第9話
聞くなら今しか無い。
知るなら今しか無い。
もうこんな時間は訪れないんだ、もうこんな機会は有り得ないんだ。
聞くだけ聞いて、今日を終わろう。
俺たちを、兄妹を終えよう。
「お兄ちゃんのこと?」
「お前が赤ちゃんの頃は、お兄ちゃんだったかも知れない。覚えて無いかもしれないかもだけど、お前を寝かしつけたこともある。保育園に迎えにも行った事がある。一回だけだけどな。でも今みたいに全く話さない、顔も合わせない中で、それでもお前は俺のことをお兄ちゃんって呼べるのか?」
「んー」
悩む妹。
見れば目線を下にして考え込む姿勢に入っている。
これで終わる口実になる。ロクな応えは期待してもいない。
「お兄ちゃんは」
やがて、妹は言った。
「大好きだよ」
「………」
「………」
「……、何て?」
「お兄ちゃんは好きだよ」
消えた「大」の行方を追って、俺たちは……って違う違う。
「何で?」
「分かんないよ。お兄ちゃんは好きだし、どこかに行くのも嫌だし」
この時、俺は三つもの過ちを自覚した。
一つは、妹と話していたと言うのに、俺はただの一度もこの道中にこの子の顔を見ていなかったことである。
言わなきゃ分からないこともある、悪い事をしたらごめんなさい、そんな小学生でも理解している事を、大の大人である俺が出来ていなかったのだ。
人と話す時は、ちゃんと目を見て話す。
──妹は、今にも泣きそうな顔で俺を見上げていた。
旧友の転校、大好きだった飼い猫との離別、そんなものでは推し量れない程の……悲しみ。
二つ目は、俺はこの子のことをどうおもっていたのか。
近くて遠い他人──違う。
血の繋がった誰か──違う。
じゃあ、何なのか?
他人なんかじゃなくて、ちゃんと血も繋がっているこの子が俺の事を、「お兄ちゃん」だと言うのなら……俺にとってのこの子は何なんだ?
ずっとこの子のことを、どう思い続けていた。
この短い時間で、答えは見えていたはずだった。
応えていたのだ。
俺はこの子を、妹だと分かっていた。
うっとうしい言葉で壁を作って、妹を俺の中から除外していた。
どうしてか。
それが俺の犯した、最後の間違い。
「お兄ちゃんじゃなきゃやだ。やめるなんてやだ。お兄ちゃんはお兄ちゃんだもん……やだよ……やだ……」
子供の頃、産婦人科に母親の面会に行った時、俺はこの子と出会った。
まだ幼いなんて言葉では言い表せないくらい小さくて、顔もくしゃくしゃで……でも、とても愛らしい子。
──この子が、新しい家族だよ──
疲れ切った母の、搾り出すような言葉。
俺は──両親、特に父親との仲がずば抜けて悪かった。
本当に血が繋がっているのか、俺だけ橋の下で拾われた子供なのではないかと疑うレベルで父子の間で不仲があり、幾分かはマシにしても母親とも似たようなものだった。
それでもこの子は。
この子だけは、違う。
関係なかったのだ、親だとか、何だとかなんて。
誰が何と言おうと──例え俺がどうこうしようとも。
俺は、この子のお兄ちゃんだったんだ。
その時の俺は、涙を堪えるので必死だった。
どれだけこの子に酷い仕打ちをしてしまったのか。
純然な思いで俺のことを兄だと慕い、それなのに突き放されて、ついには言いたくないことまで言わせてしまった。
兄と呼んで良いものか、鬼だと蔑まされても言い訳なんて許されない。
許されて良い訳が、無いんだ。
この日、俺は初めてこの子を抱っこしてあげた時のように、膝を折って抱き締めてあげた。
歩道のど真ん中。家までの距離はまだある。
その中で、俺は耐え切れずこの子を抱き締めて上げた。
言わせてしまった苦しみを、離れたくないと言う、堰を切った思いを受け止めるために。
──俺の妹を、抱き締めた。