十八、
十八、
「緊張しているのかい?」
「…、そうではないけれど。」
淡い真珠のピンクが美しいドレスを着て、黒い髪をハーフアップにした私は、婚約者の問い掛けに緩く首を振った。日が落ちて暗くなった廊下には、人口の灯りだけが落とされ、賑やかそうな会場の騒めきだけが静かな海に吸い込まれていった。微かな揺れすらも感じなくなって、もう一週間は過ぎている。窓ガラス越しに見えた自分の顔が、地上に帰れない白鳥のように思えて、隣にいる青年の腕をさらに強く掴みたくなった。
「今日は可愛らしい様相で来たんだね。似合っているよ。」
「うん。」
シャンパンが交わされる午後六時の承継を浮かべた宝石箱。紫鉱石はラピスラズリであると知った幼い子供と同じ感覚だろうか。起死回生の一手を決めるチェス盤よりも優しい環状が、船の踊り場を探る宵の感触だった。
「私の会話にも、少しでいいから付き合ってほしいかな。」
「あ…、ごめんなさい。」
唐突に婚約者が立ち止まって、私はふらついた。彼が私を支えながら、短く謝罪の言葉を述べる。怒っているわけではなさそうだが、寂し気な表情をしているのを見て、私は俯いた。
「ううん、怒っているわけじゃないんだよ。ただ…、まあいいんだけれどね。」
「え?」
私が首をかしげると、何でもないと言って彼は微笑んで見せた。
「誰なのかな、と思ってね。」
「…何が?」
何を言っているのかわからなくて、言葉に詰まってしまう。そう言った私を、どうするでもなく彼は、私の手を取って夜会が開かれる会場へと再び、足を運び始めたのだった。
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「疲れてないかい?」
「うん。」
蜂蜜色のレモンジュースを飲み干すと、私はいまだ踊っている人々の様子を眺めた。いつもは一二度踊ったら部屋に返してくれる婚約者だが、今夜は最初から踊っていたため少しだけ足が痛い。それを知ってか、彼は私を椅子に座らせて飲み物を持ってきた後、足を締め付けていた靴まで脱がしてくれた。
「…私は、少し向こうで涼んでくるよ。少し、暑いから。」
「分かった。」
なんだか、困ったような顔をしているので、言葉少なめに会話を終わらせる。そんな私を、彼はじっと見つめてから、深いため息と共にバルコニーへ出て行ってしまったのだった。
「…。」
少しだけ、足をぶらぶらさせてから辺りを見渡す。空っぽになってしまったコップも、ウェイトレスが持って行ってしまったので、なんとなく物足りない。ただ、手遊びに興じるのは流石に、どうかと思ったためフルート奏者の彼が居ないか、月光を弾き語っている楽団の方へ首を伸ばしてみた。
「居ないかな?」
じっと目を凝らしてみても、フルートを吹いている様子はない。しばらく見つめていたけれど、チェロ弾きのお爺さんが私に向けて、にこやかな会釈を返してくれたのをきっかけに、探すのは諦めてしまった。
豪華なシャンデリアは、七つの北極星を被った王冠のように輝き、失念していたサンマルクが大らかな優雅さを披露するに相応しい絨毯が広がっている。調度品は金を基調とし、所々のダイヤモンドダストが、私の瞳を淡く青色に染めた。人々の華々しさもまた、甘美な物であって、場に負けない美しさと粛々とした聡明さを持ち合わせている。…けれど、その中の何人が本当の意味での聡明さを理解しているのか…、そこまで考えた所で、ふと誰かに肩を叩かれた。
「貴女が、名前を名乗らない妻の可愛らしい友人かな?」
「えっ?」
やや、びっくりして後ろを振り返ると、銀髪の男性が立っていた。虹彩が薄いためか、左右でほんの少し色が違う瞳が猛禽類の雰囲気を漂わせている。紳士らしく、美しい佇まいを持ち、鋭く底知れなさを感じさせる表情が、思わず私の背筋を強張らせた。
「えっ…と。」
「怖がらせてしまったかな?」
「いえ…。奥さんとは、偶にお茶をするだけの仲ではありますが。時折、話は伺っているので。…彼女の前では、優しい方だと。」
「ほう…、それはそれは。」
皮肉っぽく笑う顔が色気すら感じさせるのに、何故怖いのか…。おそらく、自分の絵本には一生現れないキャラクターであろう紳士の瞳を見ないようにしつつ、私は頭を下げた。
「私の事をよく分かっていらっしゃるようだ。貴殿は、小説家か何かかな?」
「えっ…と。」
「いや、申し訳ないね。私は、どうも君にとって梟か何かを連想させる生き物らしい。」
「なんで…。」
こちらの心が読めるように…。私が思わず、そう考えると彼は苦笑した。
「君は、どうやら夢想家らしいな。考えていることが筒抜けのわりに、人を見抜く力は持っているし、その考えを創造へと昇華させるようだ。もっとも、君の世界観に私はいないだろうけどね。」
「それは、はい。」
「怖いからかな?」
さすがに、答える言葉が見つからずに押し黙る。あの女性と喋ったとはいえ、まだ一回お茶をした程度の仲だ。しかも、その旦那さんのことなんて優しいけれど頭がよくて、彼女にはよく分からない話をしている…、ただそれだけの情報しか持っていないのだ。
「猛禽類は、絵本作家とは相性が悪いので。」
「なるほど。」
「…。」
この時間が早く過ぎることを望みつつ、ふと人込みの方に目を向けると、出口から抜け出す青年の姿が目に留まった。手には銀色のフルート。顔はよく見えなかったが、どことなく別の人とは違う雰囲気に、思わず椅子を立ち上がる。
「誰か見つけたようだ。けれど、貴殿はまるで…幽体離脱を起こしているようだな。」
「えっ?」
幽体離脱…?言葉の意味が分からずに、首をかしげる。
「いや、引き留めて悪かったね。今後とも、妻をよろしく頼むよ。…僕にとって、愛らしい女性だからね。君の様な、友人が居ると心強いよ。」
「そうですか。」
彼女の事を話すときは、怖さが半減するらしい。私は、彼に短く答えると、椅子から立ち上がった。今度、あの女性とお茶をするときは、この人に気を使って喋らないとな…。
先ほどと同じ皮肉な笑みを浮かべて、私に一礼する彼を後ろに、私は靴を履くことも忘れて、フルート奏者の後を追ったのだった。
いや、旦那さん怖いなw
なんとなく、ファンタビのグリンデルバルトを想像しながら書いたんですが…、読み返してみると思ってた人よりも大分怖い人になったかもしれん。でもまあ、奥さんのことは大事にしているし、良い人…なのかな?フルート奏者と少女の話を進めたいなと思いつつ、この夫婦の話も掘り下げたら面白そうやな。