4.扉の前の攻防
「レヴィ、私よ。開けて」
扉の向こう、アリスのか細い声が聞こえてくる。レヴィに動揺が走る。
彼は驚きに目を見開きつつ、静かに首を横に振った。
「いけません、お嬢様。こんな時間にこんなところへいらっしゃるなんて、一体何を考えていらっしゃるのですか? 誰かに見られたらどうするつもりです?」
「私、レヴィと話がしたいの。それに、誰かに見られたところで一向に構わないもの」
泣いているのだろうか。アリスの声は小刻みに震えているようだった。
(……くそっ)
出会ったばかりの頃、自分の心を救い出し、自由にしてくれたアリス。そんな彼女が泣いていることを想像するだけで、レヴィは心と体が引きちぎられそうなほどに苦しくなる。
本当は今すぐこの扉を開けて、アリスのことを慰めてやりたい。
思い切り抱き締めてやりたい。
悲しいことも、苦しいことも、かわれるものならかわってやりたい。アリスのためなら、レヴィは人を殺すことだって厭わないだろう。
本当に、なんだってしてやりたいと思うのに――――今、この扉を開けることだけはしてやれない。
レヴィはそのことがもどかしくてたまらなかった。
「話ならば明朝、他の使用人たちもいる場所でいくらでもしましょう。貴女はこの伯爵家の――――私の大切なお嬢様です。こんな夜更けに男の部屋に来てはいけません。
これから結婚も控えていらっしゃるというのに、悪い噂でも立ったらどうするのです? せっかくの良い話が流れてしまったら……」
「私は結婚なんて嫌なのよ! だからこそここに――――レヴィのところに来たの。分かるでしょう?」
アリスが声を上げる。レヴィは焦った。
(このままでは他の使用人たちが起きてきてしまう)
そもそもアリスは先ほど、他の人間に見られても構わないと話していた。声を潜めるよう諭したところで、聞き入れては貰えないだろう。
レヴィは躊躇いながらも鍵に手をやり――――すんでのところで思い直す。
アリスのことを思えばこそ、この扉は開けるべきではない。そう強く思うからだ。
「――――お願い、レヴィ。私を大切に思うなら、ここを開けて。お願いだから」
アリスが泣き崩れた気配がし、レヴィは居ても立っても居られなくなる。
彼は一瞬だけためらった後、すぐに扉を開け、それからアリスを抱き上げた。
「レヴィ……!」
「戻りましょう、お嬢様。部屋までお送りします」
レヴィはそう言って、有無を言わさず歩き出す。
アリスは大きな瞳に涙をいっぱいため、いやいやと首を横に振った。けれど、レヴィが聞く耳を持たないことが分かると、シュンと肩を落としつつ、黙って彼の腕に抱かれる。
「レヴィ」
アリスは小声で何度も何度もレヴィの名前を呼ぶ。甘えるように胸に擦り寄り、彼の背中に腕を回して。
レヴィはゴクリと唾を飲み、大きくゆっくりと呼吸をした。
「覚えていらっしゃいますか、お嬢様? 昔はよく、私がこうして貴女を部屋まで運んでおりました。お嬢様はいつまで経ってもあの頃のまま――――びっくりするぐらい何も変わっておりませんね」
己の邪念を払うように、レヴィはそう口にする。
嘘だ。
本当はあの頃とは全く違う――――何もかもが変わっていた。
雪のように白く、しっとりと吸い付くように艶やかな肌。洗剤の向こう側から香ってくるのは、甘く蕩けるような女性の香りだ。
泣きぬれた瞳は熱を帯びているし、身体は変わらず温かいが、どこかほっこりとした子供の体温とは明らかに違う。
早い鼓動、乱れた呼吸、アリスの全てがレヴィの心をかき乱す。
彼はそれら全てに気づかないふりをした。
「私が貴方との思い出を忘れるわけがないでしょう?
だけどね……レヴィは変わらないって言うけど、私、もう大人よ。そりゃ、どう頑張ったって年の差は埋められないけど……私はもうレヴィと同じ。大人なのよ」
アリスが呟く。切なげに、とても苦しげに。
(ええ、知っていますよ)
本当に嫌になる――――泣きたくなるほどに分かっている。
ため息を吐きたくなるのをぐっと堪え、レヴィは前を向き続けた。
「レヴィにとって、お嬢様はお嬢様ですよ」
それ以上でも以下でもない――――暗にそう伝えれば、アリスはシュンと肩を落とした。
(申し訳ございません、お嬢様)
心のなかで詫ながら、レヴィはそっと目を伏せる。
先ほどの彼の言葉に嘘偽りは一つもない。
けれど、レヴィにとっての『お嬢様』は、この世で一番大切な存在だ。
愛してくたまらない、唯一無二の宝ものだ。
アリスは傷ついただろう。突き放されたように感じただろう――――それで良い。元々それが目的だ。
しかし、レヴィにとって今の発言は、自身の重くて深すぎる愛情を告白したも同然。彼はなんともいえない苦い気持ちに支配されてしまう。
「さあ、着きましたよ」
アリスの部屋の前でレヴィは彼女をそっと下ろした。
「……ダメ元で聞くけど、このまま中に入って話をしていかない?」
「行きません。
早くお休みになってください。睡眠不足は美容の天敵。お嬢様の美しい肌と髪が台無しになってしまいます」
「――――私が綺麗でいようと頑張っているのは、全部レヴィのためだもの」
アリスはそう言って、レヴィの胸に飛び込んでくる。止める間もない、一瞬の出来事だった。
「お嬢様……!」
「レヴィに綺麗だって……可愛いって思われたいから頑張ってきたの。勉強だってそうよ? 貴女に優秀な令嬢だと思われたかったの。
だって、私が好きなのはレヴィだけだもの。だから、他の人と結婚なんてしたくないの……知っていたでしょう?」
アリスの愛の告白に、レヴィは心のなかで舌打ちをする。
彼女の気持ちにはとっくの昔に気づいていた。気づいていながら、気づかないふりをし、決定的な一言を言わせないよう気を揉んでいたのである。
もちろん最初は、アリスが本気だとは思わなかった。単純に使用人として慕ってくれているだけだと思おうとした。
あまりにも身分の違う二人だから。決して結ばれることはない二人だから。
アリスだって、そんなことは百も承知のはず。
ひとたび結婚が決まれば、レヴィへの気持ちを封印し、貴族の夫人として生きていくものだと思っていたというのに。
「貴女は伯爵家のご令嬢です。旦那様がお選びになった最高の貴公子と結婚をし、素晴らしい貴婦人となられるお方です。……ご婚約、おめでとうございます。私はお嬢様の想いに応えることは――――」
けれど、レヴィの言葉は最後まで続かなかった。
アリスはレヴィの腕を引き、己の唇を彼の唇に押し当てる。
まるで時間が止まってしまったかのようだった。
アリスの瞳があまりにも必死で、切実で。
はじめて触れた唇は、しっとりと甘く、柔らかくて。
レヴィの喉がゴクリと鳴る。
空いている方の右腕がアリスの体の線をなぞるように宙を彷徨う。
ついついこのまま目を瞑り、口づけを堪能したくなる。
(ダメだ)
レヴィは必死の思いでアリスを押し戻すと、静かに首を横に振る。
アリスは悲しげに微笑みつつ、背伸びを一つ。レヴィの頬にキスをした。
「お嬢様……」
「おやすみなさい、レヴィ」
温もりが、視線が、アリスの全てがレヴィを惑わす。
目の前で扉が閉まるのを見届けながら、レヴィは盛大なため息を吐くのだった。




