閑話1 獣と始まり
南部特有の暖かな風に心地よさを覚えながら、まだ来ぬ待ち人を想う。彼の性格は温和で、多少気が弱いゆえに問題を抱える事がある。だが、周りの人間からはとても慕われており、非常に好青年といえるだろう。
そんな彼は私生活も比較的真面目であり、時間に遅れるという事などありえない。ラコテーの繁栄街は他の都市と比べても治安は良好、食い逃げやスリが数人いる程度で南部一安全な街といえる。犯罪に巻き込まれる心配はさほどないが、私の心には一握り程の焦りがある。
もし彼が私との約束を忘れて寝ていたなら安堵する。しかし、万が一を引き当て殺されでもしていたらと考えてしまい、落ち着く事ができない。私はひたすら彼の事を考える。すると彼の姿がはっきりと頭の中に思い起こされた。頭から爪先までの鮮明な全容が目蓋の裏側に描かれている。
黒い髪と整った顔立ち、綺麗な水のように透き通った肌と細い四肢が見える。そして、彼の目の色は何色だったのだろうか。思い出す事は出来ないが、とても落ち着く色だと記憶している。それはきっと。
まるで羽ばたく鳥のように腕を広げながら一呼吸おいて、少し心配性が過ぎると反省する。ラコテーは多くの衛兵が巡回しているため危険はほぼない。なんといってもマカは射撃の名手だ。普段から弩を持ち歩く彼は身を守るぐらい訳はないだろう。
そう考えていると安堵と共に尿意の波が来た。私は急いで近くの茂みに身を隠し、用を足す。ラコテーの街には専用の排泄場所がなく、一般の人々は皆適当な壺か人目のない道端で用を足す。一番人気の排泄場所は家畜小屋だ。この世界の家畜は豚のように何でも食べる。排泄物ですら粥を食べるかのように消費するのだ。
そんな便利な家畜がいようと、大半の人間は道の真ん中や水場、家の隅などあらゆる場所を腹痛から解放されるために取り合うのだ。スラーフ南部は比較的清潔な都市が多く、今のところ他の地域に移住したいとは思わない。
用を終え、水場を探すが見当たらないため仕方なく持っていた酒を手にかける。甘い匂いが鼻の奥へ入り込んでくるが、特段気分がよくなる事はない。
手を払い終わり、その場から立ち去ろうとすると、私の鼻に異臭が飛び込んできた。先ほどまでの甘ったるい酒の匂いは打ち消され、腐臭が辺りに漂う。私のものではないだろう。そうであればとうに気づいていたはずだ。
私は鼻から手を離し、眉間にしわを寄せながら臭いの元を探す。チーズが腐ったような臭いが鼻を突き抜け、私はそれに耐え切れず、布切れに酒を染み込ませ、匂い避けとして口を覆う。それでも防御を貫通し、酒と混じり合いながら私の神経を刺激する。
ため息をつきながら半ば絶望的な気持ちで捜索を続ける。そして、その発臭源を発見するに至る。簡易便所程の大きさの物置小屋に近づくとより猛烈な悪臭が息を詰まらせようとする。私は恐る恐る扉の取っ手を掴み、中を確認する。木製の扉が軋む音と共に、日光が中の暗闇を追いやり、発臭源を露にさせる。
そこには死後2週間は経ったであろう人間の死体が、うずくまるようにあった。強烈な匂いもさることながら、不快なる虫や小動物がそれに群がり、視覚的にも耐え難い。私は吐き気を押さえ込み、その場所を後にした。
息が絶え絶えになるほど走り、気づけば私は市場にいた。そこは人で溢れ返り、様々な声と匂いがある。先ほどの惨憺とは打って変わって華やかさを感じる。
死体はかなり腐敗していたが、男だと分かる程度の肉は残っていた。さらに衣服は上等なもので、よくギルドの商人が身に付けているものだ。下手を打った商人が殺されでもしたのだろうか、しかし、気になるのは、何故今まで発見されなかったかという事だ。近隣の住民は匂いを不振に思わなかったのだろうか。それとも関わらない理由があるのだろうか。いずれにせよ、私はもう面倒事に関わりたくはない。
「ハイエナ、ごめん。」
目の前でマカが申し訳なさそうにしている。今の彼は一見すると短髪の元気な女性にしか見えない。だが、彼は確実に男であり、それは一緒に水浴びをした私自身が一番理解している。
「大丈夫だ。何かあったのか?」
「いや、道に迷って遅れたんだ。本当にごめん、集合場所に行けなくて。」
この時ばかりは彼を許すしか選択肢はない。もし集合場所に彼が遅れず来ていたら、今日は酒を飲んで1日を過ごすことになったはずだ。そして、彼はまた泣いていただろう。
「そんなに気にしなくていいさ。じゃあもう行くか。」
私はゆっくりと立ち上がり、彼に歩くよう促す。
「ん、この匂い......香水でもつけてる?」
「あ、ああ。」
マカは私より鼻が良いらしい。先ほどの腐臭がわずかばかり服に染み付いてしまい、仕方なく露店の香水を購入し、匂い消しとした。私は小瓶の蓋を開けた時、その匂いを感じなかった。始めは不良品を掴まされたのかと思い、通行人に小瓶を確かめて貰ったが、彼は良い匂いを感じ取れると、私の匂いも同じだと言った。
どうやら私の鼻は腐臭で麻痺してしまったらしい。この市場に漂う肉の匂い以外は感じない。何かの動物の肉が焼ける匂い、ゴミ掃除に勤しむ家畜の匂い、人間の匂いが私の鼻を刺激する。
「僕と同じだね。」
「マカと、お前もこの香水を?」
「うん、ここに来る途中でお婆さんに貰ったんだ。助けてくれたお礼って。」
「助けてくれたお礼?」
「そうだよ、お婆さんが何か怪しい人達に殴られてたから助けたんだ。」
「お前、それで遅れたのか。」
私はそこで言葉に詰まった。危ない事はしないでくれと彼に言えるはずもない。私ならなおさら言えない言葉だろう。私の仕事に友人を巻き込んでおいて今さら罪悪感を覚え、心配するなどもはや侮辱だ。私は友人を傷つけたくない。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない。行こう。」
「そうだね。それでさ、院長達へのお土産何がいいかな。」
「うーん、まあ適当に市場を回って探そう。」
隣を歩くマカは楽しそうに露店の商品を品定めしている。家族へのお土産を選びながらも時折、肉を焼く露店の方を見ている。
彼が商品を選んでいる間に、私はその店へ立ち寄った。程よい炭と肉の香りが混ざり、それは私の胃腸を刺激する。すぐさま肉の串焼きを購入し、それを大切に持ちながら彼を探す。
マカは装飾品を扱う露店で食い入るように一つの指輪を見ていた。まるで蟻を見つめる子供のように、ただそれに意識を集中している。
「それが欲しいのか?」
「え? ああ、そうだね。欲しいかな。」
「資金足りるか?」
「足りないです。」
私は深く落ち込む彼の手に銀貨1枚押し込んだ。彼は面食らった表情になり、だがすぐに笑顔へ変わった。
「うちの商人連中には内緒にしてくれ。まあ、バレたら必要経費だと言うけどな。」
「ありがとうハイエナ。それとその串焼きもね。」
彼の笑顔を見た時、私は安心感に包まれた。そして、彼の目の奥に緑の閃光を見た。それは、とても落ち着く色であった。




