5.レヴィの決意
翌朝、アリスは何事もなかったかのように部屋から出てきて、家族と一緒に朝食を取った。
レヴィはその様子を陰からそっと見守りつつ、小さくため息を吐く。
(良かった……昨夜のこと、引きずってはいらっしゃらないようだ)
アリスの部屋の前で別れたのはほんの数時間前のこと。当然レヴィは一睡もできなかったし、アレコレと考え事をしてしまった。
アリスの結婚相手がどんな男なのか、結婚式はいつ頃なのか、ウェディングドレスはどんなデザインにするのか、アクセサリーは、ブーケの花は――――本当なら、そういう前向きなことを考えて気を紛らわせたかった。
だが、できなかった。
アリスの温もりを、甘さを、柔らかさを、愛らしい声と言葉を思い出し、頭の中がいっぱいになってしまう。己の唇に触れては首を振り、なかったことにしようと努力する。自分自身に忘れろと言い聞かせる。
「あの、大丈夫ですか? レヴィさん」
そのとき、侍女の一人からそんなふうに声をかけられた。大人しく控えめで真面目な女性で、華やかな女性を揃えた伯爵家の中で目立たない存在だ。レヴィに話しかけるまで相当な葛藤があったらしい。表情から躊躇いがうかがえる。
「私が、なにか?」
レヴィは基本的に、アリス以外の人間に対しては塩対応だ。そのせいでどう思われても構わないし、みんなから好かれたいとも思わない。
もちろん、仕事を円滑に進める必要があるから愛想は良くしているけれど、彼の優しさと温かさはアリスに全振りされているので、多少冷たく感じられても仕方がない。
侍女は居心地悪そうに視線をさまよわせつつ、そっと首を傾げた。
「いえ。なんだか疲れていらっしゃるように見えたので……勘違いなら良いのです」
「お気遣い、ありがとうございます。ですが、これからお嬢様の結婚に向けて忙しくなるので、疲れている暇などありませんよ。お嬢様には、世界で一番幸せになっていただかなくてはいけませんから」
言葉にしてみてハッとする。レヴィは思わず口元を押さえた。
(そうだ)
自分は一体何をしているのだろう?
アリスはこれから人生で一番大切な時期を迎える。世界で一番幸せな結婚をする。
彼女の結婚式を最高のものとするため、レヴィは全力を尽くさなければならない。
そのためには、悩んでいる暇も、立ち止まっている暇もない。
「ありがとう。貴女のおかげで大切なことを思い出せました」
「え? いえ、そんな……」
レヴィは侍女に礼を言うと、前を見据えて動き出した。
その日の午前中、レヴィはアリスの父親である伯爵に呼び出された。
内容はやはりアリスの結婚のことで、これから彼や他の使用人たちのすべきことを整理するためのものだった。
「お相手はアンゼルジャン侯爵ですか……」
「ああ。あちらとは事業の兼ね合いもあって、関係性を深めておきたいからね」
ここ伯爵領では銀細工を取り扱っており、宝石の産地であるアンゼルジャン領との関わりが大きい。銀細工単体の収益も当然あるが、宝石とセットのほうが何十倍も利益が上がる。つまり、アンゼルジャン侯爵との結婚は両家の結びつきを深めるための政略結婚ということだ。
「これ以上ないほど素晴らしい縁談だと思います。家柄も良く、大層な資産家でいらっしゃいますし、我が国における影響力も大きい。何より、アンゼルジャン侯爵は見目麗しい貴公子として有名ですし、お嬢様と似合いの夫婦となるでしょう」
レヴィはそう言って、キラキラと瞳を輝かせる。
侯爵家に嫁いだら、アリスは今よりも良い生活が送れるだろう。社交界での活躍の場も多いだろうし、みながアリスに羨望の眼差しを送るに違いない。政略結婚の相手として、これ以上の相手はいないだろう。
「ありがとう、レヴィ。私もそう思って彼を結婚相手に選んだんだ。
ただ……当のアリス本人は『結婚をしたくない』と相当ゴネていたがね。他に好きな人がいるから、と」
困ったように微笑みつつ、伯爵はレヴィのことを見つめる。
彼にはアリスの想い人が誰なのか、ハッキリと分かっているのだろう。レヴィは気づかぬふりをしようか散々迷い――――止めた。ゆっくりと頭を下げながら「申し訳ございません」と声を絞り出す。
「頭を上げなさい、レヴィ。君が悪いわけではないのだから」
「しかし……」
「人の感情――――恋心というものは制御できるものではない。あの子が君を好きになったこと自体、悪いことだとは私は思っていないよ。
そもそも、君を使用人として採用したのはこの私だ。責任の所在がどこかと問われたら、それは私にあるだろう。
何より、私は娘があれほど聞き分けがないとは思わなかったからね。あの子は貴族としての自分の責務を自覚しているに違いない、と」
伯爵の声音には悔恨の滲んでいる。
(旦那様……それは私も同じ気持ちです)
アリスはきっと、最後には自分の運命を受け入れるものと思っていた。
レヴィへの想いは胸に秘め、貴族として、政略結婚を受け入れるものだと。
だから、あんなふうに部屋を訪れ、キスをされるだなんて全く思っていなかったのだ。
(お嬢様はこれから、どうなさるおつもりだろう?)
人は自分が予想したとおりに動くとは限らない。アリスに関して言えば既に、レヴィが考えていたのとは違った動きを見せている。
しかし、他人は制御できずとも、自分がどう動くかは自分自身で決めることができる。
レヴィはそっと目を伏せ、やがて前を見据えた。
「旦那様、私は決して、旦那様を裏切りません」
言葉とは裏腹に、昨夜のアリスの切なげな表情が、口づけの甘さが脳裏にチラつく。それらを必死で振り払いながら、彼はこう続けた。
「こちらでお世話になると決まった際、私は誓いました。『お嬢様の幸せは私が守り抜きます』と」
この十年間、その想いこそがレヴィの原動力であり、全てだった。
アリスが幸せになれるならば、レヴィは己の全てを投げ打つことができる。悪になる覚悟だってある。
これから彼が何をしようとしているのか、どう動くのか――――ハッキリと言葉にしなくても、表情から伝わってくる。
伯爵はしばらく何かを逡巡し、それからそっと肩を落とす。
「――――頼んだよ、レヴィ」
レヴィは力強く頷き、深々と頭を下げる。
何故だろう? 目頭がとても熱かった。




