3.真夜中の来訪者
レヴィが伯爵家に雇われ、十年の月日が経った。
孤児院出身ということもあり、はじめは人目につかないような下働きをしていたものの、彼は伯爵家でメキメキと頭角を現し、今では執事として頼られる存在になっていた。
アリスや伯爵、周囲が望むことがなんなのかを先回りして考え、それを実行するだけの力がレヴィにはある。
そうして彼は、誰よりも近くでアリスを見守ることができるポジションを勝ち取っていた。
「レヴィ、見て見て! 孤児院の子どもたちからお手紙とお菓子が届いたの! 嬉しいなぁ」
一方、アリスは明るく心根のまっすぐな、素晴らしい令嬢に育った。
はじめて出会った頃とちっとも変わらない――――いや、日々美しく、より洗練されていく彼女の姿を見守りながら、レヴィの心は幸福感に満ちていた。
年齢を重ねるごとに増していく可憐さ、美しさ。愛らしいドレスも、優雅なドレスも、孤児院の子供が着るような古着でさえ、アリスが着るだけで極上の一着に早変わりする。
真っ白なドレスに身を包んだデビュタントの夜など、レヴィは感極まり、一人でこっそり涙を流したものだ。もちろん、アリスにはバレバレだったのだが。
「あーーあ、どうせならレヴィと踊れたら良かったのにな。そうしたら最高に幸せだったのに」
夜会に向かう馬車に乗る最中、アリスは冗談めかしてそんなことを口にする。レヴィは微笑みながら首を横に振った。
「アリスお嬢様のお相手は、最高の貴公子でなければなりません。貴女のその美しさならば、王太子殿下を射止めることだって可能でしょう」
「……そんなこと、私は望んでないわ。可愛いって思われるのも、綺麗って言われるのも、レヴィだけでいいのよ」
拗ねたようなアリスの言葉に、レヴィはクスクスと笑い声を上げる。
「私にとっては可愛いも、綺麗も、お嬢様のためだけに存在する言葉です。レヴィはいつだって、お嬢様のことを最高に素晴らしい令嬢だと思っておりますよ。どうか自信を持って――――行ってらっしゃいませ」
レヴィが望んだとおり、社交界でのアリスの評判は上々で、彼女にはひっきりなしに縁談が舞い込んでいた。
けれど、アリスのお眼鏡に叶う男性は居ないらしく、18歳になっても、未だに婚約者が存在しない。周りの令嬢はそろそろ結婚をする頃合い。レヴィは人知れず、焦りを感じるようになっていた。
「先日いらっしゃった伯爵家のご令息は、物腰も柔らかく、資産的にも申し分がない、素晴らしい貴公子だと思ったのですがね……」
「――――私の相手は最高の貴公子じゃなきゃダメだって、レヴィが言ったんでしょう? 残念だけど、彼は私にとってはそうじゃなかったから、お断りしたっていうだけ」
「しかし、レヴィはお嬢様のウエディングドレス姿を殊の外楽しみにしております。お嬢様の人生最上の瞬間を、この目に焼き付けたいのです」
レヴィがうっとりと瞳を細めれば、アリスは「レヴィの馬鹿」と小さく呟く。
「結婚が人生最上の瞬間だなんて、私にはとても思えないわ。だって、結婚したらこの家を出ることになるでしょう?」
「……当然そうなりますね」
「嫁ぎ先にはレヴィが居ないもの。だから……」
アリスの言葉に、レヴィの胸がチクリと痛む。彼はほんのりと表情を曇らせつつ、視線を横にそっと逸した。
アリスが結婚するということは、彼女との別れを意味している。嫁ぎ先にレヴィがついていくことは当然できない。アリスがこの家に戻ってくるのは数年に一回が精々だろう。
寂しくないと言ったら嘘になる。悲しくないと言ったら嘘になる。
それでもレヴィは、アリスには結婚をして、夫に愛され、幸せになってほしいと心から願っていた。
「――――私はいつでも、この家におります。お嬢様のお戻りをお待ちしております。ですからアリスお嬢様は安心して、どこへでも行ってらっしゃいませ」
レヴィの返答を聞き、アリスは眉間に皺を寄せる。それから小さくため息を吐いた。
「私は何処にも行きたくないのよ。レヴィと一緒にいたいの。
……このまま時間が止まっちゃえばいいのに」
二人の距離は離れていて、触れられる距離にはまったくない。
だというのに、レヴィはアリスに縋り付かれているような感覚がして、己の腕をちらりと見遣る。
熱を帯びて潤んだ眼差し。優しくしてやりたい。甘やかしてやりたい――――それと同じぐらい強い感情がレヴィの中で暴れている。
レヴィは自分の気持ちに気づかないふりをしながら、なんでもない顔をして笑った。
しかし、それから数日後のこと。
アリスは父親に呼ばれ、二人きりで話をしていた。
「一体、何を話していらっしゃるんでしょうね?」
使用人たちは皆、浮き足立った様子で言葉を交わす。
けれどレヴィには、二人が何を話しているのか、なんとなくだが想像がついた。
(――――ついにアリスお嬢様の結婚が決まったんだな)
おそらくは断れない相手からの縁談なのだろう。そこにアリスの意志が絡む余地はない。どれだけ嫌だと言ったところで覆せるものではないのだ。
それからしばらくして、レヴィはアリスが部屋に戻ったことを聞かされた。酷く沈んだ表情で、とてもじゃないが声をかけられるような状態ではなかったらしい。
「お嬢様に差し入れを」
侍女たちに指示を出し、レヴィは静かにため息を吐く。
おそらくアリスはしばらく部屋から出てこない。意地っ張りな彼女のこと。たとえ喉が渇き、お腹が減ったとしても、誰かを呼んだりはしないだろう。
案の定アリスはその日、夕食の席には現れなかった。
(ずっと嫌だと仰っていたからな……無理もない)
部屋に戻り、襟元を緩めながら、レヴィは一人ぼんやりと窓の外を見つめる。
日付が変わっ既に数時間が経過したが、今夜はとても眠れそうにない。このまま眠らず、朝日を待つ方が良いだろう。
胸が詰まる。ため息が漏れる。
アリスの結婚は、伯爵家にとってとてもめでたいことだと分かっているのに。
「アリスお嬢様……」
レヴィが思わずアリスの名前を呟いたそのときだった。躊躇いがちに扉をノックする音が聞こえてくる。
(誰だろう?)
こんな時間に部屋を訪れてくるような関係の人間は彼には居ない。この十年間、レヴィはアリスのことだけを考え、彼女のためだけに生きてきたからだ。
とはいえ、仕事でなにか緊急事態が起こったという可能性もある。それがアリスに関わることだとしたらことだ。
レヴィは戸惑いつつも、「どなたですか?」と尋ねた。
「レヴィ、私よ」
か細く震えた愛らしい声音。
それが誰のものなのか――――考えるまでもない。
「アリスお嬢様?」
レヴィの心臓が、ドクンドクンと大きく跳ねた。




