30 垣間見と契約の終了
机の上にある燭台の灯火が、何処からともなく来た冷たい風に揺れ、薄暗い部屋の闇が明かりを侵食する。だが、灯火は息を吹き返し再び部屋の中を照らした。その灯りがなければ、私は最愛なる読書すらできない。そうなっては精神的に大損害を受けるため慌てて風の出所を調べる。しかし、部屋の壁や床にはネズミほどの隙間もなく、風が入りようもない。
孤児院の壁は新しく作り替えられ、床も土ではなく木板が敷き詰められている。だからこそ風の存在に疑問を持つのだ。せっかく孤児院へ多額を支援したのに子供達やラーサ院長達が不自由にしていては意味がない。私は四つん這いになりながら部屋の角までくまなく調べる。
「ハイエナ様、何をしているのですか?」
ふと後ろから声をかけられ、私は恥ずかしくなり急いで立ち上がった。声の主はシャラだ。カラシャの姉であり、病弱ながらこの孤児院で懸命に働いてくれている。もちろん無理な事はさせず、出来る限りの範囲で仕事をしてもらう。もし、彼女が過労で倒れる事があれば、きっと私はカラシャに殺されるだろう。
彼女にはラーサ院長の手伝いと子供達の世話を頼んでいる。彼女自身子供が好きな人間という事もあって中々に子供達から人気だ。ラーサ院長とも仲が良く、まるで姉妹のような距離感で接している。
「シャラさん、いや少し寒気を感じましてね。風の出所を調べていました。」
「それはまた不思議ですね。改修してからそのような事はなかったのですが、また私が調べておきますから今はくつろいでください。」
そう言うと彼女は運んできた木製の杯を机の上へ静かに置いた。そしてもう一杯は、彼女が手に持ったまま席に着いたため机に置かれる事はなかった。
「動物の乳とお酒を混ぜたものです。温まりますよ。」
彼女は杯の中の酒をゆっくりと揺らしながら、それを一気に呷る。酒は一瞬にして彼女に吸収された。私も負けじと思い、机の上の杯を取る。目の前で私を笑顔で見つめる褐色の美女の姿は、本の中に出てくる古代の女神のそれと似ている。
とてつもない圧、それにある種の心地よさを感じながら私は温かい酒を飲み干した。そして、私の身体は燭台に灯る火の如く火照り、寒気は彼方へ消える。
「いかがですか?」
「ええ、まろやかな口当たりと一杯の満足感があって、とても美味しいです。」
「ふふっ。」
目の前の女神は私の舌鼓と感想に笑っているようだ。だがその微笑は、評価への感謝とは違っている。
「どうしました?」
「ハイエナ様、そこは変に言葉を並べ立てず、ただ美味しいと言えばいいのですよ。」
「そういうものですか?」
「そういうものです。」
特に意味のない談笑の後、双方共に黙った。私にはこれ以上何を話すべきか分からないし、彼女も私の事をあまり知らないため取っつきにくいだろう。だが、その沈黙に私の気分を害される事はなく、目の前の彼女も特に気にしていないようだ。
「ありがとうございます、ハイエナ様。」
「何がですか?」
「弟と私に良くして下さって、とても感謝しています。」
「そうですか。」
「この孤児院へ来てから子供達やラーサ院長と触れ合って、私の濁った心が癒され、王の宝石の如く透き通るように変化しました。本当にありがとうございます。」
「まあ、私も色々と必要でしたし、大丈夫です。それにしても中々特徴的な表現をしているようで。」
「ええ、ムステにいた頃色々とありました。一時は詩人を目指そうとしたのですよ。でもその志しは不幸を呼びました。まあ、今は子供達を寝かしつけるのに役立っているから有難いですけどね。」
そう語る彼女の顔はどこか悲しげになり、何かを思い出したようだ。
「すみません......お酒、美味しかったです。」
「お休みになられますか?」
「ええ、シャラさんも無理をなさらないよう。」
私は彼女に愛想よく笑い、食堂を後にした。そして、自身の寝床を目指す。
それほど長くない廊下には灯り一つなく、だがそれが問題にならないほどの月明かりが満たされている。攻撃的な冷気が漂い、私の眠気を振り払おうとしてくるが、どうにか自身の疲れを守りながら寝台を目指す。
廊下にはそれらだけでなく、カラシャのいびきがはっきりと響き、美しく寂しい雰囲気も台無しだ。
廊下を進み、自室の扉に手を伸ばした時、どこからか声が聞こえた。それは下品な寝言と歯ぎしりに混じって私の耳を通り抜ける。
私は小動物のように耳を立て、声の主を探る。しばらく集中していると、その声が矯声だと分かった。そして、それはラーサ院長の部屋から聞こえてくる。
私はゆっくりと音を出さずに院長の部屋の前に立つ。そして、扉を軋ませないよう慎重に動かし部屋の中をを覗き見る。その部屋の光景に私は一瞬だけ動揺した。ラーサ院長と誰かが寝台の上で蛇のように絡み合っている。その様相は恋人の行為に近く、一種の芸術性を感じることができる。
廊下を満たしていた月明かりはラーサ院長の部屋にも満ち足り、もう一人の姿をはっきりと映した。
「マカ?」
端正な顔の少年が包容力に満ちる女性を介抱する光景が私の目に焼き付き、私はその行為から目を離せずにいた。少女の如き少年は女神の如き彼女の男であったのだ。
私は石像のように固まっていたが、数分後に動揺から覚め、矯声溢れる部屋から後ずさった。
私は井戸の前にいる。冷たい風と冷気に晒されながら温かな東日を全身で受け止めている。吐いた息が太陽によって可視化され、私はそれらを消え行くまで見つめる。
ラーサ院長とマカ、母親と子供のような二人が絡み合う姿に、私は不快感を感じなかった。ただ邪魔をしてはいけないという気持ちがあっただけだ。だが、動揺はしたため一睡もできなかった。
行き場のない気持ちが心に充填され、形容しがたい感情が生まれる。私はそれを胸に抱え込んだまま、まだ静かな街へ向かった。
街の広場に町人の姿はなく、そこには多くの傭兵が気だるそうに並んでいるだけだ。その中の一人が私に気づき、こちらへ向かってくる。他の傭兵より整った身なりのその男は笑顔で挨拶した。
「ハイエナ様、おはようございます。」
「おはようございます。どうしたのですか?」
「いや、夜も明けましたのでこれから北に向かおうかと思いまして、南にはハシャがいるから北行するしかないのです。それに北は仕事も狩場も多いですからね。」
朝早くから傭兵隊長は精力的だ。
「そうですか、残念です。」
「ハイエナ様にとってはかなり出費でしょう。そう言っていただけるとは意外です。」
「ええ、そうですとも痛い出費でした。おかげで金欠です。」
「では、あの守銭奴......ハシャを頼るといいでしょう。あの男は金になる情報は何でも知っていますから。」
「今回の仕事は中々に良いものでした。また、会う事があれば契約したいものです。さようなら、ハイエナ様。」
「私もそう思いますよ。ではお気をつけて、傭兵隊長殿。」
傭兵隊長と七十五名の傭兵達はエートルの街から霧のように消えた。愛想や礼儀のない傭兵集団であったが、敵前逃亡や裏切りもなかったため私は彼らを信用していた。
彼らを想像すると、思い起こされる記憶はどれも血生臭いが、どこか懐かしく感じる。だがそれも数日の後に記憶の片隅にすら残らないだろう。私は、彼らが通って行ったエートルの門をしばらく見つめていた。




