61 憎悪と慈愛
私は仰向けのまま目を開ける。夢か現実かもはっきりと認識できず、視界内の白い天幕がぼやける中、鼻に血の匂いが漂ってきた。鼻血だろうかと確認するために手を動かそうとするも、金縛りに会ったように指先一本足りとも微動だにしない。
とにかく状況を判断しようと思考を働かせるが、視界同様に考えすらおぼつかない。そのような無力な状態に私は起きる事を諦め、目を瞑る。先ほどまで見ていた夢は戦場の記憶、確か同僚と熱帯雨林の非正規戦闘で捕虜となり、処刑されそうになった思い出だ。あの時私はどのように助かったのだろうか、自分思い出せずに長年の疑問となっている。向こうにいた頃から記憶が曖昧で、長時間の砲撃にされされた後遺症か、単に痴呆症だと勝手に解釈していた。
多くの友人があの戦場で殺された事だけは覚えている。それと血と糞、硝煙の匂いは鼻腔にこびりついて離れない。それを思い出す度に巣食う虫が這いずりまわるように、顔が痙攣する。
きっと今の私は悪夢から鼻血と錯覚して少し目覚めたのかもしれない。もしくはここが戦場だからそういう匂いが漂ってきたか、あるいは単に鼻血かもしれない。仮に血が出ていたとしても特に問題はないが、いずれせよ私は身体が動かずどうにも出来ないのだから気にせず、目を閉じた。
次に起きた時、私は自由に身体を動かせていた。ゆっくりと身体を起こし、隣に熟睡するマカを確認し、自分の鼻を触る。
「鼻血は、出てないか。」
まだ十分に働いていない頭を発声で無理やり起こすも、私の声はしゃがれていた。さらに喋る度に喉元に鋭い痛みが走り、粘りのある何かがひっかかるような感覚だ。寝ている間に口を開けて乾燥したのかもしれない。私は横に置いてあった皮袋の水を飲む。
中の水は私が昨日持ってきた時よりもだいぶ減っていた。おそらく夜中にマカが飲んでいたのかもしれない。戦場での回し飲みは一人が病気にかかっていた場合、かなり悲惨な事になるが、何故か私達二人は昔からほとんど体調を崩した事がない。だからその事についてはそれほど気に留めず、すぐに頭から消えた。それよりも寝起きの尿意が私を襲い、すぐに天幕から出る事になった。
「寒い。」
南スラーフの朝の冷え込みは昼の暖かさと取り換えるべきだと心に思いながら、陣地内の便所へ向かう。まだ太陽は山の向こう側にいるが、空はうっすらと明るくなってきている。近くには墓守や夜番、警備兵の松明が見える。
普通なら近くの茂みや森で排泄するべきだが、遺跡周辺は開けた丘であるため適切な場所まで歩かなければならない。そこで陣地内部に衛星設備を設けているわけだ。しかし便所とはいうが行為中を遮る壁はなく、覗けば丸見えな場所だ。しかも隣の行為中の人間が見える。
少しばかり低く、しゃがんだ際にぎりぎり下半身が見えない場所にいくつもの深い縦穴が掘られている。使用されていない時に穴は分厚い板で塞がれており、比較的風下になりやすい位置に設置されている。それでも多少の臭いは発生するため、この近くに天幕を張るものは少ない。
今は誰も使っていないようで、利用者は自分だけだ。私は顔をしかめながら、穴を塞ぐ分厚い板を動かして準備体勢に入ろうとする。板は中の空気が漏れないように重いものが設置されており、それを取り外した時の悪臭は酷いものだ。
そして完全に板を移動させ使おうとした時、私は穴の奥に異物を見つけた。うっすらと黒く汚れた短剣があったのだ。
「誰かが落とした、いや捨てたのか?」
いずれにせよ拾う事はできないし、私自身そんな気はそもそも起こらず、場所を変えて用を足した。行為が終わる頃、ちょうど傭兵達が起きたようで多くの天幕から声が聞こえ始める。天幕不足から地べたで寝ていた者もおり、不満そうな声と覇気のない顔の男達が徘徊し出した。私は急いで片付け、自分の天幕へと戻った。
慌ただしい朝の準備が終わり、私達の部隊は前線で攻撃の機会を伺っていた。
「弓兵構え、狙え、放て!」
攻城兵器が完成するまでの間、嫌がらせと規律維持のための戦闘は毎日続いている。今日は私の部隊が担当し、狙撃担当から外されていたマカは部下達と一斉射撃を行っていた。
このような面制圧である場合、敵は負けじと打ち返してくる。そのため多少の被害を覚悟しなければならないのが射撃戦の嫌なところだろう。
「くるぞ!」
味方の大声と共にほとんどの者が手持ちの盾や近くの据え置きの盾へ隠れる。
「ハイエナ様、やはり一斉射撃は射かけるまでの隙が大き過ぎますし、ここは各個に攻撃しましょう。」
「いや、ニセノルト殿から必ずしも敵は倒さなくて良いと、あくまで敵の神経をすり減らすだけで良いと言われていますからこれで十分ですよ。」
どうやら部下達は延々と続く単調な打ち合いに辟易しているようだ。元狩人からすれば動かず隠れた敵へ無駄矢を打つのは退屈だろう。彼らは前まで当たらないように素早く回避し、危機察知能力も高い獣を相手に一撃が重要な戦いを続けてきたのだ。
また護衛兵も弓を扱うよりも敵の頭を叩き割りたいと不満を漏らしている。今朝の訓練で彼らはかかしの頭を真っ二つにして八つ当たりしていた。やはり戦闘地域での膠着状態は何かしら人間に負担を与えるものだ。
「くるぞ!」
「クソッたれ、また弓矢乱射してきやがる。これじゃ打ち返せんぞ。」
「それだけ俺たちの射撃が怖いって事だろう。」
カラシャは仲間へ前向きな考えを言って気を落とさせないようにしている。そういった部下に好印象を与えるものはやはり計算しての発言だろうか、私は彼がそれを自らの欲望のために利用し始めたら手強いと無意識に考えている。
「ぐっ!」
カラシャを見つめながら考え事をしていた時、隣から友人のうめく声が聞こえた。振り向くと彼の上腕に矢が突き刺さっていた。
「マカ、矢が当たったか。」
「大丈夫だよ。全然痛くない。」
「嘘つけ、すぐには退却出来ないから我慢してくれよ。」
マカは腕に矢が刺さったというのに強がっているが、実際はかなり痛いだろう。というより熱い鉄の棒を一直線に押し当てられたような感覚が彼を襲っているはずだ。実際、彼は口元を歪ませながら傷口近くを押さえ、額には汗をかいている。
「ははは、鍋で火傷した時より凄いかも。」
「当たり前だ。一瞬で気絶出来なかったのが辛いな。だけど頑張って耐えてくれ。」
その後打ち合いは日暮れまで続き、部隊の負傷者は徐々に増えていった。しかし遮蔽物に隠れながらの狙撃戦に切り替えたため、幸い死傷者は出なかった。それでも何人かの部下はしばらく動けず、その中の一人は左腕が動かないかもしれないと言っている。さらに無傷の部下達もどんどん不満が溜まっているようだ。
一週間後、投石器が完成し、新型の攻城兵器は圧倒的な射程で敵の要塞を火だるまにしていた。私はその威力よりも施工期間の短縮に驚いていた。初めは二週間で完成する予定だったが、その半分で終わらせてしまった。
聞けばニセノルトは教会の権限で大勢の労働者を集めて兵器を完成させたようだ。その事について訪ねると、彼は快く笑顔で話してくれた。
「まずは商人の家族に協力してもらい、資金を確保しました。その後にシュパレーの警備隊に市内の物乞いと城壁外の浮浪者を連行させて十分な給金を払った上で大量動員させました。さらに商人ギルドの伝手で職人の徒弟を買収したり、遍歴の職人を取り込みました。その上で人員を増やして利害調整を行ったから施工期間を短く出来たんですよ。」
「最近陣地に人が増えたと思ってたらそんな事してたんですね。しかしそれでは金を取られた商人は反発するのではないですか?」
「いいえ、それはありえません。仮に彼らが反発しても教会の慈善事業に口を出せば破門もあり得ますし、そもそも人的、物的に弱みを握ってますから大した問題はありませんよ。」
「弱み?」
「私は元書記官ですから都市の人間の事を色々知っているんですよ。あと商人の家族には費用こちら持ちの巡礼に行ってもらいました。もちろん墓守の護衛をつけています。それにしゅくせ......協力してもらった彼らはギルドの大商人や新興商人と対立する中間層の方々です。今回彼らが没落した事で多少なり商人の間で格差が発生しますがそこは北スラーフの商人を誘致する予定です。」
つまりニセノルトは信仰の厚い市民を教会の恩恵だとして実質的に人質とした上で、商人達を脅して金を奪ったわけだ。そうなると得をするのはギルドの上位者である大商人達だ。彼らは普段遠隔地取引によって利益を上げている。
私はシュパレー周辺の盗賊拠点を潰す事、大商人と対立するギルド内部の商人の粛正から明らかに教会が偏っているように感じた。つまりポム司教と南スラーフ教会はギルドと手を結んでいるという事だろうか。私は様々な考えを思い浮かべ、目の前の学者へ率直に感想を述べた。
「容赦ないですね。」
「いやいや、ポム様に比べたら私は小動物みたいなものですよ。それはそうと、貴方のところの優秀な狙撃手が熱を出したと聞きました。大丈夫ですか?」
「ええ、今は微熱です。おそらく矢傷の治療で体力が奪われた上、ここ一週間の寒暖差で体調を崩したようです。」
「矢傷の治療はそんなに大変なんですね。」
「いえ、通常であれば治療と安静にしているだけで良いのですが、敵が矢に排泄物を付けていたようなのです。」
「ああ、そういえばそれについては報告がありましたね。確かその治療方法は傷口を大きく広げて洗浄や焼きごてでの治療をしたとか......痛みのあまり気絶した者もいるらしいですね。ではマカさんも?」
「ええ、治療は適切に行いました。今は体力回復のために安静にさせるのが一番です。」
「それは大変だ。早く良くなって欲しいものです。あと、これから数日は敵へ投石と弓の支援で十分に打撃を与えますから、歩兵部隊はいつでも戦闘できるように待機させてくださいね。」
「分かりました。それでは失礼します。」
私はニセノルトの天幕から出た後、すぐにマカのもとへ向かう。医療技術が未発達なこの世界では、熱を出すだけで大病なのだ。彼は矢傷で負傷しており、なおかつエートルから離れた戦地で精神的に辛いだろう。友人や部下が心身ともに弱っている間は助けるべきなのだ。
私はカラシャとフォルンツに戦いの準備を任せ、半日ほどマカの世話をした。もう半日はニセノルトや各部隊長と会議する。休む暇はないが、それを承知の上で傭兵として教会に雇われている。
しかし無理は祟るようで、自分の喉の痛みが増している。まるで刃物で喉を裂かれたようだが、外傷はない。喉を痛めたのだろうか。
「ごめんね、ハイエナ。」
私が自分の喉を擦っていると、マカは泣きそうな表情で謝る。
「気にするな。」
私はそう言うしかない。違う環境で体調を崩すのはよくあることだ。ましてやここは戦場であり、喉が痛いくらいで不満を漏らしていてはキリがなかった。それに目の前の友人は私以上に辛い状況である以上、耐えるしかない。
念のため手が空いていた従軍司祭にマカを診てもらい、その間に私は負傷した部下達の看病や戦闘の準備を進めた。私には出来るだけ自分の事は自分で何とかしたいという気持ちがある。また実利的には病人や負傷者を放っておけば、部隊の士気に関わる。誰も自分を使い捨てる相手に対して忠誠心は生まれないだろう。
私が準備で忙しくする間に、攻城兵器は盗賊の砦を半壊させる。その時には他の傭兵と同様に要塞へ攻撃しなければならない。歩兵による突撃だけが敵を完全に制圧させる事ができる。
私達はこれから敵の砦へ走る。




