閑話2 獣と信仰
私はラリカ伯領のラルテー城の中庭にて、青い空を見上げながらぼんやりと座っている。手には半壊した刃無しの長剣と甘酸っぱい香りの杯が握られており、分厚い革手袋を付けたまま手に力を入れると痛みのあまり杯を落としそうになる。
それから一口飲んだ後、剣と杯を横に置いて手袋を外すと、親指の内側の付け根から小指に至るまで5つのマメが綺麗に出来上がっているのが目に映った。脱力状態と力を入れた時の痛みの差はかなり違うもので、今は全力で拳を握る事も出来そうにないのだ。これでは完治するまでに筆を取る事は出来ないだろうと考え、また部下達に迷惑をかけてしまうと気が落ち込む。
「ハイエナ、どうしたんだ。そんな小鬼のような顔をして......」
そんな私の気持ちも考えずに、目の前の騎士は気さくに話かけてくる。私がこの中庭の隅で小鬼のような顔になって手を見つめている元凶は彼だというのに、どうにも関係ないといわんばかりの顔だ。
「ラーテ様......いえ、血豆が出来たので少々休憩を取っています。」
「大丈夫か、見せてみろ。」
そう言うと彼は私の手を掴み、それをまじまじと見る。
「ふん、何......これぐらいなら大した事はない。休憩が終わったらまた打ち合うぞ。」
「え、ええ......」
私は彼のその言葉に逃げたいという気持ちを抑えながらどうにか笑顔で返事を返すと、それを見たラーテも笑顔で私の横に座った。騎士であるラーテは、度々稽古と称して私の骨を折る勢いで死闘を繰り返すのだ。これには戦闘慣れしている護衛兵やカラシャも私に同情の意を表していた。彼らと対照的なのがラーテの部下達で、まるで私を歓迎するように優しく振る舞い、先ほどの甘味も彼らからの贈り物だ。なぜか私が城に来てラーテと打ち合う日は彼らの機嫌が良く、常に笑顔でいる。逆にそれ以外の日は気だるそうに、どこか悲しみを感じさせる雰囲気を醸し出している。
「それ、私にもくれないか。」
彼は私の横にある杯を指差している。
「ああ、では食堂に行って貰って来ます。」
「いや、それで構わん。」
「あっ。」
彼は置いてあった杯を取ると勢いよく飲んだ。彼が再び杯を置くと、半分ほどは残っていたため私は内心安堵した。
「旨いな、身体を動かした後の甘酸っぱい飲料は実に最高だ。そう思わないか。」
「そうですね、兵士達も1日の終わりには果実酒を好むと聞きますし、酸味は良いものです。」
「その通りだ。しかしお前も随分と様になってきたぞ。腕の筋肉も長剣を振るには十分、心なしか精悍な顔にもなった。」
「お褒めの言葉、ありがとうございます。」
「ははっ、なんとも感情の籠っていない返事だ。」
ラーテは私をひじで小突く。疲れきった私には思いのほか強いもので、体勢を崩しそうになって手を地面についた。その瞬間手のひらに激痛が走り、私は反射的に手を引っ込めてうずくまる。
「なんだ、どうした。私は何かまずい事をしたのか。」
そんな私にラーテは驚いたようで、似合わない口調で心配している。
「いえ、少し痛むだけです。大丈夫ですから......」
「そうか、すまないな。」
それからラーテは黙り込み、空を見つめている。私はすぐ隣で彼を見ている。鉄兜を被っていたためか彼の髪は汗で濡れているが、その匂いは不快ではない。私の鼻に来る匂いは、彼の身に付けている鎖鎧に付着した泥と、自分の血の臭いだけだ。
「ハイエナ、お前は獣信仰についてどれほど知っている。」
唐突に口を開いたかと思うと、彼は私の予想だにしない内容を喋った。
「獣信仰ですか......それほど詳しくはありませんが、教会に排撃されし異教のものだと存じております。」
「そうだな、その通り。それでその獣信仰、獣の信奉者達が度々襲撃を行っているのは知っているだろう。」
「ええ、彼らは正戦、あるいは聖なる戦いと主張して辺境の教会や教会直下の村、施設を襲撃していますね。」
「獣信奉者の襲撃が南スラーフにて増加しているそうだ。ラリカ領内の教会と護衛にあたっていた兵士にも死傷者が出ている。」
彼は深刻な表情で重苦しく語り出した。先ほどの和やかな目つきは、憎しみ深いものへと変わった。
「それは深刻な問題ですね。しかし、これまで南スラーフにおける獣信奉者の活動はほとんどみられなかったはず、なぜ今になってそのような事が起こっているのでしょうか。」
「文字を読めるお前なら本で学んだだろう。数十年前の開拓運動を......」
開拓運動、私はその単語を頭の中で必死に繰り返し、関連した記憶を探す。開拓運動とは、教会の行う聖なる儀式のため、日々の糧のために多くの森が果実畑と小麦畑に変えられた運動の事だ。もちろんそれは飢える人間を減らし、この大陸の人口増加と再繁栄への道を切り開いた素晴らしい行いだと本に記載されている。
「あの運動で多くの国が総力を挙げて開墾に勤しんだ。結果として居住可能な領土の拡大と豊穣を引き換えに、森の民や獣、獣信奉者や怪物と直接的に対立する事になってしまった。」
「ええ、それは幾度も聞きました。」
「そうだろうな、それで教会人は墓守と傭兵によって奴らを森の奥へと追いやったわけだが、根本的には解決しなかった。未だに奴らは衰えていない。」
「どういう事でしょうか。」
「我々が豊かになるに連れて、外交関係と物流は複雑化し、新たな争いを産み出した。その隙をついて何者かが、奴らを支援したのではないかと私は考えている。つまり、残党を狩らずに放置した結果、勢力を回復させてしまったという事だ。」
私は出来るだけ平静を装い、仏頂面になる事に努める。血で滲む手に汗が染み込むが、その痛みを我慢して表情を変えない。
「はあ、なんとも頭の痛い話ですね。」
「本当にそうだ。しかし一番厄介なのは都市部の一般人がこれについて全く興味を示さないという事だ。貴様らが興味を持たずとも、奴らは勢力を拡大し、不利益をもたらすというのに考えなしの屑どもが口だけは達者なのだ。」
彼はより恨めしい様子でそのように語る。都市部に住まう人間にとって興味のある事といえば、日々の生活費をどのように稼ぐか、そしてそれらの使い道だろう。酒、女、豪勢な食事が有能であれば一般人にも手に届くこの時代に、わざわざ彼らが外の事に興味を示すはずがない。大抵は同胞のために戦うよりも己の快楽を優先するのはすでに多くの人間が理解している事だ。
「それも有りかもしれませんね。どうせ彼らは口だけで興味を示さない。ならば私が力なく、彼らと共に死に絶えるのも運命かもしれません。」
「ハイエナ、悪い癖が出ているぞ。お前はすぐに諦める。怠惰は忌むべき悪徳なりと教わっただろう。」
「そうかもしれませんが、私に何か出来るとは思えません。変わらないし、変えられない男ですからね。」
「それは、私が稽古をつけている事に対して侮辱する言葉だぞ。」
普段の快活で清廉さの混じる声とは違い、濁った太い声が中庭にはっきりと広がる。周りで訓練に励んでいた兵士達が一瞥したかと思うと、武具の片付けを始めている。そして、ラーテは眉間にしわを寄せている。
「えっ、ああ申し訳ありません。訂正致します。私はラーテ様との練習試合を心の底から名誉に思っております。これはエートルの守護者に誓って誠であります。」
「本当か、ならいいんだ。」
機嫌がどうにか直ると、彼は倒れるように後ろの壁へもたれた。
「また明日来れるか。」
「明日はその......用事がありまして。」
「そうか、まあいい。来れる時には来い。」
「承知しました。」
私は緊張から脱力するように返事すると、彼と同じように壁へもたれた。ラーテは私の行為に何もいわず、ただ虚ろな目でどこかを見ているようだった。




