第1話 憤怒の悪魔
怖くない。悪魔なんて、全く怖くない!確かに、全身黒尽くめで、目深に被ったフードの下には悪魔らしい醜悪な顔が隠されているのかもしれない。でも、私は、リアは、悪魔なんて恐れない!
私はなんとか自分の心を奮い立たせた。
領主の館の門を出たところで悪魔は立ち止まると、無言で手を差し出した。
よく分からないけど、私はとりあえず彼の手に自身の手を重ねてみた。
すると、突然世界が反転した。気がつくと、先ほどまでいた領主の館の姿は消え失せ、見慣れない立派な屋敷の前に立っていた。
「なになに、どういうこと!? 瞬間移動したわけ!?」
私は初めての経験に思わず興奮してしまった。
「…そういう能力だ。」
「便利な能力ね!」
一瞬で移動できるなんて、反則すぎる能力だ。そんな能力を持っているなんて、悪魔なのに羨ましい。
私は羨望の眼差しで彼を見つめた。しかし、彼は気にもせずにさっさと私を屋敷の中へ案内した。
「…もう帰ってきたの? おかえりなさい、旦那様」
屋敷の中へ入ると、メイド服を着た女性が気怠げにやってきた。彼女は美しいが、表情に覇気がなく、なんとなく物憂げな印象を受けた。
「そちらのお嬢さんは?」
「彼女は今日から奉公に来た領主の娘だ。」
「なるほど」
「それから、彼女は…メイドのアッツェリアだ。何か分からないことや困ったことがあればなんでも彼女に聞くように」
「分かったわ」
アッチェリアね、覚えておかなきゃ。
「あと、君の部屋は…」
彼はいくつか事務的なことを説明しながら屋敷を案内した。順番に部屋を進み、最後の、3階の廊下の一番奥にある部屋の前に来ると、立ち止まった。
「この屋敷で何をしてもいいし、どこに行ってもいいが、この部屋だけは開けてはいけない。」
彼は私に鍵の束を渡した。
「開けちゃだめって言われると余計に開けたくなっちゃうじゃない!」
「…開けたら死ぬ」
「え!じゃあ開けない」
私は慌てて扉から離れた。開けたら死ぬ扉なんて、危険すぎる。それにしても、どうして彼はそんな危険な扉の鍵を私に託したんだろう。
「…屋敷の案内は以上だ。何か質問は?」
「特にないけど…あ、奉公って、具体的に何をすればいいの?」
私はずっと気になっていたことを質問した。
「…今日はもう遅いからいい。部屋に戻ってゆっくり休むように」
「…分かったわ」
なんだか拍子抜けだ。
彼は話は終わったとばかりに引き揚げようとした。私はまだ聞きたいことがあったので、彼の背中に向かって言葉を投げかけた。
「最後に一つ聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ?」
彼は私の方を振り返った。
「あなたは、誰?」
「私は…ペッカート・ディ・イーラ、憤怒の悪魔だ。イーラでも、憤怒でも、好きなように呼べばいい」
憤怒の悪魔ということは、彼は怒るのだろうか。しかし、私が見た限り彼は温厚そうな性格で、あまり怒る姿が目に浮かばない。
なんだか名詞で憤怒と呼ぶのはおかしな気がしたので、イーラと呼ぶことにした。
「じゃあイーラって呼ぶね! なんか、女の子の名前みたいだね。あ、あともう一つ聞いていい?」
「…なんだ?」
「イーラは普段どこで過ごしてるの?」
彼はなぜそんなことを聞くのだろうかと首を傾げつつも私の問いかけに答えた。
「2階の中央にある部屋だが」
「そう。…分かったわ。」
私は意味深に口角を吊り上げた。彼の居場所、それは、これから遂行する作戦のためにも重要な情報だった。
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その晩、私は眠れない夜を過ごした。枕が変わるとやはりなかなか寝付けない。でも、眠れない理由は他にもあった。
一睡もしていないため、廊下から聞こえる足音にも当然すぐに気が付いた。足音は段々と近付いてきて、ついに私が眠る部屋の前で止まった。静寂な空間に心臓の鼓動が響き渡る。カチリと鍵が開く音が聞こえ、私は思わず目を瞑り、寝たフリをした。侵入者の正体は、彼かアッチェリアかどっちだろう。足音からして、彼の方だろう。
何をしにきたのか、もしや襲いにきたのか!?
嫌な汗をかいた。場を支配する静寂に、身動き一つ取れない。しかし、彼の気配はすぐそこまで迫っていた。彼の表情などは分からないが、彼の視線が自分に注がれているのは痛いほど分かった。
やがて、彼の手が髪に触れた。かと思うとすぐに離れていった。
「…ジェルソミーナ」
彼は切なく人の名らしき言葉を呟いた。
ジェルソミーナって誰よ。聞いたことがある気がするものの、全く思い出せない。
ジェルソミーナって、誰。
私は自身の唇に躊躇いがちに柔らかい何かが触れたことを感じた。
って、今のなに!? どういうこと!? ま、まさか、き、キス、されたわけー!? 信じられない!
私は心臓の鼓動が速まるのを感じた。いきなり起きて彼に抗議したかったが、なんとなく今狸寝入りをしているのを知られてしまうのはまずい気がしたので、そのまま寝たフリを続けた。しかし、心の中はお祭り騒ぎだ。
なぜ、彼は何の前触れもなく、いきなりキスをしてきたのだろうか。私の頭の中はハテナでいっぱいだった。
やがて、彼は部屋から去っていった。それ以上何かされることもなかった。
空が白み始めた頃、私は白いネグリジェを見に纏ったまま自分の部屋を抜け出した。結局、あれからもやはり眠れることはなかった。そのまま2階の中央にある部屋に向かって進むと、鍵の束を取り出し、一切物音を立てずに扉を開けた。彼は眠っている様子だったので、安心した。
足音も立てずに悪魔が眠っているベッドに近付き、彼の姿を見て息を呑んだ。今まではフードで顔がよく見えなかったが、改めて見てみると、短い銀髪に整った顔立ち、すっきりとした鼻筋、と彼はなかなかの美貌の持ち主だったからだ。生憎目は閉じられているため、瞳の色は分からなかった。
私はしばらく彼の美貌に見惚れた。悪魔なんだから、もっと醜悪な顔かと思っていた。しかし、実際はこの世の誰よりも美しい容姿を持っていた。悪魔のくせに。それとも、この姿は仮の姿で、実際はもっと醜いのだろうか。分からない。いや、でももはやどうでもいい。なぜなら、彼はこれから殺されるのだから。私の手によって。一瞬、仮の姿だとしてもこんなに美しい人を殺してしまうのはもったいないと思ったが、目的のためには仕方がない。私は彼に向かって語りかけた。
「ねぇ、本物の悪魔より人間のほうがよっぽど悪魔らしいと思わない? ふふ、まあいいわ。これから私に命を摘み取られるあなたには関係ない話だったね」
私は不敵な笑みを浮かべると、スカートの下からナイフを取り出し、クルッと回すと、何の躊躇いもなく、彼の急所に向かってナイフを突き立てようとした。
「なっ…!」
しかし、いつの間に目を覚ましたのか、或いは元から起きてたのか、彼にナイフを持った腕を掴まれ、未遂に終わった。
彼の紅蓮の瞳に睨まれ、私は一瞬たじろいだ。彼の血のように赤い瞳は、悪魔らしいのに、なぜかとても美しかった。でも、今は見惚れている場合じゃない。私は力任せに腕を振り解き、彼と距離を取った。
「まさか、殺しにくるとはな」
彼は苦笑混じりに呟いたが、その目はしっかりとナイフを握った私を捉えていた。
「私がここから生きて帰るためには仕方がないのよ。悪魔との契約を無効にするためには、悪魔を倒すしかないわけよ!」
私はナイフを構えると、先手必勝とばかりに彼に向かって斬りかかった。しかし、感触がないばかりか、金属同士がぶつかる音が響いた。彼は自身の能力で召喚した剣で対応していた。本当に、便利な能力だ。ナイフと剣がぶつかり合う。
「人間は身勝手だ。悪魔と契約を結んでおきながら、いざ都合が悪くなったら今度は勝手に反故したがる」
「そうね…」
「さっき君が言っていたことも一理ある。人間は、時に悪魔よりもよほど悪魔らしい性を持っている」
「っ…」
話している間にも戦闘は続いている。今は辛うじて互角に戦えているが、正直彼の剣の技術が思ったより高く、一つでもミスをすれば致命傷になるであろう攻撃に対応するのに精一杯で、会話する余裕もないほどだった。しかし、彼の方は涼しい顔で剣を繰り出している。余裕があるどころか、技術的に劣っている私に対して手加減をしている風にも思える。
このままじゃ勝てない。正直、こんなに強いと思ってなかった。彼が剣を手に取る前に勝負をつけておくべきだった。でももう遅い。
気がつくと、私は壁際に追い詰められていた。後ろには窓、前には敵、左右も敵の攻撃圏内、私は完全に、詰んだ…
「終わりだ」
彼の剣が私のナイフを弾き飛ばした。武器を失い、もはやなす術もない。彼に勝つ確率は0.1%も無いだろう。でも、私は、リアは、諦めない。別に、ここで勝たなくたっていい。
「ふん、それで私を追い詰めたつもりなんだろうけど、そうはならないんだから!」
私は両手で自身のスカートを叩いた。私の行動に悪魔は顔を顰め、警戒した。私は先ほどの衝撃で落とした、事前に太もものホルダーに仕込んでおいた煙幕を彼に向かって蹴り飛ばした。彼は咄嗟に自身の剣でその物を弾き飛ばそうとした。ふふっ、計画通り。避けられたらどうしようかと思ったけど、彼はここでも計画通りに動いてくれた。剣が煙幕に触れた瞬間、部屋は煙で満たされた。
「さようなら!」
私は窓枠に手をかけ、脱出を図った。ここは二階。飛び降りるには高すぎるが、死ぬことはない。そういえば、幼少期に木に登って降りられなくなって困った時、思い切って飛び降りたことがあったっけ。あの後、どうなったんだろう。
いや、今はそんな昔のことはどうでもいい。私は、迷わず窓から飛び降りた。
「待て!」
背後から焦ったような彼の声が聞こえたが、もう遅い。私は既に宙を浮いていた。
私は風を受けながら来るべき衝撃を待った。ところが、落ちた先は硬い地面ではなく、柔らかい人の腕だった。彼に抱きとめられたのだと理解するのに時間はかからなかった。
「…なんで!? 確かに目は潰したのに…!」
「ただの煙幕だろ? 視界は塞げたとしても気配と音で簡単に感知できる。それより、怪我はない?」
「ないわよ。だから、降ろして」
「だめだ」
私は彼の腕から逃れようとジタバタもがいたが、思ったより彼の拘束が固くて逃げられない。完全に、終わった。彼に捕まってしまった。それでも抵抗を続ける私を横抱きにしたまま、彼は部屋まで移動した。
「どうしてよ!? いいから、早く降ろして!」
「だめだ。君は寝首を掻きにきたかと思えば二階から飛び降りようとする、とんだじゃじゃ馬だからね。本当なら、部屋に閉じ込めて、鍵をかけて、足に鎖を付けたいけど…」
じゃじゃ馬なんて、まるで一昔前の小説みたいな表現。私は思わずクスッと笑ってしまったが、彼の発言の後半を聞き、顔を青ざめさせた。
「い、いや…! お願い、大人しくしてるから、それだけはやめて…!」
私は抵抗をやめ、懇願するように彼にしがみついた。足に鎖をつけるだなんて、さすが悪魔が思い付きそうな常軌を逸した考えね。
「もう危ないことはしないと誓う?」
「誓う誓う! もう危ないことは絶対しないから!」
私は必死に彼の目を見てアピールした。
「よし。いい子だね」
彼は私の返答を聞いて満足そうに微笑み、私をベッドの上にまるで壊れ物を扱うように、丁寧に、そっと降ろした。私は彼が浮かべた悪魔らしくもない純粋な笑みに心を奪われかけた。
「おやすみ」
彼はベッドの脇に落ちていた花を拾うと、私のブロンドの髪に刺した。なんだか悪魔らしくもない行動に驚き、固まる私を置いて、彼は部屋を去っていった。
「ジャスミンの花…?」
彼がいなくなった後、私は鏡で髪の毛に飾られた花を見て呟いた。