42 北と東
木の擦れる音とあまりの眩しさに目を覚ます。どうやらマカが窓を開けてこの薄暗い部屋に朝日と冷たい空気を送り込んだらしい。頭の中に鉄塊でも入っているかのように重苦しい目覚めに辟易しながら寝床から起き上がる。
「おはようハイエナ。よく眠れた?」
「おはようマカ、快眠とまではいかないが......普段に比べればよく眠れたよ。それにしても寒いな。」
「はいこれ、身体が温まるよ。」
彼の手には木の杯が握られており、それを私に差し出してくる。私はそれを受け取り、中を確認する。白色の液体から立つ湯気に顔を近づけると、乳と甘い蜜の匂いが鼻をくすぐる。冷気によって身体が冷えきるのを防ぐために杯へゆっくりと口を着ける。
牛の乳と糖蜜のような甘さがよく合い、臭みもなく何より口当たりが優しいため飲みやすい。そのため後味も良く、寝起きには適当な一品だ。
「美味しい、もっと飲みたいぐらいだ。」
「良かった。北方に進むに連れてどんどん寒くなってきてるから体調管理はしないと。カラシャさんが心配してたよ。」
「そうか、すまない事をした。マカも気を使ってくれてありがとうな。」
「どういたしまして。」
彼は笑顔を作りながらそのように返す。私は彼のそんな態度に笑ってしまい、杯の残りを飲みながら見つめ続ける。何度見ても彼の端正な顔と笑顔はとても良い組み合わせだ。これで堕ちない女性はいないだろうと考えるが、人それぞれで好みがあるだろう。さらに言えばこの大陸の美の価値観をほとんど理解していないため、どのような顔が良いのか検討などつかない。ただ私の故郷だと彼の顔は可愛げのある優男として女性に人気があるはずだ。
甘い乳を飲み干し、杯を机に置いてもそもそと着替える。ややシワが出来ている服を伸ばしながら袖を通し、その上から外套を身に纏う。汚れを払いながら腕の方を見ると、平服と外套の間から鎖帷子がはみ出ている。どうにかして冷たい金属を外套の中に押し込めると、鞄を腰に身に付け、弩と短剣を外套の裏に隠す。どうやらマカも着替え終わったようで、準備万端と言いたげな目でこちらを見ている。
「皆は?」
「もう外に出てるよ、後は僕達だけ。」
「そうか、じゃあ買い物......行こうか。」
シュパレーの街―北市場、南側市街から歩いて5分の広場には、晒し台を中心に多くの露店や商店が立ち並んでいる。市場には材木や鉱石、塩や干し魚、麦や酒等の食材や調味料、剣や鎧等の武具が多く取引されており、それを目当てに地元民から遠隔地交易の商人まで数多くの人々が集まっている。時折異国の珍しい品々も見かけるが、明らかにラルテーの街で購入する方が安いだろう。やはり内陸へ進むに連れて値段は上がるようだ。
市場は多くの人で賑わい、熱気と騒音に溢れている。私は歩きながら市場を観察する。ある場所では動物商が大工と交渉し、羊のような動物五匹と大量の材木を交換している。またある場所では吟遊詩人風の男が服商人相手に値段交渉を挑んでいるが、戦況は芳しくないようだ。そして目の前ではふたりの男が言い争っている。
「ああ、こりゃアラス銀貨じゃないか! うちはデナリ系かウラス系の貨幣じゃないと取引できないよ。」
「細かい事言うなよ。後から両替すればいいじゃないか。」
「馬鹿、両替にだって手間賃かかるんだよ。何せ闇取引なんだからな。分かったら両替して来なよ。まったく、買いたいならそれ相応の態度を見せろってもんだ。」
商人風の男の言葉に買い手側は黙ると、渋々どこかへ行ってしまった。おそらくは金融業者を探しに行ったのだろう。
聖教会の影響根強い今日の社会において、両替等の金融業を営む商人は目の敵にされている。聖教において黄金とは欲望の象徴、故に不浄なる存在は教会が管理するべきものと定めている。実際のところ、それらを管理しているのは穢れた民族と称される人々であるが、大半の人間はその事に感心がない。だが賢い人間、特に商人は金融業の巨大な利益をよく理解しているようで、民間の金融業者は少なからず存在している。
富の回収を行う教会からすれば民間の金融ほど煩わしい存在はなく、その撲滅に力を入れているようではあるが、彼らの旺盛に陰りは見えない。そのためこのような大規模な市場、あるいは定期市においては両替商が必ず存在する。そして人々も彼らを求めているのだ。
私は市場の凄まじい熱気に当てられて再び鉛のような気分になるが、鞄から小袋を取り出して鼻に当てる。大きく深呼吸して袋の中の薬草を堪能すると、幾分か私の気は晴れていく。袋を鞄に戻し、しばらくうつ向いてどうにか落ち着きを取り戻すと、私は重たい身体を動かして市場を進む。
「売上はどうですか。」
私は自分の露店に顔を出して商売の雲行きを確認する。私の声にこちらを向く商人や召し仕いの顔は苦虫を噛み潰したようとまでいかないものの、それなりの反応を見せる。
「ハイエナ様、正直芳しくありません。」
その言葉を認識した時、私の顔も彼らと同様のものになっている事だろう。込み上げる頭痛と吐き気に対して、ため息混じりの深呼吸をしてどうにか対処する。そしてゆっくりと部下に詳細を問う。
「それはまたなぜでしょうか。」
「客はそれなりに来るのですが、その大半が貨幣なしの者、物々交換ばかりで稀に来たとしても外貨だけなのです。デナリ系統の貨幣が滞っているようで、目標額の金貨10枚にはほど遠いですよ。」
「つまり、ここは現物経済ばかりで貨幣経済は二の次ということですか。」
「その通りです。私達の考えはこの街で商売を続けるより、他の街で少しづつ荷を卸していくのが良いかと。」
雇われ商人の深刻な顔と発言は私の計画を変更させるのに十分な効力を発揮する。当初の考えはシュパレーの街を中心に周辺の都市や村を立ち回る予定だった。そして交易と市場調査を行いながら目標額を稼いでエートルへ戻るつもりが、今は銀貨一枚たりとも獲得できいない。スラーフの中間に位置し、国内外問わず余剰生産物が集まるここでさえ稼ぐ事ができないのであれば、周辺都市などもっての他だろう。
「はあ、そうですか。では調査を行っている部下達にもう不要だと伝えてください。明日ここを出発するので今日は自由に過ごせと。」
「分かりました。我々はここに残ってもう少し粘ります。」
商人はそう言うと、警備のため立っていた護衛兵へ指示を飛ばして彼を伝令に出す。心なしか伝令は嬉しそうな表情をしている。商業都市で半日の自由時間を与えられれば、そのような顔になるのも納得だろう。私としては部下達の給料の使い道に物申す事など到底ないが、それでも自分の気が下がっている時に笑顔など見たくないと思ってしまう。
「そういえばマカはどこへ、先ほどから姿が見えないのですが。」
「ああ、マカさんならさっき向こうで見かけましたよ。飼い犬を連れて散策していました。ちなみにカラシャ隊長とフォルンツ殿はこの街の東側にいます。」
「そうですか、ありがとう。貴方達も無理はせずに。」
礼を告げて私はマカを探すために再度市場を歩く。雑多な商店と多くの人間が行き交うこの場所は、やはりスラーフ最大の商業都市という名に相応しい場所だ。しかし素晴らしき都市の欠点を挙げるとすれば、それは地面の汚さだ。生鮮食品などが荷台から転げ落ちたのか、あるいは不届き者が食べかけの食事を捨てたのだろう。あらゆる種類の食料品が無残にも踏まれ、台無しになっている。
この社会における一つの理不尽、それは食料供給の不平等だ。この大陸では基本的に農村部において麦や家畜の生産が行われる。そして徴税が行われ、農民は教会と領主に七割の食料を納めなければならない。つまり、農民は自身の育てた農作物の大半を奪われた挙げ句に、大家族を養うための食料を捻出しなければならない。到底そのような事は不可能に近いため、女子供の間引きが存在する。運よく孤児院や女子修道会に入れたとしても極度の貧困に喘ぎながら不幸な日々を送るのだ。
そのような悲惨な人々が存在するというのに、目の前には多くの食料品が浪費されている。悲しき事実であると同時に、私にはこの状況が仕方ないと思えた。どこかに不幸な人間が餓死しようとも、どこかで幸せな人間がたらふく食べようとも、それは先祖の代から決まっており、起こるべくして起きた事だ。もし自分から変えたいと願うなら逃げれば良いのだ。土地に縛られた農奴にも脱出の機会は必ずある。そして新しい土地で転機を迎えればいい。その結果が都市部への浮浪者の集中、あるいは紛争の増加だとしても仕方ない事だ。
「ヤタ~美味しいだろ~」
「くぅーん」
中性的な声に導かれるまま、気づけば私はヤタに餌を与えている。市場をふらふらと移動していると、肉売りの露店の前でマカを見つけ、声をかけたところ彼は飼い犬に肉を食べさせていたのだ。どうやら彼は本当に小さな狼を気に入ったようで、まるで老人と孫の関係、あるいは過保護な親といえる。今もヤタを地面に座らせて食べさせればよいものを、彼は大事そうに抱き抱えている。そして私が赤く柔らかい肉片を口元へ持っていく。
マカに強制された私は、仕方なくヤタの餌やりをしているわけだが、意外にも子狼の食事に不快感は抱かなかった。子供という事もあるだろうが、ヤタの瞳は透き通り、顔はどこか人間の幼子の雰囲気を感じさせ、その丸い身体からは子犬と変わらぬ愛くるしさを覚える。私はいつの間にかヤタを好いていた。
「餌やり楽しいね。」
そんな気を組とったのか、マカはどことなく機嫌よくこちらを見ている。
「しかしよく食べるな。この大きさでこれだと、大人になる頃にはどれ程の食費がかかるのやら。」
「さあ、一ヶ月に金貨1枚ぐらいかな。でもその時は僕が何とかするから心配ないさ。」
「だといいけどな。」
この街で売られる商品は物だけではない。人間もその対象となる。大陸の畜産業や農業技術が発達し、人口爆発と労働力不足が顕著になるにつれて人間のひとりあたりの価値は下がり、人手の需要は増すばかりとなっている。それ故労働者、奴隷が必要なのだ。
マカと別れた後、私はカラシャとフォルンツを探して街の東市場へ向かった。シュパレーでは東側広場にて大規模な奴隷売買が開催されている。北方から多数の奴隷が連れて来られ、公衆の面前に晒される。そして自身の行く末を他人に決められるのだ。戦乱渦巻く北方の戦場は奴隷産業に一役買っており、多くの人間が奴隷にされて売られているらしい。言語の壁が消え去った現在では聞く事もできないが、昔はある特定の民族の名称を奴隷という意味で使っていたようだ。
開拓修道院や聖教会の教えによって労働観が変容した今日では、ある学者達の間で奴隷産業の未来を予測する事が流行りとなっている。しかし社会の研究自体が新しい分野であるため中々難航していると聞く。また、大学にいるような学者達は神学か哲学を専門とする。そして神学以外は無価値の屑という扱いであるためおそらく社会学者など遥か先の話となるだろう。
そう考えながら私は、人間の長蛇の列をじっと見つめている。上半身裸の男達と化粧をして少し高めの服を来た女達が一列に並んでいる。彼らは今から目の前で偉そうにふんぞり返っている人間達に買われるのだ。買い手の中には善人も悪人もいるだろう。奴隷はただ祈るだけ、ひたすらに良い主人を願いながら買い手を見つめる。
「まさに合理的ですね。」
「いや地獄だろう。」
奴隷市を見つめていると、後ろからふたりの男がそのように言う。
「カラシャ、フォルンツ殿......驚かさないでください。随分と探しましたよ。」
麻袋を頭に被る紳士と褐色の肌を持つ屈強な大男によって挟まれる事に羞恥と恐怖を覚える。やはりというべきか、この市場にいる人間の半分ほどが私達を幾度も一瞥している。奴隷すら疑問と哀れみの目を向けてくる。中々に耐え難い屈辱だ。
「すいませんハイエナ殿、少しばかり用事があったもので。」
「構いませんよ。この街での稼ぎは最悪......とまでいかなくても十分ではありません。明日ここを出ます。それまで自由時間だと、もう北側の部下達は遊んでいるでしょうね。」
「そうですか分かりました。ああ、それとこれを。」
芸術家は懐から袋を取り出すと、私の手の中へそれを押し込める。私は不振に思いながらその袋の紐を緩め、内容物を確認する。
「これは金貨、それも10枚以上!?」
「道中で高そうな剣を拾ったでしょう、この街の友人に頼んで取引しました。値段は金貨18枚です。」
「18枚ですか、よくそれほどまで値段を吊り上げられましたね。」
「何、大した事はしていませんよ。少しの交渉材料を持っていたのです。ああそうだハイエナ殿、金貨18枚のうち3枚ほど私に頂けませんか。良い貴婦人と店を見つけましてね、今夜にも彼女とそこで過ごしたいのです。」
「もちろんですが、それだけで良いのですか。」
「金貨10枚は友人のため、金貨5枚はここまでの旅の料金、金貨3枚は自分のためです。ああ、自分と人妻のためでした。」
彼の発言には清貧や清廉とかけ離れた言葉も含まれているが、そのような事など問題にならない。私はこの芸術家を胴上げしたい気分だ。その気持ちを押さえ込み、私は出来る限りの感謝の言葉を彼に尽くした。
やがて最高の太陽が傾き、家々が赤く染まる頃になると街の活気も落ち着きつつある。その中でも南側はまだ騒がしいが、とにかく私達はそれぞれの夜を過ごすために東区から出た。




