるのか、きちんと確認したかったんだ」
ふと見れば、伯爵は悲しそうな、けれど嬉しそうな表情で笑っている。メアリーの瞳から涙が零れ落ちた。
「爵位は弟に譲るよ。アリティア嬢とも弟が婚約する」
「そんな……だけど、ジェラルドは本当にそれで良いの? 家督を捨てるだなんて……わたし、ジェラルドに返せるものがなにもないのに」
身分も、名誉も、財産も、メアリーに差し出せるものは何もない。ジェラルドは今、メアリーのために、あまりにも多くのものを犠牲にしようとしているのに――――。
「言っただろう? 俺にとって大事なのはそういうものじゃない。メアリーと一緒にいることだ。好きな人を幸せにできる力だ。
メアリーが俺の隣りにいてくれることが、俺にとってはなにより大事なんだよ」
額に、頬に口づけながら、ジェラルドが優しく微笑む。
彼の表情からは未練も後悔もうかがえない。ただひたすら幸せそうに見える。メアリーは顔をクシャクシャにした。
「貴族じゃなくなった俺は、なにも持っていないように見えるかもしれない。
だけど俺たちは絶対、幸せになれる。俺が絶対、メアリーのことを幸せにする。メアリーさえ側にいてくれたら、俺はなんだってできるから。
だからどうか――――どうか俺と結婚してほしい」
ジェラルドはその場に跪き、真っ直ぐにメアリーのことを見つめた。
彼の手には高価な指輪も、豪華な花束も握られてはいない。
けれど、それでいい。
それがいい。
彼女が望んでいるのは、そんなものではないのだから。
「――――はい、喜んで!」
メアリーが笑う。ジェラルドが笑う。
二人は顔を見合わせながら、互いをきつく抱き締めるのだった。
3章【伯爵家侍女メアリーの場合】はこれにて完結となります。ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
エピローグを3話用意しております。最後までどうぞ、よろしくお願いいたします!




