10.夢が終わるとき
翌朝のこと、ステファンの機嫌は最悪だった。
彼は食事もそこそこに、適当な理由をつけ、メリンダを部屋の外へ連れ出そうとする。
「ステファン殿下、困りますわ。わたくしには他に仕事がございますし……」
「仕事? 今は僕を優先してほしい。妹には他にも侍女がたくさんいるのだし、短時間抜けたところで困らないだろう?」
凍てつくような侍女たちの視線。好奇心に塗れた、どこかやらしい騎士たちの笑み。メリンダはこみ上げてくる吐き気を抑えつつ、ステファンに従った。
ステファンの部屋に着き、二人きりになると、彼はメリンダを抱き締める。キスの嵐を振らせつつ、彼は悲しそうに瞳を細めた。
「メリンダ――――昨夜はどうして部屋に来なかったの? ずっと待っていたのに……」
切なげな声音。メリンダは心が揺れそうになるのを必死で堪え、ゆっくりと首を横に振った。
「申し訳ございません……何分体調が悪かったもので。殿下にうつしたらいけないと思いましたの。伝言を頼むわけにもまいりませんし、お待たせして申し訳ないとは思っていたのですが」
メリンダの具合が悪かったのは本当の話だ。もうずっと、心がモヤモヤしていて気持ちが悪くてたまらない。流行病ではないのだが、体調が悪かったと言えばさすがのステファンも分かってくれるだろう――――しかし、そんなメリンダの目論見は、辛くも崩れ去ってしまった。
「具合が悪かった? それなのに、メリンダは僕を頼ってくれなかったのかい?」
「……え?」
「療養するなら僕の部屋ですればよかったんだ。そうすれば、ずっと側にいられたのに」
ステファンは苦しげに眉根を寄せ、メリンダの頬を優しく撫でる。メリンダは胸が苦しくなった。
「僕なら絶対メリンダに側に居てほしいと思う。苦しいときほど、メリンダの顔が見たい。甘えたくなるし、触れていたいとそう思うんだ。
それなのに、メリンダは僕を頼ってくれないなんて……悲しいよ」
「……けれど、ステファン殿下、あなたは王太子でいらっしゃいます。何か大事があってはいけないお方です。もっと御身を大切にしていただかないと――――」
「僕は自分の身体より、メリンダの方が大事だ」
額に、頬に優しく口付けられ、メリンダは目頭が熱くなる。
もしもステファンが王太子でなかったなら――――二人が身分の釣りあったただの男女であったなら、こんなにも嬉しい言葉はなかっただろう。
それほどまでに想われ、愛され、求められる幸福に、喜び咽び泣いたに違いない。
けれど、ステファンは王太子だ。代わりのきかない尊い人だ。
どう足掻いても現実は変わらない。涙が静かに頬を伝った。
「――――殿下、もう終わりにしましょう。これ以上は無理です。自分を騙しきれません」
散々悩んだ挙げ句、メリンダはゆっくりと口を開いた。
その瞬間、ステファンは驚きに目を見開き、手のひらで口元を覆い隠す。それから、湧き上がる衝動を押さえるため、ガン! と壁を殴りつけた。
「終わり? ……それは、僕との関係を断つってこと?」
絶望のあまりステファンの声が震えている。それでも、メリンダは躊躇うことなく頷いた。
ステファンは首を傾げながら、メリンダのことを抱き締める。彼の瞳には涙が浮かび上がっていた。
「嘘だろう、メリンダ。どうして? どうしてそんなことを……」
「殿下には他にふさわしいご令嬢が――――リズベット様がいらっしゃいます」
メリンダの返答に、ステファンはアハハ! と笑い声を上げる。そんなことか、と呟く彼に、メリンダはそっと目を伏せた。
「大丈夫だよ、メリンダ。僕の妃になるのは君だ。君だけだ。
リズベットとは正式に婚約を結んでいないし……実は今、彼女との破談に向けて動いているんだ! 父上もきっと納得してくれる。何も心配は――――」
「世の中には想いだけでは上手くいかないことがたくさんございます」
ステファンの腕からするりと抜け出し、メリンダはハッキリと拒絶の言葉を口にする。ステファンは傷ついた表情を浮かべつつ、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「もしもわたしたちが平民で、なんのしがらみもなかったなら、生涯添い遂げることができたのかもしれません。
けれどステファン殿下は王太子で、わたしは何の取り柄もない男爵家の娘です。
わたしには国民のためにできることが殆どありません。そのための努力を何もしてこなかったし、そもそもの資質がないのです」
「資質?」
ステファンは再び、ハハ、と乾いた笑みを浮かべた。
「そんなことないよ、メリンダ。君は自分を過小評価しすぎだ。
君は妹のお気に入りの侍女だし、可愛くて、優しくて、温かくて、一緒にいるだけで心が安らぐ。幸せな気持ちになれる人だ。
もしも足りない部分があると言うならば、これから一緒に努力をしていけば良い。心配は要らない。時間はいくらでもあるんだ。僕たちなら、きっと支え合って生きていける。僕はメリンダを愛して――――」
「殿下はわたしのことを愛してなどいません!」
ステファンの胸に、冷たくて鋭利な言葉の刃が突き刺さる。
メリンダの瞳からはポロポロと涙が零れ落ちていて、それだけでステファンの胸は張り裂けそうなほどに苦しくなってしまう。
「メリンダ? どうして……」
ステファンはメリンダを愛している。
それは彼にとって、あまりにも大切で、揺るぎない感情だ。
それなのに、それを真っ向から否定されてしまった――――そのことがステファンにはとても受け入れられない。
「――――言い方を間違えました。わたしはきっと、ステファン殿下を愛しておりません」
先ほどよりも残酷な言葉がステファンの心をズタズタに切り裂く。彼は呆然と膝をつき、メリンダのことを見上げた。
「ステファン殿下――――お許しください。わたしが愛していたのは、恋に恋する自分でした」
言いながら、メリンダはそっと目を瞑る。
まるで夢を見ているときのように、穏やかな幸せそうな表情で。
そのあまりの美しさに、ステファンは思わず息を呑んだ。
「わたしは凛々しくて優しくて、誰の目にも理想的な、完璧な王子様であるステファン殿下が好きで――――そんな貴方に愛される自分が何よりも可愛く、愛しかったのです」
メリンダが微笑む。ステファンは床にしゃがみ込んだ己の姿を顧みつつ、強く胸が傷んだ。
「貴方に声をかけられる夢を見てはふわふわと浮足立って、とても楽しくて。妃としてちやほやされる夢を見たことだってありました」
「……そうか! だったら」
それでも良い――――ステファンはそう言おうとしたのだが、メリンダは首を横に振り、彼の言葉を遮った。
「けれどわたしは、貴方が決して完璧な人じゃないと知って、すっかり夢から覚めてしまいました」
「……え?」
あまりにも思いがけないセリフに、ステファンは返す言葉を失ってしまう。
メリンダは眉間に皺を寄せつつ、彼からそっと視線を外した。
「わたしはあなたを――――民ではなく、己の恋心を優先するステファン殿下を見て、幻滅してしまいました。王太子としての責務を忘れ、一人の男として生きようとする貴方を、愚かだと思ってしまいました。
わたしが好きになったはずの貴方は、この世界のどこにも存在しない。
わたしが愛していたのは貴方じゃない――――自分自身だったのです」
重い沈黙が二人きりの部屋に横たわる。
これではあまりに救いがない――――メリンダはしばし逡巡し、それから再び口を開いた。
「だけどそれは、ステファン殿下も同じです。
貴方はきっと、わたしのことを本気で好きなわけではない。
元々、恋なんてまやかしのようなもの。それぞれが己の欲求を満たせそうな人物を選びとり、心と体を騙しているだけなんです。片思いの切なさを味わいたいのか、両思いの甘さを味わいたいのか――――人に求められる喜びを第一に考えている人もいるでしょう。たまたまそれがわたしとピッタリはまったというだけ。
ですから、ステファン殿下は必ずリズベット様のことを愛せます。貴方の隣にいる人間は、わたしじゃなくても良いのです」
メリンダの言葉に、ステファンはハッと顔を上げる。それから彼は、大きく首を横に振った。
「違うよ、メリンダ! 僕は君のことが本当に好きなんだ。
メリンダが側にいてくれるだけで、僕は何倍も何十倍も強くなれる。どこまでも頑張れる気がしてくる。――――幸せなんだ。メリンダを見ているだけで。君の声が聞けるだけで、嬉しくてたまらなくなる。
たとえ君が僕を愛していなくても構わない。その分僕が君を愛すると誓うよ。
だから頼む! 僕の側にいてくれ。君がいないと息ができない。苦しくてたまらないんだ」
言葉が、身体が、ステファンの想いが、メリンダに縋り付いてくる。
メリンダはクルリと踵を返した後、何も言わずに部屋を出た。
ステファンの部屋の扉は固く閉ざされ、開く様子は見受けられない。
一歩、また一歩と足を進めるたび、メリンダの瞳から涙が零れ落ちていく。
(ステファン殿下……)
夢の終わりはあまりにも呆気ない。
悲しみを必死に堪え、メリンダは元来た道を急いで戻った。




