十四、
十四、
ただひたすら海を流れていた蒸気船が停泊して三日。航海が始まってからは1週間ほどしか経っていないが、どことなく疲れを感じていた私は、ぼんやりと遥か先に広がる行商の町を眺めていた。日々、婚約者と会話をしつつ美味しいご飯を食べ、日中は絵本を描き、夕陽と朝陽の合間に転寝をする。ただ、それだけを繰り返していたからだろう。やや冷たさを感じる風が心地よく、鍵を壊しても色褪せない黒髪が、港町の方へと私を指し示した。
「はぁ。」
溜息を思わずつくと、私は座っていた椅子の背もたれに背中を預けた。陽光が目元に当たって、少し眩しい。ちらりと、行商の様子を眺めると、布や繊維のような物を鮮やかなカテゴリーに広げて、旅人達に提供していた。魚を売っている人や、何か民族的な衣装を売っている店もある。ここなら、東洋の占い師も店を構えていそうだと何となく思った、その時。私は背後に誰か来たのを感じた。
「ふふ、疲れているのかい?」
「まあ。」
曖昧な返事を返しながら、座り直す。私は、やって来た青年に向かい合わせの席に座るよう、促した。首を振りながら肯定する私の行動に、少しばかり眉をひそめた様子だったが、気にしないことにしたのだろう。彼は、微笑んだまま席に着いた。
「最近はどうしているのかな?」
「ブランコの午後を希釈する、エメラルド水曜日に伯爵夫人を伴っているわ。」
「…。」
皮肉っぽく言うと、少しだけ伝わったのだろう。顔の微笑みが、やや濁りを見せた。
「伯爵夫人と言うのは、ここ数日君とおしゃべりをしている様子が見受けられる女性の事かな。とても品があって、素晴らしい方の様に思ったよ。」
「ええ。」
まだ一度だけではあるが、午後の紅茶に誘われて、貝殻の装飾がある寛ぎの間に通してもらった事がある。本当に、お茶を飲んだだけで大した話もしなかったのだが、ジュースを運んできてくれた女性の事や、店の雰囲気を形容する言葉を述べる私の声に、彼女は真摯に耳を傾けてくれた。
たった二時間ほどなのに、何となく心が安らいだのは、彼女が優しく私の想像ごと包み込んでくれたおかげだろうか?彼女自身も、夫のことや趣味として嗜んでいる絵画の事を話して聞かせてくれ、久しぶりに絵本を書く以外で楽しいと思えた瞬間だった。
「とても、穏やかな時間を過ごせたわ。」
私は、膝に目を落としながら彼にそう言った。
「そうか…。」
青年が頷く。紫のカフスボタンが、あまり奇麗ではない輝きを送り、私は不思議と彼の瞳をじっと見つめてみた。どういった輝きなのか分からずに、ワンピースの裾をいじる。彼は私のそう言った行動を、静かに見つめてから口を開いた。
「鬱屈としているんだろう?私と一緒に、町へ行かないかい?」
「…。」
どうやら、何となく私が船旅をする中で気分が沈みつつあることに気づいていたらしい。もちろん、絵本の題材になるという点では最高の旅なのだが、それ以外の観点から言うと早く家に帰りたかった。何年も会っていなかった婚約者と共に、自室にこもって絵本を描き続けることも許されず、一人だけ旅の友が出来たものの、船上での息がつまる生活は確かに私の心を鬱屈とさせるものだろう。
「まあ、ほぼ初対面の男と二人で何て。嫌かもしれないが…。嫌だったら断っても。」
「ごめんなさい。厚意に感謝するわ。」
私の事を考えての発言なのは、よく分かる。けれど、私は立ち上がって謝罪を述べた。
「サフランの踊り子は、奇麗好きの海風を嫌う。最愛のギターだけを手に取り歌う詩人も同じ。それが、二弦楽器の延長譜面だとしても同じことであるから。」
「…意味が分からない。」
額に皺を浮かべて、彼はうなり声をあげた。
「君が想像の世界に引き込まれていることは、何となくわかっているよ。けれど、私はそれを理解するだけのスペックを持ち合わせていないんだ。頼むから、言葉で説明してくれないかい?そうしなければ、君が何を望んでいるのかもわからない。」
「気にしなくていいよ。」
なるべく私を刺激しないように、言葉を選んで語りかけてくれる。歩いていこうとする私の傍に立ちあがり、彼は軽く手で道を塞いだ。
「私は婚約者だ。気にしなくていいなんてことはないんだよ。」
彼は静かな物腰でそう言った。
「けれど…、私も少し性急すぎたね。町へは誰か適当な男を誘って行くとしよう。お土産を楽しみに待っていてくれないか?なるべく、十四歳の少女が喜ぶような素敵な物を選んで送ろうと思うから。」
「…ごめんなさい。」
自然とその言葉は、口から零れていた。
「いいよ。気にしなくて。」
優しさが溢れる手つきで頭を撫でられる。私はその手の隙間を潜り抜けるようにして、幼い少女の様な行動を取ってしまった自分に呆れつつも、部屋へと戻ったのだった。
私の疲れを知って、声をかけてくれるほど優しい青年。けれど、彼は私の言葉を飲み込むことが出来ない。婚約者であることは、現実味がなく。ただ、彼の肩書が私の婚約者である。その事実に尽きるだけだったが、青年の紳士的で距離を置く行動は、確かに私を心配し導いてくれるものなのだろう。
「だからと言って…。」
宝石職人の飴細工も、藍色に輝く花々の切ない魔法も。世界中に広がるドラゴンの炎が暖かかったように、私の心の中にだけある。それを表現する術を私は持ち、それを形容することが出来る職業を持ち、けれど理解されない立ち位置に自分が居ることを私は知っていた。
「彼とは違うのよね。」
新聞社で働き、親の期待の元に勉強を励む。いつか、自分を妻とすることで未来が輝かしいものとなることが約束されている彼と、自分とでは決定的に持っているものが違うのだろう。そして、大前提として私の想像に触れて私を受け入れるとも限らなかった。
「はぁ。」
この航海が始まって、何度目になるか分からない溜息をつく。自分の中で具体化された不安の数を数えてみても、花の種が増えることはないのだろう。
「何か、ペンと書くものはないかな…。」
絵本に全てを封じ込めること。それ以外に思いつかなかった私は、丁度良く目の前に置いてあった万年筆で簡単な絵本のラフを描いていったのだった。
次回からは第二幕になります!
少女ちゃんと婚約者の青年。そして、少女の表現にはたびたび登場しているフルート奏者とは?
お楽しみに!