8.いつでもここに
それ以降、アリスはレヴィに寄り付かなくなった。
これまでは彼の姿を見つける度に、嬉しそうに駆け寄っていたというのに、今ではレヴィを見つけるやいなや顔を背け、そそくさとその場から居なくなってしまう。
それどころか、必要最低限しか部屋から出てこなくなってしまった。
(当然の結果だな)
こうなることは分かっていた。
こうなることを望んでいた。
だというのに、レヴィの胸は張り裂けんばかりに痛かった。
アリスの存在を感じられない。愛らしい笑顔が見られない。
せめて声が聞きたい。以前のように『レヴィ』と名前を呼ばれたい。
もどかしかった。とても、とても。
ただそれは、近い将来レヴィに待ち受けている未来だ。
もうすぐアリスは侯爵家に嫁ぎ、この屋敷から居なくなってしまう。レヴィの前から居なくなってしまう。
それがほんの少し早くなっただけ。
結婚以降、アリスの姿を垣間見れるのは数年に一度のことだろう。
(早く慣れなければ)
アリスの居ない日常に。
彼女の幸せを他人に託すことに。
レヴィは自分にそう言い聞かせながら、グッと歯を食いしばる。口内から血の味がした。
***
そうして、アリスが本当にこの屋敷を去る日がやってきた。
屋敷はお祝いムードに包まれ、みながアリスを取り囲んでいる。
レヴィはみんなの輪に入ることができないまま、アリスの出立に向けた最終確認をしていた。
(本当に、嫁いでゆかれるのだな……)
すっかり空っぽになったアリスの部屋。ここで幼いアリスの遊び相手になった日々が走馬灯のように浮かび上がり、レヴィはそっと瞳を細める。
一使用人であるレヴィはアリスの結婚式には出席できない。このため、あれ程見たいと望んでいたアリスのウェディングドレス姿も結局見れずじまいだ。本当だったら試着の折に見せてもらえたはずなのだが。
「……レヴィさん、そろそろ下に降りましょう。お嬢様のお見送りにいかないと」
侍女の一人に声をかけられ、レヴィは静かに立ち上がる。いよいよ別れのときがきてしまったようだ。
「――――ええ」
涙をこらえ、前を向く。
もしこの機会を逃したら、アリスとは二度と会えなくなるかもしれない。
寂しい。
苦しい。
レヴィは己の心を宥めつつ、アリスの元へと急ぎ向かった。
ひとしきり別れの挨拶を済ませたらしく、アリスの周りの人だかりは一回り小さくなっていた。
白いワンピースに身を包んだアリスは、いつにもまして清楚で美しく、あまりにも可憐だ。今にも消えてしまいそうなほどに儚く、驚くほどに尊い。
(アリスお嬢様……)
せめて『ありがとう』と伝えることはできないだろうか。幸せになってほしいことも。アリスは嫌な顔をするかもしれないが、それでも――――。
「レヴィ!」
そのとき、アリスがレヴィの名前を呼んだ。
二人が言葉を交わさなくなって随分経つ。それなのに、アリスは昔と同じように、レヴィに向かって微笑んでいる。レヴィの瞳から涙が零れ落ちた。
「お父様……」
アリスの言葉に、伯爵はためらいながらも頷き、自身を含めた屋敷のみなをその場からすぐに遠ざける。
残されたのはアリスとレヴィの二人きり。レヴィは驚きに目を見開いた。
「お嬢様……これは一体」
「以前からお父様にお願いをしていたの。最後にレヴィと二人きりにしてほしいって。そしたらちゃんと、侯爵家に嫁ぐからって」
アリスはそう言ってレヴィと間近で向かい合う。それから今の彼女にできる最大限の笑顔を浮かべた。
「あのねレヴィ。私、貴方のことが好きだよ」
アリスが言う。
本当は今すぐ抱きしめたい。
口づけたい。
このまま二人でどこかへ行けたら――――。
本当はどちらもそう願っているのだろう。
けれど、二人はお嬢様と使用人の距離を保ったまま、互いを真っ直ぐに見つめ合った。
「好き。好きなの。嫌いになんてなれっこない。
貴方が私に嫌われようとする度に、『好きだ』、『大切だ』って言われている気がして、切ない気持ちになったの。嬉しくて、悲しくて、たまらなかった。
ねえ、あの日――――侍女と抱き合っていた夜、貴方がした告白は、私に向けたものでしょう?」
尋ねつつ、アリスの言葉は確信に満ちている。レヴィは頷くことも、首を横に振ることもできぬまま、とめどなく流れる涙を拭った。
「私、頑張るよ。ちゃんと新しい場所で幸せになれるように努力する。ちゃんと結婚相手と向き合うし、好きになろうと思ってる。
だって、それがレヴィの望みだもん。大好きな人の願いだもん。好きな人の願いは叶えたいと思うものでしょ?」
「お嬢様……」
「だけどね、私の心のなかにはいつまでもレヴィが居る。ずっとずっとレヴィを想い続ける――――良いよね? そのぐらいは許してくれるでしょう?」
アリスはそう言ってレヴィに真っ白なハンカチを差し出す。繊細に施された銀糸の刺繍は、彼女自身が刺したものだろう。忙しい日々の中、わざわざレヴィのために用意をしてくれた――――そう思うと、愛しさがこみ上げてくる。
「ありがとう、レヴィ。
レヴィもどうか、私のことを忘れないで。私のことをずっと想い続けてほしいの。
本当は忘れても良いよって――――レヴィはレヴィの幸せを見つけてほしいって言うべきだって分かってるんだけど、それでも私は……」
「忘れません。絶対に、絶対に忘れません」
レヴィは間髪入れず、力強く請け負う。アリスはほんのりと目を見開き、それから嬉しそうに微笑んだ。
「私の全てはお嬢様のものです。お嬢様だけのものです。
どこにいても、何をしていても、私は貴女のことを――――貴女の幸せを願っております。レヴィはいつでもここに居ます。ここで、お嬢様のことをお待ちしております」
「うん……ありがとう。私、行ってくるね!」
アリスは安心したらしく、軽やかに身を翻す。
「またね、みんな。またね、レヴィ!」
太陽のように輝く満面の笑み。眩しくて――――あまりにも眩しすぎて、レヴィは目を細めて微笑みを浮かべる。
馬車が段々と遠ざかっていく。アリスは窓から顔を出し、こちらに向かってずっと手を振り続けている。
「――――行ってらっしゃいませ、お嬢様」
涙を拭い、微笑みを一つ。レヴィは恭しく頭を下げた。




