7.打ち明けられぬ想い
どれだけ必死に願っても、時計の針は止まってはくれない。
アリスの結婚が目前に迫ったある日のこと、レヴィは伯爵の元を訪れていた。
「旦那様、どうかこちらをお預かりください」
彼が渡したのは薄い一枚の封筒。伯爵はそれを一瞥し、それから静かに息を吐く。
「一体誰に似たのか……頑固な娘ですまないね」
「いいえ。そんなところも含めてお嬢様らしい……そう思っておりますよ」
悲しげに、愛しげに瞳を細めたレヴィの肩を、伯爵はポンと叩いた。
「まだ時間は残っている。これを正式に受け取るのは、どうしてものときだけにさせてもらうよ。君が居なくなると私が困る。あの子だって、この家からレヴィが居なくなると悲しむだろうからね」
レヴィが伯爵に渡したのは辞表だ。
もしもアリスが最後まで結婚をゴネたら、彼はこの伯爵家から居なくなるつもりでいる。姿を消し、二度と彼女の前には現れない――――そうすれば、さすがのアリスも結婚に頷かざるを得ないだろう。
もちろん、そうなる前に納得してほしいところではあるのだが。
「――――申し訳ございません、旦那様。私はこれから、お嬢様の心を深く傷つけることになると思います」
この数カ月間、どうしたら良いかをずっとずっと考えてきた。
傷ついても傷ついても、アリスは真っ直ぐにレヴィに向かってくる。
レヴィが自身を想っているという自信のあらわれだろうか? はたまた、彼女自身の強すぎる想いがそうさせるのだろうか? その両方だろうか?
いずれにせよ、このままで良いはずがない。
結婚は家同士の問題だ。伯爵家の面々はもちろん、ここで雇われている使用人たちの運命だって変わりうる。
何より大切なのはアリス自身の幸せだが、執事として働いている以上、レヴィはそういったことにまで思いを馳せなければならない。
「君がアリスを何より大事に想ってくれていることは分かっているよ。本当に、心から感謝している」
「旦那様……」
「アリスが傷つき、たとえ君への想いを忘れてしまったとしても、レヴィの本心は私が必ず覚えていよう。やがて時が経てば、あの子に真実を伝えられる日も来るだろう」
「……そうですね。いつか、そんな日がくれば良いと……心から願っています」
これからレヴィには死ぬよりも悲しい未来が待ち受けている。
アリスは間違いなくレヴィのことを嫌うだろう。
もう二度と、微笑みかけてくれないかもしれない。
そうと分かっていても、やらねばならない。
それがアリスの幸せにつながると、そう信じて。
***
それは月明かりの美しい夜のことだった。
仕事が終わり、使用人たちが次々に部屋へと帰っていく。
レヴィは一人の女性を伴い、屋敷の外、アリスの部屋の辺りへと向かった。
「――――本当によろしいのですか?」
女性――控えめな侍女はためらいがちにそう尋ねつつ、レヴィと階上とを交互に見遣る。
「ええ。もう決めたことですから」
レヴィはそう言って切なげに目を細めた。
それから侍女の頭を優しく撫で、ギュッと力強く抱き締める。
「レヴィさん」
風が静かに舞い上がる。声音はきっと、アリスの居る上階まで届いたことだろう。上から微かな物音がするのを確かめつつ、レヴィは静かに口を開いた。
「愛しています」
誰かが静かに息を呑む。頭上からの視線を感じつつ、レヴィは熱い吐息を吐いた。
「貴女のことを心から……狂おしいほどに愛しています」
レヴィが言う。
彼は決して侍女の名前を呼ばない。
貴女とは――――他でもないアリスのことだからだ。
アリスに嫌われなければならない。
けれど自分の気持ちに嘘は吐けない。
そんなレヴィが悩んだ末に行き着いたのが、アリスへの想いを、他の女性に向ける形で吐露することだった。
今夜のために、レヴィは数ヶ月前から準備を重ねてきた。
アリスのいる前で侍女を気にかけている素振りを見せ、優しくし、恋人同士になっても不自然ではない状況を作り上げてきたのである。
彼女の結婚はもう目前。猶予は全くと言っていいほど残っていない。
ここでしくじれば、アリスは逃走するか、たとえ結婚しても夫に心を開けないかもしれない。それでは絶対にダメなのだ。アリスは幸せにならなければ――――。
「レヴィさん、あの……」
「私は貴女のことが誰よりも、何よりも大事なんです。この世の中の誰よりも幸せになってほしい――――できれば私自身の手で幸せにしたい」
言葉がスラスラと流れ出てくる。
それは、これまで決して口にできなかったアリスへの想いだから。ずっと温めてきた本心だから。
レヴィは涙を流しつつ、腕に強く力を込める。
「私は貴女を愛しています。貴女は私の全てなんです」
これが本当にアリスだったら、どれだけ良かっただろう?
何度も何度もキスをして、アリスが嬉しそうに微笑むのを見て。レヴィはびっくりするぐらい幸せだったに違いない。
心と身体を焼き尽くすほどの激情を、二人で分け合い絡めあい、それから大事に育てていく。そんなふうに生きられたらどれだけ良かっただろう。
レヴィは侍女の顎を掬い、口づけているふりをする。
彼にはどうしても、アリス以外の女性に触れることができなかった。
どれだけ美しい女性に誘惑されても、お見合い相手を紹介されようとも、レヴィの全てはアリスのものだ。アリスだけのものだ。彼女以外に明け渡せるわけがない。
嗚咽が漏れる。涙がポタポタと零れ落ちる。
侍女はレヴィの涙を拭いつつ、気の毒そうに顔を歪めた。
「レヴィの馬鹿」
風に乗り、微かに声が聞こえてくる。アリスの声だ。
やがて、窓が閉まる音がし、辺りが静寂に包まれる。
「ご協力、ありがとうございました」
レヴィが言う。彼の声は掠れていて、あまりにも切なげに響いた。
侍女は静かにため息を吐き、それからクルリと踵を返す。
「レヴィさんも、姉さんも、どうしてこんなに不器用にしか生きられないんだろう? ……身分の差なんて消えて無くなってしまえば良いのに」
ポツリと響いたつぶやきは、誰にも拾われることなく、闇夜にそっと消えていった。




