ハルシオン
「もう、死にたいんだ」
と、ヨリカは言った。携帯電話の向こう側から、ひび割れた声がする。僕は広い駐車場の片隅で、知り合いが停めたままのアルトに背を預けていた。音のしない風が、アスファルトから砂を巻き上げていく。七分袖のパーカーがはためく。僕は左腕を空にかざす。雨雲がふさいだ狭くて低い空、融解した太陽が鈍重な雲に混ざりこんで、紫色の空気を広げている。一日の終わりが、ゆっくりと滲みながらやってくる、湿っぽい午後七時。駐車場に点在する灯が、僕の左腕を薄闇に浮かび上がらせる。
「死にたいか」
僕は、出来るだけ穏やかな、しかし明るすぎない声で言った。「どうして、君は死にたいの?」
自分の腕に刻まれた十六本の傷跡を、確認する。誰かが死にたいと言った時、僕は必ずそうしてきた。誰かを分かる為には、その誰かと同じステージに立たなければならない。平和な地点にいるだけの無知な人間には、死にたがりと話す資格はない。
「どうして? どうしてって、聞くの?」
「ああ、聞くよ」
ヨリカは黙った。泣いているようだった。彼女の匂いを、僕は思い出した。透き通ったクラゲと春の小川みたいな匂いだ。鼻の奥がすっきりとして、ひんやりとして、安らげるような。ヨリカの声も、仕草も、気の強そうな眼差しも、何もかもがそんな感じだった。しかしヨリカは決して冷たい人間なんかではない。
「理由なんかない。もう、理由なんかないの。最悪。最低。みんな殺したい。みんな死ねばいい。うざいうざいうざいうざい。がたがたうるさい。くたばればいい。死ねばいい!」
「そうだね。死ねばいい。みんな、いつかは死ぬものだしな」
左手を、握って、開いて、紫色の空に溶かす。焦げて爛れたような醜いラインが、ひじから手の甲まで伸びている。過去につけた傷。切り刻んだわけではない。爪で抉りとったのだ、皮と肉を。今でもその感覚を思い出せる。
ヨリカは泣いている。ずっと、ずっと、泣いている。
文子の話をしよう。
ハルシオン、という響きが好きで、僕は処方された薬の中でそれだけを覚えていた。他の薬はいかにも薬品、という感じで馴染めなかった。ハルシオン。眠れなかった僕を救う為の錠剤。心を壊して、最初にもらった薬。だからといって、効果は特に感じられなかった。何錠飲んでも眠りは訪れなかった。十四歳の夏。僕は体育座りをしながら深夜テレビを見ていた。夜だけが平和だった。町は静かだし、家族は寝ている。みんなくたばったあとの無人、無音の世界に、王様の僕。
チクチクと時計が鳴る。その音を聞くと気が狂いそうになるから、電池を抜いていた。窓に夜明けが映りこむと、焦って泣いてしまうから、カーテンを厚いものに変えていた。汚いアイドルが汚い下着を見せてげらげらみんなが笑うテレビを、僕は虚ろな目で見ていた。
この先何年生きたところで、何も変わりはしねえよ。と、達観していた。学校には行けなかった。勉強する必要がなかったからだ。生きていて、何が待っている? 何年、何十年、ずっと何かをしながら馬鹿な人間の相手をして、愛想をふりまいて、嘘をついて、そんなこと、不可能だ。脳が傷んでいた。僕は物心ついてからすぐ、病院にいた。何なら産まれてすぐにもだ。母親はそのせいで僕をどう育てれば良いのか、子育てのきっかけを失ってしまった。
僕の人生は、病棟を泣きながらさまようことと、家で死ねと言われながら髪をつかまれ、橋の下に捨てられることばかりだった。ふざけて、笑って、何でもないふりをして、友達と大きくなって、「あの家のあの子と遊んだら駄目。お母さんが不倫して、出ていったんだから。あの子もきっとおかしいのよ」と、ある日いきなり友達がいなくなって。
僕が何をしたんだ。僕は生きていただけだ。怒りはやがて、虚ろな穴となって胸を腐らせた。人間の何が素晴らしいのだろう? 物語や、映画や、授業でも、人の素晴らしさは語られている。その世界は、どこにある?
馬鹿にしてきた同級生を、教科書を破ってきた数人を、僕は叩き潰した。殺す気があれば、何だって出来る。頭の中が沸騰していた。信じられない力が出た。だが、どこかでさめている自分がいた。顔面血だらけで絶叫する元友人を見下ろして、靴で額を踏み抜きながら、僕は笑っていた。教師は何も言わなかった。ただ、軽蔑する目線をこちらに注いでいた。
「何だよ」
と、僕は言った。潰れた数人の泣き声以外、誰の返事もなかった。
「何だよ。何なんだ。俺に用があるのか?」
誰も目を合わせてはくれなかった。
「ないなら、どっか行けよ。邪魔なんだよ」
ようやく、教師は言った。
「出て行くのは、お前だ」
学校からの帰り道は、とても清々しかった。平日の昼間に帰るのは、幸せだった。用水路に流れる水、せせらぎ。雑草をちぎって、舟を作り、そっと浮かべる。走りながら、一緒に帰る。田んぼから蛙が飛んで、神社の裏で遊ぶ幼児の声が聞こえて、廃屋の向かいにある自販機に眩しい陽射しがきらきらと降り注いでいて、農道に車なんていなくて、だだっ広い空と、緑の田畑と、遠い稜線が全部僕のもので、気が付いたら僕は警察に連れられて、狭い部屋で取り調べを受けていた。
タバコ臭かった。いろんなことを聞かれた。僕は冷静に、いじめられたから爆発したのだと説明した。何度か警察署に行く羽目になった。教師たちからも何度も動機をたずねられた。動機? そんなもの、なかった。僕をそっとしておいてほしかった。もはや何の意味もないやりとりをいつまでするつもりなのだろう?
母親に引きずられて、僕は裁判所の一室に閉じ込められた。反省文を書きなさい、と、誰か知らない大人に言われた。反省文。すいませんでした、もうしません、と、自分の言葉で書きなさい、と。保護観察になるかもしれないんだよ、と説明された。何もかも、意味が分からなかった。僕は書いた。すいませんでした、もうしません、と。自分の言葉でだよ、と彼はまた言った。自分の言葉とは、何だろう。僕は頭を抱えて、汗だくになった。自分とは、何だ? 自分とは何だ? 僕は何に謝るのだ? 僕を馬鹿にして、僕を踏みにじって、僕を半殺しにしてきた奴らに謝るのか? 僕をそうさせた奴らに、謝るのか? すいませんでした、本当にすいませんでした、僕は人の痛みがようやく分かりました、二度としません、家族を悲しませたくないし、誰かを悲しませたくありません、と書いた。僕は嘘を書かされている。大人はまあ、いいだろう、と言って、紙を持って出て行った。
深夜にしか、居場所はなかった。僕は何も出来なかった。ハルシオンを与えられた。国立病院に通って、精神科に通い、神戸から来ている名医とやらと対話をした。彼は僕に将来精神科医になるようすすめてくれた。
「君は、家族の崩壊を君の言葉で、君の意思で繋ぎとめてきたんだよ。壊れたおばあさんと、行き場のないおかあさんと、無関心なおとうさんを、家族にする為に、お芝居をしてきたんだ。君に自分がないのは、そのせいさ。君は、君を生きていないんだ。どうやったらみんな仲良くしてくれる? どうやったら僕を殴らないでいてくれる? そう、君は、頑張りすぎたんだ。学校なんて無理さ。安らげる場所が、君にはないんだから」
そんな苦しみの中で、君は人を見抜く力を得た。だから人間が嫌になっている。醜いだろう。汚いだろう。君はまっすぐ、全部を理解してしまっている。だからね、それを仕事にするしか、君の生きる道はないよ。
不眠症を治す為に、僕の部屋に妙な機械が運ばれてきた。蛍光灯を何本か埋め込んだパネルのようなものだ。太陽光のかわりに、これを決められた時間に見つめて体内時計を直しなさい、と言われた。馬鹿馬鹿しくて僕は笑った。こんなものをレンタルする為に、高い金を払うのだという。家族は今更ながら、僕に優しくなった。僕はもう壊れたあとだったのに。
ハルシオンを飲んでも、眠りは訪れない。携帯電話で、ネットをした。当時はまだネットとすら呼べないような状態だった。何とも繋がれやしない。それでも、僕は病んだ人間のコミュニティを見つけた。あらゆる真似をした。薬をがぶ飲みすること、腕を切ること、手首を切ること。南条あやだとか、自殺マニュアルだとか、そんなことを調べていた。死にたがりは、たくさんいた。僕は異端者ではなかった。一人ではなかった。
仲良くなった人たちは、ゆっくりと死んでいった。一人、また一人と死んでいった。ニュースを調べたら、本当に死んでいた。僕は僕のタイミングをはかっていた。怖くはなかった。未来こそが怖かった。明日が怖かった。次は何が起きる? 明日は何に怯える? だったら、今がいい。今、終わるのがいい。
携帯片手に、僕は夜のコンビニで座っていた。ガソリンスタンドが潰れたあとに出来たローソン。駐車場の隅で、メールをしながら夜を吸っていた。コーラでハルシオンを飲んだ。他の薬は飲まなかった。体の為にハルシオンを飲むわけではなかった。心を保つ儀式でしかなかった。だから他の薬は友達に配っていた。僕は楽になりたいわけじゃない。好きなものを好きなようにやりながら、あっさりと死にたかった。
「君さあ。いつもここにいるね」
と、女は言った。茶色の髪、ジーンズに、白いTシャツ。がりがりに近い細身で、タバコをくわえていた。左手で前髪をかきあげていた。
「いつも、ですかね」
携帯に目を戻して、僕はこたえた。
「毎日って、いつも、じゃない?」
縁石に座る僕の隣に、女は腰をおろした。
「ねえ、暇だから少し話さない?」
「嫌です」
「どうして?」
煙を吐き出して、彼女は言う。塗装屋の看板を見ながら怯える僕の視界に、紛れ込む副流煙。
「誰か分からないので」
「文子。はい、誰か分かったー。じゃ、話そう」
「ええ?」
「君、家は?」
「あっち、駅のそばですけど」
「へえ。近いね。あ、からあげクン食べる?」
「いらないです。何なんですか? 家まで来るとか言わないで下さいよ?」
にぃーっと笑って、文子はタバコを吐き捨て、踏みつぶした。
「君さあ、すげえ警戒すんね」
「そりゃそうでしょうよ。あんた誰って話ですし」
「暇人だよ、暇人」
文子は伸びをして、ため息をついた。そして、僕の口にからあげを突っ込んでくる。
「うまいべ?」
「……美味しいです」
「じゃ、友達な」
「はあ、じゃ、友達で」
それから、僕は文子の弟になった。彼女は安いアパートで一人暮らしだった。僕は彼女の為に食事を作った。鯖を焼いたり、シチューを作ったり。二人でスーパーに行って、手をつないで帰った。お風呂から上がった時、文子は僕の腕が血で滲んでいるのを見た。何も言わなかった。僕らは一緒に眠った。文子は僕の髪を撫でてくれた。ニルヴァーナを聴きながら僕らは眠っていた。時々目が合うと、彼女は微笑みながら「可愛い子だね、君は」と、優しく言ってくれた。僕は泣いた。泣くのを隠そうと思って抱きついた。「あの」と、文子は言った。「おっぱいが冷たいんだけど。君、泣いてる?」
家に帰ると、崩壊した家族が僕の頭を再び破壊した。貯めに貯めた薬を毎晩毎晩飲みまくった。友人から仕入れた得体の知れない錠剤も。記憶が途切れた。目を覚ますと神社の裏にいた。ローソンの裏で寝ていた。墓場の斜面に倒れていた。僕は、どこで、誰で、何だった?
文子は僕を監禁した。部屋から出さない、と、泣きながら彼女は言った。ずっと抱きしめられて、ずっと髪を撫でられていた。
「離して下さい」
と、僕は言った。ロックバンドのポスターがはられた、男の子みたいな部屋をぼんやりと見つめながら、僕は文子の背中を力なくひっかいた。
「嫌だ」
「何故?」
「私、分かるから」
「何がですか」
「君、死にたいんだろ。死にたいんだ。そうなんだろ?」
「ああ」
がさがさと鳴る、他人のものみたいな声。
「分かるよ。分かってる。分かるんだよ」
「いいえ、誰にも、分かりませんよ」
「分かるんだよ!」
ぎゅっと背中を掴まれる。文子が僕の胸に顔を押し付ける。
「文子さん、泣いてますか」
「泣いてない!」
「おっぱいが冷たいんだけど」
どん、と押し倒されて、左腕を掴まれる。袖をまくられる。
「こんなもん、生きていたいやつはやらねえよ」
「どうでしょうね。死にたいのは、生きたい証ともいうらしいじゃないですか」
「私に、そんな顔しないでよ」
「そんなことを言われてもね。あなたは、僕の何なんです?」
「私は!」
僕の額を手で押さえつけて、文子は叫ぶ。
「お前自身だ! 馬鹿野郎!」
その瞬間、僕はこの人のことを好きになった。
好きになって、しまった。
「私はさ」
と、文子は缶ビールをあけて、呟く。ベランダにぺたんと二人、並んで座りながら。真っ暗な夜。星がたくさん見える。シンプルな景色が、脳をすうっと冷やしてくれる。
「君の過去なんて、聞かない。聞いたりしない。君の今がさ、好きなんだよ。生きていてくれよ。そばにいてくれよ」
「どうして僕なんですか」
「そんなもん、関係ないでしょ? 私が好きだから、好きなのよ」
「そう、ですか」
「ねえ、酒をがんがん飲むとさ」
「はい」
「誰が誰だか、分からなくなんのね。自分のこともね」
「それは怖いですね」
「でもさ、私はそうなっても君のこと、好きなままだよ。いつも駐車場の隅っこでさ、泣きそうな顔してさ、携帯構ってんの。親の迎えを待つ園児みたいにさ。私もさ、寂しい園児だったんだ。だから迎えに行ってあげなきゃ、と決めたんだ。それはさ、あの日の私を救うことでもあるんだ。強いて言うなら、これが理由、だから、君」
「お母さん!」
「お父さんかもよ?」
僕らは笑った。そして酒を死ぬほど飲んだ。文子は酒に弱かった。僕は子どもだったが、強かった。茹であがったタコみたいな文子をベッドまで運んだ。彼女は服を脱いだ。裸になって、笑いながら僕を抱きしめて、「ほら、まだ私はね、君が好きだ! 覚えているよ、私が、私じゃなくてもさ、だって、君は、私の一部だから」
文子は僕を離さなかった。僕も離れたくなかった。女の人は、どうしてこんなに柔らかいのだろう? どうしてこんなに暖かいのだろう?
首を吊って、文子は死んでいた。数週間、僕は進学やら通院やら、憂鬱やらで文子に会っていなかった。
携帯に、文子の婚約者からのメールが来た。君は文子の弟分だと、聞いていた、だからご連絡します、と。文子は〇月〇日に亡くなりました。自宅で、自ら命を絶ちました。婚約者は自分の至らなさを悔いていた。僕は通夜の日程を読みながら、世界がねじ曲がるのを感じていた。ああ、文子が、もう、いない。姉さんが。僕自身が。半身が。
文子の部屋に行った。文子はいなかった。ローソンに行った。文子はいなかった。からあげクンを買って、駐車場に行った。文子はいなかった。僕は待った。待ち続けた。文子なら、あの日の自分を救いにくるはずだった。けれど、あっけなく夜は明けた。明けて、しまった。僕はアスファルトに額をこすりつけて、泣いた。嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ! 嘘つけ、くそ野郎。こんなのありか。こんなの、許されるのか? 死ぬなよって、離さないって、言ったのは、誰だ?
「君のこと、分かるよ」
文子はそう言った。僕は、文子のことを、知らない。分からなかった。そうだ、僕の死にたいが分かるなら、文子も、死にたかったはずなのだ。そんな簡単なことも分からず、心配もせず、こんな子どもに依存する彼女の異常性にも気付かず、何にも、何にも知らずに、ただ愛されるだけ愛されて、僕は馬鹿だ!
何日も、何週間も、僕はひきこもった。がりがりと腕を削り、血を見ては安らいだ。文子に近付いている気がして。ふとした時に、首吊りをする文子を想像しては発狂した。嫌だ、嫌だ、こんなの見たくはない、嫌だ、文子は生きてる、どっかで生きてるはずだ、と、寝室でのたうちまわり、コンパスの針やハサミを腕に突き刺してはまた泣いた。悪夢だった。狂っていた。薬なんていらない、ハルシオンなんて、何の象徴でもない、僕は、僕は、文子が欲しい。ただ僕を愛してくれる人が。でも駄目だ、僕は文子をきちんと愛してあげられなかった。婚約者とかいうやつも、無意味だった。何を抱えていたのだろう? 何に、彼女は苦しんでいたのだろう? 僕が盲目的に文子を好きだったから、彼女は僕に話したかった本当のことを隠したのではないか? 最初の駐車場、もしかしたら、文子は自分の話をしたかったのに、僕が弱っていたから、姉の立ち位置を選んだのではないか? ああ、僕のせいだ、全部僕の、せいだ……。
「君は優しいから、創作をしてごらん」
いつかの夜。文子は僕に言った。
「文章にして吐き出せば、楽になれるよ。客観視も出来る。それを見て、誰かが救われたりもする。私、詩を書いているんだ。君みたいにね、柔らかくて、女の子よりも優しい性格ならね、きっと良いものが出来ると思うんだよなあ」
僕は真夜中、原稿用紙に文字を書いた。書きはじめた。文子に会いたくて。文子を忘れたくなくて。四、五百枚の原稿を書いて、読んで、僕は泣いた。文子の居場所は、僕の頭と、紙の中にしかない。だから、泣いた。
数年が経ち、僕は文子と同じ年齢になった。腕の傷はふさがっていた。文子のことが多少は、分かるようになった。
「死にたいんだよ」
と、ヨリカは言った。僕はそうか、と言った。紫色の不気味な空、駐車場で。何度も、何度も、ヨリカは死にたいと言った。僕は聞いた。聞き続けた。
何か言ってよ、と、ヨリカは泣き崩れた。僕は文子の話をした。話し終わる。彼女は鼻をすすりながら黙っていた。
「君は、僕自身だ。出来るなら、死んでほしくはない。でも、止めたりはしない。死にたいのなら、死ぬのも良いさ。けど、一人では死なせない。僕が見届けてやる。僕がそばにいてやる。それでも死にたいのなら、死ねるのなら、死ね。僕も死んでやる。それくらいの覚悟をもって、僕は君のそばにいる」
「死にたい。死にたい……死にたい……」
「なら、死ぬ前に、ゆっくりしよう。いつもの布団で、いつものように、ゆっくり寝よう。そのあとでも同じ気分なら、一緒に死のう。何かが邪魔なら、素直に言ってくれ。僕が排除してやる。何もなくて死にたいなら、楽に死のう。聞いてあげるから。君の全てを、僕は聞く」
「……」
「分かるよ。僕にも、分かる。少しだけね。君の痛みは君のものだ。全部は分からない。死んでもいいから、聞かせてほしい。君の痛みをね。僕は君を理解したい。好きだから。自分よりも大事だから」
ヨリカは、果てしなく本題から遠い地点から、話し始める。何が苦しいのか。何が辛いのか。一歩ずつ、彼女は歩み寄る。このやり取り自体、何回もやっている。僕は空を見ながら、話を聞く。腕の傷跡を見ながら、相槌をうつ。夜が訪れる。文子は、死んだ。僕は生きてみせる。文子が与えてくれた目と想いで、出来る限りの人に寄り添ってみせる。そして、いつか死んだら、文子の話を、聞いてやるのだ。
「ありがとう、ごめんね。君がいてくれるから、私、生きていける」
「そうか。それは良かった。僕も同じだよ」
この世の中は、いつだってくそったれだ。
だから、たとえそれがどれだけ間違いで、その場しのぎの依存だったとしても、支えあったっていいじゃないか、と僕は思うのだ。
ハルシオンを何錠飲んだって、眠りは訪れやしなかった。救いなんて、どこにもありはしないのだ。
なれあうことの価値くらい、認めてくれたって良いはずだ。普通の人には、分からないかもしれないけれども。
「死ぬ日まで、生きていたい」
と、ヨリカはぽつりと言った。
そう、みんな、そうするしかないのだ。