1.喜怒哀楽を忘れた少年
私の小説をたくさん読んでくださってる方にはなんとなく伝わると思うのですが、レヴィは私のお気に入りキャラクターです。
一体何が起こっているのか――――俄には信じられなかった。
無理矢理に引かれた手の痛み、あまりにも必死な瞳が垣間見え、押し当てられた唇の熱に瞠目する。
今日、私の世界で一番大切な人――――アリスお嬢様の婚約が決まった。
けれど今、私はお嬢様にキスをされている。
***
レヴィは物心ついた頃から孤児院で生活をしていた。
最初からそうだったのかは分からない。
けれど、彼の最初の記憶は、孤児院の扉の前で泣き叫んでいる己の姿だった。
そこから十三歳になるまでの間、レヴィは淡々と毎日を過ごしていた。
まだ子供だというのに喜怒哀楽を失い、どんなことに対しても感情を抱かない。そうすることで己を守っていた――――そう気づいたのは、割と最近のことだ。
けれど、そんな彼に転機が訪れた。
領主が孤児院の視察にやってきたのだ。
そのとき出会ったのが、彼にとっていちばん大切な存在である、領主の娘アリスだった。
5歳のアリスは、レヴィから見ればものすごく恵まれていて、ともすれば恨みの対象になりえた。
自分たちとは比べ物にならないほど清潔で、鮮やかな色の布で作られたドレス、毎日洗われているであろう光り輝く美しい髪の毛。レースのリボンに、ピカピカに磨かれた靴。艷やかな肌にふっくらとした頬を見るに、お腹を空かした経験など一度もないのだろうと予想がつく。
(――――いや、僕には関係ない)
欲しがったところで、羨んだところで手に入るわけではない。嫌味を言って何になる? 虚しくなるだけだ。自分が嫌いになるだけだ。
見るな。考えるな。
心を揺らすな。
レヴィは部屋に引きこもり、アリスの存在を頭から消し去ろうと努力する。
「こんにちは、お兄さん」
けれど、そんなレヴィのもとにアリスはやってきた。人懐っこいとびきりの笑顔を浮かべて。
レヴィは一瞬だけアリスの方を向き、それからそっと視線を逸らす。
見えない。聞こえない。
相手をしなければ、アリスはすぐにここから居なくなるだろう。そう思っていたのだが。
「お兄さんもあっちで一緒に遊ぼう!」
アリスはちっともめげなかった。レヴィの側に駆け寄って、ニコニコと楽しげに笑っている。
「触らないでください。汚いので」
アリスは薄汚れたレヴィの手を握ろうとした。だからレヴィはパッと身を翻し、彼女のことを睨んでしまう。
幼い子を相手に申し訳ないと思わないでもない。だが、彼女を汚したとあとで怒られるよりはマシだろう――――そんなふうに言い訳をする。
「え? アリス汚い?」
どうやらアリスは、彼女自身が汚れていると言われたものと受け取ったらしい。己の手のひらを見つめながら、瞳をパチクリさせている。
レヴィは首を横に振り、「あなたのことじゃありません」と口にする。
「お兄さんはとっても綺麗だよ?」
「いいえ、お嬢様。僕はとても汚れています」
「え〜〜? 綺麗なのに。それに、汚れているならお水で洗えば良いんじゃない?」
「いいえ。僕たちはお嬢様と違って、いつでも好きなときに水が使えるわけじゃないんですよ」
「そうなの? 知らなかった」
年齢も価値観も違えば、常識も異なる。
アリスとの会話はまるで、異世界の住人と話をしているかのようだった。
おそらくはアリスも同じ気持ちに違いない。自分と話をしたところで全く楽しいはずがない。
何の憂いもなく育った5歳の子供など欲望の塊。自分のことしか考える必要はなく、他人のことなどお構いなし。常に面白いことだけを追い求めている生き物だ。
けれどレヴィはそうと分かっていながら、好奇心旺盛なアリスに問われるがまま、色んなことを話していた。
自分たちが置かれている境遇、日々の暮らし、どんなことを考えながら生きているのか、待ち受けている将来――――そういったことを話して聞かせた。
そして、言葉にすることによってはじめて、自分がどれだけこの生活を苦痛に思っているのか、レヴィは知ることになった。
(不満なんてないと思っていたのにな)
押し殺していた感情が、感覚が一気に押し寄せてくる。
気づいたらレヴィの瞳は涙で潤み、胸がざわざわと動いていた。
嬉しいのか、悲しいのか。怒っているのか、はたまた楽しいと思っているか定かではない。
けれどこの時、レヴィは失っていた心を取り戻したかのように思えた。
「遊ぼう、お兄さん!」
結局、アリスに説得される形で、レヴィは他の孤児たちの輪に入り、彼女と一緒に遊んだ。
追いかけっこをしたり、土いじりをしたり、絵を描いたり――――普段ならば『くだらない』と吐き捨てる行動だが、幼い頃にそういった遊びをしていなかったせいだろうか? 案外楽しく感じられた。
これまで捨ててきた何かを拾い集めているかのような、そんな奇妙な感覚。レヴィは楽しそうに笑うアリスを見ながら、こっそりと微笑んだ。
けれど、彼女との時間はいつまでも続くわけではない。その日はあっという間に日が暮れてしまった。
レヴィは孤児院の皆と施設の前に並び、アリスたちを見送る。
(楽しかったな……)
これが楽しいという感覚なのだと、レヴィには分かった。
それから今、去りゆくアリスを見つめながら自分が抱いている感情が『寂しい』『悲しい』というものだということも。
「お父様、私まだ帰りたくない!」
そんな最中、アリスが駄々をこねはじめた。彼女の父親である伯爵は困ったように笑いながら、娘の頭をそっと撫でる。
「アリスがそんなことを言うなんて珍しいね。そんなにここが楽しかったのかい?」
「うん! 私、もっとレヴィと一緒に居たい。だから家には帰らない!」
アリスはそう言って、レヴィの元に駆け寄った。足元に感じる温かな温もり。思わぬことに困惑しつつ、レヴィはアリスを呆然と見下ろした。
「お嬢様……」
伯爵や院長の視線がこちらに向いている。レヴィはそっと身を屈めた。
「レヴィはいつでもここに居ます。どうかまた、遊びにいらしてください」
「えぇ……? でも……」
アリスは明らかに不満そうだった。子供というのは守られることのない約束に対して敏感な生き物である。
「大丈夫。また一緒に遊びに来よう」
不安そうに表情を曇らせるアリスに向かって、伯爵は力強く頷いた。言質を取ったことでようやくアリスは諦め、帰りの馬車に乗り込む。
「レヴィ、またね! また絶対遊んでね!」
太陽のように輝く満面の笑み。レヴィは眩しげに目を細めた。
馬車が段々と遠ざかっていく。アリスは窓から顔を出し、こちらに向かってずっと手を振り続けている。
聞こえないと分かっていながら、レヴィは「ええ」と返事をした。




