9.俺は嫌だよ
その日、メアリーの頭の中は、執務室で聞いた会話の内容で埋め尽くされていた。
(ジェラルドが婚約をしちゃう)
いつかはこんな日が来ると分かっていた。
心の準備だってしていた。
けれど、心の奥底で、別の道があるのではないかと――――ジェラルドがメアリーを選ぶ未来を想像していたことを思い知る。
(本当、馬鹿みたい)
メアリーはただの平民で、身分も名誉も資産もなければ、何の取り柄だってない。
つまり、彼女と結婚したところで、伯爵家にとって旨味が全く存在しないのだ。ジェラルドと結婚なんてできるはずがない。そんなの、当たり前の話だ。
おそらく伯爵は、そんなメアリーの気持ちを見抜いていたのだろう。現実を思い知らせるため、きちんと諦めさせるために、彼女を執務室に呼んだのだ。
(気づかなかった。わたし、いつの間にジェラルドのことをこんなに好きになっていたんだろう?)
ジェラルドは姉弟みたいな存在で。一緒にいるのが当たり前で。恋愛感情なんて抱きようがない――――彼を思う心は親愛の情だと思っていた。
けれど、そうだとしたら、メアリーは今こんなに悲しくないだろう。
まるで鋭利な刃物で胸を引き裂かれたかのような痛み。息苦しくてたまらない。真っ暗闇の中に迷い込んだかのごとく、全く前が見えなかった。
(わたし、これからどうしたら良いんだろう?)
近い未来、ジェラルドはこの家の当主となる。結婚をし、父親から爵位を受け継ぎ、伯爵として領地を治めることになるはずだ。
そのとき、メアリーはこの屋敷に――――彼のそばにい続けることができるだろうか?
ジェラルドが別の女性を愛することを受け入れ、平気なふりをして笑い続けることができるだろうか?
(無理だろうなぁ……)
メアリーはそれほど人間ができていない。
第一、ジェラルドに対する想いは、そんなにもちっぽけではなかった。
夜になり、みんなが寝静まった頃、メアリーは一人屋敷の外に――――屋根の上へとよじ登る。子供の頃、ジェラルドに教えてもらったお気に入りの場所だ。
『悩みがあるときは、高いところに行くと良いんだってさ。低い位置からじゃ見えないものが見えてくるんだって。まあ、父上に見つかったら怒られるだろうから、俺たちだけの内緒な』
遮るものがなにもない夜空は美しく、星の瞬きはとても優しく感じられる。
下方に広がる灯火は、ジェラルドが領主として守るべきもの。あの灯りの一つ一つに、たくさんの領民たちが存在するのだ。
(仕方がない、よね)
どんなに好きでも、上手くいかないことは存在する。
むしろ、好きだからこそ、諦めるべきだと分かっていた。
彼の身体は、人生は、彼一人のものではない。貴族として生まれた以上、彼には果たさなければならない責務があるのだ。
「――――やっぱりここに居た」
そのとき、メアリーはハッと息を呑む。声の主は今一番会いたくて会いたくない人――――ジェラルドだった。
「ジェラルド……わたし」
「行くなよ。お前と話がしたいんだ。それとも、部屋に行ったほうが良い?」
問いかけに、メアリーはブンブン首を横に振る。
婚約が決まった以上、密室でふたりきりになるなど言語道断だ。誰が聞いているとも分からないし、屋外のほうがまだマシだろう。
「あのさ……俺の縁談のことだけど」
話題はやはり、ジェラルドの婚約のことだった。メアリーの胸がズキンと痛む。目頭がひどく熱くなった。
「――――良かったね、ジェラルド。侯爵家のお嬢様を妻に迎えられるなんて、すごいことだよ。本当、おめでとう」
ジェラルドになんと言われるのか、怖くてたまらない。ならば先手を――――そんなふうに考えて、メアリーは心にもないことを口にする。
「……は?」
「わたしは貴族のことに疎いけどさ、アンジェルジャン侯爵家ってすごい名家なんでしょう? 婚約者も愛らしい方だって言っていたし、これで伯爵家の将来も安泰っていうか。
……本当、良かったね」
嘘だ。
本当は、ちっとも良くなかった。
だけど、素直な気持ちを打ち明けるわけにはいかない。ジェラルドの顔をちっとも見ないまま、メアリーは無理やり笑みを浮かべた。
「その言葉、俺の目を見ながらもう一度言ってみろ」
ジェラルドの声が冷たく響く。
彼はメアリーの顎を掬い、顔を覗き込んできた。
「メアリーは俺が他の女と結婚して、本気でいいと思ってるの?」
「そ、れは……」
本当は迷わず『イエス』と答えるべきなのだろう。だけど、喉がつかえたかのごとく、声が、言葉がでてこない。
「俺は嫌だよ」
ジェラルドが言う。メアリーの瞳に涙が滲む。
「他の女と結婚するなんて絶対嫌だ。俺にはメアリー以外、考えられない」
勢いよく身体を抱き寄せられ、メアリーは静かに息を呑んだ。
「わたし以外、って……」
「言葉どおりの意味だよ。子供の頃からずっと、メアリーのことが好きだった。俺が結婚したいと思うのはメアリーだけだ。……気づいていただろう?」
ジェラルドの言葉にメアリーの胸が甘く疼く。
彼の気持ちに気づいていなかったと言ったら嘘になる。けれど、だからといってなんになるというのだろう? 事実、彼は他の女性との婚約が決まっているではないか。
「だけどね、ジェラルド――――」
その瞬間、吐息ごと反論の言葉を塞がれる。
頭を強く押さえられ、全くと言っていいほど動かせない。
(なにこれ、どういうこと?)
唇に、生まれてはじめて味わう柔らかな感触。しっとりとした温もり。
ふと見上げれば、ジェラルドの濡れた瞳と視線が絡む。
驚きと戸惑いのあまり、状況が全く理解できない。感情が上手く処理できず、虚無に近い状態だ。
「メアリー」
口づけの合間、ジェラルドがメアリーの名前を呼ぶ。
愛しげに、とても狂しげに。
メアリーの瞳から涙が零れ落ちた。




